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三馬路武館 〜長春八極門の「虎の穴」〜 |
| 三馬路武館の生い立ち |
| 三馬路武館とは、長春市東三馬路に周馨武(しゅう・けいぶ 1876〜1959)が |
| 設けた武館(道場)である。 |
| 周は、かつて故郷の河北省で長拳を練習していたが(翻子戳脚門ともいわれ |
| る)地元のやくざとトラブルになりこれを打ち殺してしまい、故郷を出奔した。 |
| 周にとっては、身に付けた武術こそが唯一の生活の糧であった。街頭や祭り |
| の舞台で、拳術や硬気功などの演武をしてはいくばくかの銭を稼ぐという、そ |
| んな放浪の旅の果てに、ある日周は瀋陽で李哦棠(り・がどう)に出会った。 |
| 李哦棠は神槍・李書文の子であるが、周の技を見て「それでは役に立ちませ |
| んよ」と笑ったことから腕比べになった。鉄棒で腹を打たせてもびくともしな |
| い硬気功が自慢の周だったが、李哦棠のわずか一掌で悶絶してしまい、周は李 |
| 哦棠に弟子入りを乞う。 |
| しかし李哦棠は周より20歳ちかく年下のため、代わりに父親の李書文を紹介 |
| し、ここに周馨武は47歳にして李書文の八極拳を学ぶこととなった。 |
| こうして八極門徒となった周は、11年後(1934年)に李書文の開門弟子であ |
| り溥儀皇帝の護衛官である霍殿閣を頼って長春(当時の新京)を訪れる。 |
| 苦労のあげくようやく霍殿閣に会えた周は、彼の口ききにより長春の街中に |
| 武術館を建てることを許された。霍殿閣の道場が長春市の西側にあったため東 |
| 側の三馬路に建てられたこの道場こそが、三馬路武館であった。 |
| 宮内府の要職にある霍殿閣の武館と、一民間人にすぎない周馨武の武館とで |
| は、その門下生の身分や階層も自ずから異なっていたであろう。 |
| 「周の把式房(道場)に集まってきたのはほとんどが子どもたちで、周は僅 |
| かな授業料で武術を教えて生計をたてていた」という人もいる。だが、まさに |
| その民間の子弟たちの中から、後年名人達人が続出することとなる。 |
| 三馬路武館の練習 |
| 三馬路武館の練習は、毎晩6時から始められた。子どもたちは8時に帰宅す |
| るが、大人は11時過ぎまで練習した。 |
| 周は非常に厳格で、練習中は私語はもちろんのこと、壁に掛かる武器に触れ |
| ることも許されなかったという。 |
| 21歳で周に入門した譚吉堂(1916〜)は、初めは基本功や十路弾腿、金剛八 |
| 式を1ヶ月に一式ずつ、その後小架、大八極、対打と順に習っていき、3年半 |
| ほどで八極の基本課程を終えた。その後は六大開などの上級套路や硬功、武器 |
| などを学んだが、六大開、八大招などは師に個別に呼ばれ、秘密裏に伝授され |
| た。大師兄の霍慶雲から直接教わることもあった。 |
| この頃の逸話に、こういうものがある |
| ある日、霍慶雲が煙管をくゆらせながら譚吉堂に言った。 |
| 「弟よ、なぜおまえは六肘頭を練習しないのだね?」 |
| 「師兄、肘は短くて実戦には使えませんよ。」 |
| 「ほう、そうか。なら、わしは肘しか使わないから、なんでもすきに掛かっ |
| てきなさい。」 |
| こういうやり取りの挙句、試合になった。譚も腕には自信があったので、あ |
| らゆる手で攻めたのだが、霍慶雲の強さは尋常ではなかった。「6つの技で7回 |
| 倒された」譚は素直に頭を下げ、六肘頭を練習するようになった。 |
| 譚吉堂は29歳までこの武館に所属したが、毎日6時から11時半まで練習し、 |
| 1回30分〜45分の小架を1日2回、対打は毎日20本は行なった。 |
| 現代風のいわゆるスパーリングなどはなかったが、数ある対練のなかには、 |
| 一発勝負のための練習(と筆者には思える)が数種類あった。また、仲間内で |
| は六大開の用法も研究した。 |
| また硬功は、はじめ崩弓を2年練習したが、先輩に「拳より掌のほうが、変 |
| 化が多彩で使いやすいぞ」と助言されたのを機に掌板に替え、これは7年間毎 |
| 日鍛練したそうである。 |
| 1日50本から始めて最終的には1日1,000本に至るが、そのように鍛え上げ |
| た掌で打たれると相手は、後ろではなく真上に跳ね上がるという。 |
| 筆者が見た譚老師の手は、握ると拳頭の凹凸がなくまっ平らであり、開けば |
| 異様に分厚かった。 |
| 拳、掌、前腕、指の力、体当たり、蹴り等、八極拳に必要な功力を鍛える様々 |
| な錬功具が三馬路武館には完備していた。学生たちは、ひと通り学んだあと1, |
| 2種を選択して重点的に鍛練したものと思われる。 |
| 同様に六大開などの実戦技も、各自が自分の好みや体格に応じて得意手を選 |
| んで練習した。往年の達人でいえば、王鐘金は頂肘、張玉衡は抱肘、李哦棠は |
| 朝陽手をそれぞれ得意としたという。 |
| ちなみに、背の高い人は一般的に胯打や大纏等、小さな人は頂肘や抱肘等を |
| 選ぶとよいといわれる。(理由は、習った人ならお分かりであろう。) |
| 「実用本位」それが三馬路武館、いや本来の八極門の練習の特徴であった。 |
| 道場破り |
| 騒然とした当時の世情を反映してか、ときには道場破りも現れた。 |
| 長春中の武館を荒らしまわった馬徳山という強豪が三馬路に来たときは、周 |
| 馨武は霍殿閣・慶雲の応援を仰いで撃退した。 |
| このとき霍慶雲は、顔面に飛んでくる馬徳山の拳を片手でキャッチして握り |
| つぶし、相手を激痛のあまり動けなくさせるという離れ業をみせたという。 |
| 馬はその縁で慶雲に弟子入りし、後には東京で開催された紀元二千六百年記 |
| 念の武道大会に満州国代表として来日した(1940年)。 |
| 譚吉堂をはじめ、三馬路武館の門弟たちは猛稽古の日々を重ね、みるみる実 |
| 力をつけていった。 |
| とりわけ譚吉堂は「譚快手」と異名をとるほど手が速く、なかでも得意技は |
| 六大開の一手「双纏手」であった。 |
| ある日彼が武館で練習していると、それを見ていた来客が「そんな技は使い |
| 物にならん」と笑ったので試合になった。 |
| 譚が「すきに攻めてこい」というや、男は拳で突いてきた。譚は双纏でその |
| 突きを巻き込み、踏み込んで男をフッ飛ばした。立ちあがった男は今度は蹴っ |
| てきたが、譚が双纏で再び彼を投げ倒すと、三度かかってくることはなかった。 |
| 余談だが、譚老師は筆者に「なぜ双纏をよく使ったかというと、あの技だけ |
| が相手を怪我させずに済ませられるからだ」と語られた。師爺の李書文の頃と |
| 違い、治安当局が神経を尖らせている満州国では、いくら道場破り相手だろう |
| とそうそう傷害事件ばかり起こしていられなかったであろう。 |
| また、恨みをあとに残さないためにも、無用な傷を負わさずしかも負けを認 |
| めさせる必要があることを思えば、双纏手を試合の決め技に選んだのは考えた |
| 末の選択だったのかもしれない。 |
| 霍慶雲は「こちらから相手を求めに行く必要はないが、もし誰かが我らに挑 |
| 戦してきたら、ただで帰してはいけない。」と常々言っていた。 |
| もっとも、中には勝手に他流試合に出向き、問題を起こして霍殿閣や周を慌 |
| てさせる粗忽者(?)もいたようだが・・・。 |
| 八極門の義侠心 |
| 武林の人間は義侠心が厚く、師弟の関係は実の親子より深いといわれる。仲 |
| 間が困っていたら助けるのが当たり前、と老師はこともなげに言う。 |
| 言うは易く行うは難しいこの言葉が、長春八極門では普通に実践されていた。 |
| かつて放浪者同然の周馨武が霍殿閣を頼って長春に流れ着いたとき、霍殿閣 |
| は全面的にバックアップして周の生活が成り立つよう計らったし、後年霍慶雲 |
| が貧窮にあえいでいたときは、周の弟子だった譚吉堂や趙丙南らが彼を助けた。 |
| いくら腕が立とうと、敵国の傀儡政権の中枢にあった武術家が、180度体制の |
| 変わった国のなかで生きていくのに非常な困難があったであろうことは、想像 |
| に難くない。武術を練習しているだけで反革命分子とみなされ、命にかかわる |
| 時代もあった。しかし八極門は、この恐ろしい逆風のなかを鉄の団結と密かな |
| 相互扶助で乗り切った。 |
| 世情や治安が乱れれば乱れるほど、最後に頼れるものは己が身一つと、そし |
| て信頼できる仲間だけ。老師たちの武術にかける取り組みと人間関係の濃密さ |
| には、根性とか義侠心という言葉だけでは済まされないほどの切迫したものを |
| 感じる。 |
| 事実、譚は武術界の秩序を乱す者に非常に厳しい。また、「一目見れば相手が |
| わかる」といい、譚の眼鏡に適わない者は千金を積んでも入門を許されない。 |
| 三馬路の弟子たち |
| 三馬路武館は、譚吉堂のほかにも多くの逸材を輩出した。 |
| 趙丙南(1910〜1975?)は、譚吉堂の親友で抜群の怪力の持ち主であり、八極 |
| とシュワイジャオを得意としていた。公安の大会では全国3位になったこともある。 |
| 公安局に勤めていた当時、長春を牛耳っていたマフィアのボスを単身逮捕し |
| に向かい、「一楼一帯」の技で壁まで吹っ飛ばして捕らえたという。 |
| 現在譚の師範代を勤める趙平は、10年間趙丙南に武術を教わり、趙丙南の没 |
| 後、譚吉堂の弟子となった。 |
| 斎徳昭(1920〜2000?)は、1979年南寧で開催された全国武術大会で金賞を得 |
| るなど数々の表演大会で輝かしい成績を収め、後に白求恩医科大学体育科副教 |
| 授にまでなった。八極拳に関する研究活動もさかんにおこない、「八極拳譜」 |
| (1989)等の著作もある。 |
| 陳継尭(1925〜)は、やはり多くの大会で優秀な成績を収め、武術人名辞典 |
| にもその名を連ねている。17歳から79歳の現在までその武術歴は60年以上に |
| および、今なお長春市武術館で指導の毎日をおくる。その功夫は依然として素 |
| 晴らしく、特に擒拿術に優れている。 |
| 他にも、高理和、陳金財、王学浮など主な門人だけでも百名以上にのぼる。 |
| 周馨武の功績 |
| 周馨武の没後も存続した三馬路武館だが、やがて文革の波に呑み込まれてそ |
| の姿を消した。だが、周の血脈は譚吉堂ら門人たちに受け継がれ、少数ながら |
| 現在もなお、長春には昔のままの八極拳を伝えようという人々が確かに存在し |
| ている。 |
| ありていにいえば、周馨武の武術家としての実力は霍慶雲に遠く及ばなかっ |
| たであろう。しかし、その功績には、どんな名人に比しても勝るとも劣らない |
| ものがある。 |
| 周がもしいなかったら、八極門の譚吉堂もその弟子の李英も存在せず、ひい |
| ては日本人の我々も長春八極門に関わることはなかった。 |
| また、三馬路武館がなかったら、「八極拳第二の故郷」と呼ばれるほどの長春 |
| 八極門の今日にいたる隆盛もなかったと断言できる。 |
| 三馬路武館―いまなお老師たちの口にのぼるその町道場こそ、伝説的な猛稽 |
| 古と師弟、師兄弟の固い絆をもって幾多の拳士を世に送り出し、四半世紀にわ |
| たって長春八極門の屋台骨を支えた、まさに八極拳版「虎の穴」であった。 |
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2004年8月 記 |
| (文中敬称略) |