映画音楽の歴史をさくっとまとめれば、こうなります。
ま、こんなところが映画音楽史の簡単な流れです。
★映画の誕生と伴奏音楽★
映画の誕生は、今(1995年)から100年前の1895年3月22日、パリでリュミエール兄弟が「シネマトグラフ」を上映した時にさかのぼります。もっとも、アメリカの発明王エジソンはすでに1年前の1894年4月14日に「キネトスコープ」を一般公開していたのですが、これは覗き穴方式であり、スクリーンに上映して大勢に見せる方式ではリュミエール兄弟に先を越されたのです。
「シネマトグラフ」初公開から9カ月後の12月28日の上映では、早くもピアノ伴奏が付けらました。映画は誕生と同時に音楽を伴っていたわけです。音楽の付かないサイレント映画ほど間抜けなものはありません(当時の人々自身そう言っています)。サイレント(無声)映画は、音が無いからこそ、よけいに音楽が求められたのでした。
アメリカでは1905〜1910年にかけて「ニッケルオデオン」と呼ばれる格安映画館が大流行し、映画が一般に普及し始めます。そこではピアノや小楽団が盛んに伴奏音楽を弾きまくりましたが、その音楽はベートーヴェンやメンデルスゾーン、チャイコフスキーといった既成のクラシック曲が中心でした。
★オリジナル・スコアの誕生★
映画のためのオリジナル・スコアが作曲されるようになるのは1910年前後のことです。配給会社はフィルムと一緒に、文字通りオリジナルのスコア(譜面)を配り、劇場附属の楽団がそれを映写に併せて演奏しました。だからサイレント時代のオリジナル・スコアは多くの場合、劇場楽団に合わせた少ない楽器編成で書かれています。
文学や演劇の伝統の根強いフランスでは、大作曲家サン=サーンスが『ギーズ公の暗殺』(1908)のための音楽(Op.128)を書いたのを皮切りに、多くの一流のクラシック作曲家が映画音楽を作るようになります。
アメリカでも1911年頃からオリジナル・スコアが書かれはじめ、有名なD.W.グリフィス監督の『国民の創生』(1915)、『イントレランス』(1916)にもスコアが付けられましたが、それらはフォスターやワーグナーなどの既成曲を編曲した程度の物で、ヨーロッパのスコアに比べてかなり見劣りするものでした。
★第1次世界大戦と映画★
ボスニア地方のサラエボ周辺では今(1995年現在)も悲惨な戦闘が続けられていますが、1914年6月28日にこの地に鳴り響いた銃声は、あっという間に全ヨーロッパを第1次世界大戦に巻き込みました。
戦場となったヨーロッパは災難でしたが、おかげでアメリカ経済は大繁栄し、映画産業もヨーロッパを圧倒して世界最大の規模に発展します。D.W.グリフィスの『国民の創生』や『イントレランス』によってサイレント芸術が一つの頂点を築いたのもこの頃でした。
1917年にはアメリカ合衆国も大戦に参戦します。ジャズ発祥の地ニューオーリンズは軍港となり、歓楽街ストーリーヴィルが閉鎖されたため、途方に暮れたジャズメンたちはミシシッピ川をさかのぼり、シカゴやニューヨークへと流れて行きました。こうしてジャズはアメリカ東部へ浸透して行きます。それどころかヨーロッパ戦線へ送られた黒人部隊がディキシーランド・ジャズで人気者となり、ジャズはヨーロッパを“征服”してしまいます。
第1次世界大戦の本当の勝者、それはジャズとアメリカ映画だったのです。
★サイレント映画の黄金時代★
第1次世界大戦後のアメリカに待っていたのは「狂乱の'20年代(ローリング・トゥエンティーズ)」です。
アメリカにとって1920年代は、経済が空前の活況を見せた「繁栄の20年代」であり、また「禁酒法時代」でもあり、この悪法の下に密造酒でしこたま儲けたシカゴ・ギャングどもが抗争を繰り広げる「ギャングの季節」でもあり、もぐり酒場(スピーク・イージー)でルイ・アームストロングらが活躍した「ジャズ・エイジ」でもありました。
もちろん映画熱も大変なもので、ルドルフ・ヴァレンティーノのようなセックス・シンボルが登場して「フラッパー」(断髪、口紅で煙草をくわえワインをたしなむ当時の“進んだ”女性)たちを失神させ、性解放の風潮を助長したりするものだから、アメリカ映画業界は世間の批判を浴び、自主検閲規定(レイティング・システムの前身)を作らなければなりませんでした。
しかし、こと映画音楽に関する限り、1920年代のアメリカン・サイレントには目覚ましい作品は見当りません。この時期に素晴らしいオリジナル・スコアを提供してくれたのはヨーロッパ映画でした。ヨーロッパではスコアをクラシックの著名な作曲家に依頼するのが特色でした。
ここではそれらの中から注目すべき作品を年代順に挙げておきましょう。
★トーキー革命★
時は1927年10月6日、所はニューヨーク、ブロードウェイのワーナー劇場。ここで封切られた新作映画『ジャズ・シンガー』を観た観客は皆びっくりして腰を抜かしてしまいました。スクリーンの中の人気芸人アル・ジョルスンが突然、自分たちに向かって喋り出したのです……。これが「喋る映画(トーキング・ピクチャー)」、つまりトーキーの誕生でした。
『ジャズ・シンガー』を製作したのはワーナー・ブラザーズですが、彼らがトーキー一番乗りをしたのにはわけがありました。当時アメリカの映画業界は、鉄鉱、石油に次ぐ第3の巨大産業で、映画市場は、@巨大配給会社パラマウント、A映画館経営の最大手ファースト・ナショナル社、Bメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社(MGM)の3社に支配されていました。
そんな中で、弱小映画業者ワーナー兄弟は巨大映画資本に圧迫されて倒産寸前でした。彼らには、ここでいちかばちか何か突飛なことに賭けてみる以外、生き残る道はありませんでした。そこで彼らは音の出る映画に全てを託したのです。
まず1926年8月26日に、音楽と効果音だけが付いた、いわゆる「サウンド版」の映画『ドン・ファン』が公開されました。音はレコードに録音し、それを画面にシンクロさせて再生する「ヴァイタフォン」方式でした。W.アクストとD.メンドーザ(サイレント時代のコンビ)が作って名門ニューヨーク・フィルを振った音楽が、史上最初のサウンドトラック音楽として録音されました。曲はやや薄っぺらで安易ですが、一応いっぱしのシンフォニック・スコアとなっています。
『ドン・ファン』がかなり評判になったため、ワーナー兄弟は次回作『ジャズ・シンガー』に着手しました。
『ジャズ・シンガー』も、セリフは字幕で歌だけが同時録音、というサウンド版として撮られるはずでした。ところがアドリブが得意だった主演のアル・ジョルスンときたら、歌の所で突然ぺらぺら喋り出してしまったのです。仰天した監督はあわててカットしようとしたのですが、その場に居合わせた製作部長ダリル・F・ザナック(まだ24歳)がそのまま撮影を続けさせ、こうして映画史上最初の伝説的なセリフのシーンが生まれた、というわけなのです。
トーキーの大成功によって、ワーナー・ブラザーズ(WB)は一挙に映画業界のトップに躍り出て、1929年には大手ファースト・ナショナル社を吸収しました。映画各社も一斉にトーキー路線に走ったことは言うまでもありません。
★ミュージカル! ミュージカル!★
映画に音が付くとなれば、これは、もう、「オール・トーキング、オール・スィンギング、オール・ダンシング」のミュージカル映画を作るっきゃないっ!−−と、考えることはどこも同じで、アメリカでもヨーロッパでも、スクリーンは間もなくミュージカル映画一色に塗りつぶされてしまいます。
ミュージカル映画に最も力を入れたのはMGMで、『ブロードウェイ・メロディ』(1929)は人気を博してシリーズ化されます。パラマウントは『ラヴ・パレィド』(1929)のような都会調の作品を生み、WBも『ゴールドディガーズ』(1929)シリーズをヒットさせました。また、トーキー時代到来と共に設立されたRKOラジオ映画会社(RKO)[RCAの子会社]も『リオ・リタ』(1929)を当てました。
但し、これらの大半はブロードウェイ舞台の映画化か、ヒット歌曲を詰め込んだ作品で、オリジナル・ナンバーは少なく、オーケストレーションも貧弱で、交響的な音楽としての魅力には乏しいと言わざるを得ません。ミュージカル映画が幅を効かせたのはヨーロッパでも同じことで、特にウィーン・オペレッタの伝統を生かしたドイツ・ミュージカル映画には『会議は踊る』(1931)のような名作もありますが、歌曲が中心であることには変わりません。
★劇映画には音楽がなかった★
では、劇映画の伴奏音楽はどうだったのでしょう。こちらは管弦楽を使ったシンフォニック・スコアが使われていたのでしょうか?
いいえ。実は、トーキー初期の劇映画では、劇伴音楽はほとんど使われていないのです。画面に音が付くだけで喜んでいた当時の映画関係者たちは、画面に合わせた現実音を収録してスクリーンにリアリティを与えることだけに夢中になり、音楽に対してはタイトル画面に流す主題歌くらいにしか関心を持ちませんでした。その点、フランスの監督ルネ・クレールは『巴里(パリ)の屋根の下』(1930)その他で現実音の一部として音楽をうまく使っていましたが、いずれにせよ器楽的なシンフォニック・スコアが映画で重視されることはなかったのです。
★世界恐慌とナチスの台頭★
さて、1920年代のアメリカを湧かせていた「永遠の繁栄」は、わずか10年で幕を閉じます。1929年10月24日の「暗黒の木曜日」にニューヨーク、ウォール街を突然襲った株価の暴落は、経済大恐慌の引金となりました。大統領フーヴァーが何も手を打たなかったために不況は1933年初めには銀行までが店じまいするほどの危機的状況に陥り、アメリカの全労働者の4人に1人が職を失いました。かつてのエリート・サラリーマンは今や町で靴を磨いたりリンゴを売ったりし、大勢の浮浪者が住んだ掘立小屋は「フーヴァー・ビル」と呼ばれました。不況知らずと言われた映画業界ですら、1932〜1933年には映画製作本数は激減します。
アメリカの経済パニックはたちまちヨーロッパに伝染し、世界全体が不況のどん底に突き落とされました。生活苦に喘ぐ人々は強力な指導者を求め、選んではならない選択肢を選び取ってしまいます。1933年、ドイツでナチス党が政権を握り、ヒトラーが首相となったのです。
ナチス・ドイツはさっそくユダヤ人を迫害し始めたので、多くの文化人がアメリカへ亡命し始めます。その結果、ドイツでは1934年以降、映画・音楽活動が事実上ストップしたのに対し、ハリウッドには多数のヨーロッパ生まれの芸術家が流れ込み、アメリカの映画文化に新風を吹き込むのです。
★スイング時代とミュージカル映画★
1932年のアメリカ大統領選挙では、不況をほったらかしにした現職のフーヴァーは大敗し、フランクリン・D・ルーズヴェルトが新たな大統領に就任しました。彼はいわゆる「ニュー・ディール」政策で経済再建に取り組みました。効果はまもなく現れ、経済は1933年以降少しずつ上向いてゆきます。国民の間に笑顔が戻り、映画の製作本数は増え初めました。
時あたかもラジオ放送が始まり、人々はこの新しいメディアに夢中になりました。そして、そこから聴こえてきたのがベニー・グッドマン楽団のスイング・ジャズだったのです。
さあ、それから10年ほどは全米中が猫も杓子も熱に浮かされたようにスイングスイングの大騒ぎ。ミュージカル映画も機敏にスウィング・ジャズの香りのするナンバーを取り入れたりしながら、人気を復活させました。
この時代のミュージカル映画の花形は、RKOが送り出したフレッド・アステア&ジンジャー・ロジャーズの名コンビです。『空中レビュー時代』(1933)の「カリオカ」で見せた二人の踊りが話題となり、彼らを主演にした『コンチネンタル』(1934)が撮られ、コン・コンラード作曲のフィナーレのナンバー「コンチネンタル」は第1回のアカデミー主題歌賞を受賞しました。コンビ最高作と言われる『トップ・ハット』(1935)は、I.バーリンの「頬を寄せ合い(チーク・トゥ・チーク)」などの新曲を含み、全体の音楽監督にはマックス・スタイナーが当たりました。
でも、ミュージカル映画は所詮ミュージカル・ナンバーやポピュラー・ソングの寄せ集めに過ぎず、オーケストレーションも薄っぺらだし、音楽としては安っぽいものでした。しかし間もなく、もっと充実したスコアを作ろうとする動きが起こります。
★ハリウッド各社音楽部の充実★
巨大映画会社であろうとも大恐慌時代に経営危機に陥ったことに変わりありませんでした。各社はロックフェラーやモルガンといった財閥の傘下に入り、1936年までには8大メジャー・スタジオが成立しました。8大メジャーとは、@パラマウント、AMGM、B20世紀フォックス、Cワーナー・ブラザーズ(WB)、DRKO、Eユニヴァーサル、Fコロムビア、Gユナイテッド・アーティスト(ユナイト、UA)のことです。
金融資本と一体化したこれらメジャー・スタジオは、映画という“商品”を効率的に量産していく工場でした。映画製作はプロデューサーの管理のもとで分業化され、流れ作業で作られてゆきます。こうしたシステムの下、各社には巨大な音楽部が組織されました。大量の作曲家や編曲者を集め、50人近い大オーケストラを抱えただけでなく、著作権の管理や各場面に合わせた音楽を大量にストックしてライブラリー化する仕事など、機能面でも充実されました。
音楽関係の人材はますます求められるようになります。その頃はちょうどナチス・ドイツが激しくユダヤ人を迫害し始めた頃で、ヨーロッパからユダヤ系を中心に大勢の文化人がアメリカへ亡命してきていました。例えば音楽家ではストラヴィンスキー、バルトーク、シェーンベルク、ヒンデミット、ミヨー、K.ヴァイル等が渡米してきました。ハリウッドはそうした人々を積極的に受け入れました。その結果、映画監督ではW.ディターレ、F.ラング、A.リトヴァク、R.クレール、A.ヒッチコック等、そして作曲家ではM.ローザ、E.W.コルンゴルト、F.ワックスマン、E.ゴールド、B.ケイパーらがハリウッドで働くようになったのです。
★劇映画音楽を確立したスタイナー★
このように各映画会社の音楽部が充実し、逸材が集められたことを背景に、いよいよハリウッド映画音楽の黄金時代(1935〜1955)がやってきます。古き良きハリウッドを象徴するような、あの心躍るゴージャスなフル・オーケストラ・サウンドが作られるようになるのです。
劇映画音楽(ドラマティック・スコア)の手法を開発した第一の功労者は、何と言ってもマックス・スタイナーでしょう。その功績は、@「アンダースコア」の発明と、Aライトモティーフの使用です。
「アンダースコア」とは台詞などの下に流す音楽のことで、スタイナーは、文章にアンダーラインを引くように、画面にアンダースコアを付けることで映画の劇的効果は著しく高まると考えていました。今では当り前の方法ですが、当時のプロデューサーや監督は、画面に存在しないオーケストラの音が聴こえて来るのはナンセンスだと言ってスタイナーの主張をなかなか取り上げてくれませんでした。RKOの敏腕プロデューサー、D.O.セルズニックが『六百万交響楽』(1932)で初めて、現実音ではない、劇的効果としての音楽を劇映画に流すことを認めてくれたのです。
このアンダースコアリングで大事なことは、観客が音楽に気を取られ過ぎない、ということです。それまでのミュージカルのようなメロディー主体の音楽ではかえって劇の進行を邪魔します。そこでスタイナーはメロディではなく、短いモティーフ(動機、楽句)を積み重ねた交響的な響きのスコアを付けたのです。おかげで観客は映画を観終わった後、そのシーンに一体音楽が鳴っていたかどうかすら覚えていないのですが、スタイナーはそれこそ理想のアンダースコアと考えていました。
「ライトモティーフ(示導動機)」は登場人物に特定の旋律なりモティーフなりを与えて物語の展開を暗示する方法です。これはワーグナーが彼の楽劇で使った手法ですが、スタイナーは『キング・コング』(1932)で46人編成の管弦楽の表現力を駆使し、ライトモティーフ手法を大々的に用いて効果を上げました。なお『キング・コング』の音楽は怪獣映画音楽の元祖として、伊福部昭の『ゴジラ』などに与えた影響も甚大です。
こうしたスタイナーの手法は、『風と共に去りぬ』(1939)で集大成されるのです。
★シンフォニック・サウンドの完成★
同じ頃から活躍を始めたアルフレッド・ニューマンは、M.スタイナーよりもさらに幅広い仕事を見事にこなしました。ミュージカルから恋愛劇、都会派コメディ、西部劇、戦争映画、歴史スペクタクル……と何でもこなし、本格的なクラシック調音楽からジャズ、ラテンまで、どんなスタイルの音楽も書きました。しかもそのどれもが水準が高く、生命力溢れるリズムと聴きごたえ充分のオーケストレーションを示しているのは驚きです。
しかし純粋に音楽のみに注目した場合、天才作曲家コルンゴルトの作品は他の作曲家のスコアを大きく引き離しています。それはもう、実際に聴き比べて頂ければすぐに分かることです。
ウィーンで活躍していたエーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトは、1934年以来WBのために18本の映画音楽を書き下ろしました。彼の作風はR.シュトラウスをモダンにしたような生き生きとしたもので、和声、対位法、オーケストレーション、いずれも極めて新鮮で魅力的。大オーケストラを用いているのも関わらず、響きはスタイナーより透明で色彩的です。ハリウッド音楽に刺激を与え、良質のシンフォニック・スコアの手本を示した点で、コルンゴルトは最も偉大だったと言えるでしょう。
スタイナー、ニューマン、そしてコルンゴルトらの活躍により、1930年代後半にはハリウッド映画音楽に大規模なシンフォニック・スタイルが定着しました。その様式はロマン派的です。スタイナーとコルンゴルトはウィーン出身なので、彼らを通じてドイツ後期ロマン派がハリウッドに移植されたのです。
★イギリスのシンフォニック・スコア★
イギリスでも名プロデューサー、アレクサンダー・コルダが1933年にロンドン・フィルム社を設立して以降、クラシック界の大物たちがこぞって良質の映画音楽を作るようになります。
まず1934年、ウィリアム・ウォルトン (1902〜1983) が劇映画のスコアを書き始めます。ウォルトンはブリトゥンと共に20世紀イギリスを代表する作曲家で、作風はエルガーの気品に現代的な活力とウィットを加えたものです。本領が発揮されるのは後にR.オリヴィエ監督・主演で撮られた『ヘンリー5世』(1945)、『ハムレット』(1948)、『リチャード3世』(1955)などシェークスピア史劇の音楽で、特に『ヘンリー5世』は最高傑作です。色彩感豊かな序曲「グローヴ座」、優しく悲しい弦楽のためのパッサカリア「ファルスタッフの死」、興奮と迫力に満ちた戦闘のあと、意表をつくようにカントルーヴの「オーヴェルニュの歌」の「バイレロ」の一節がオーボエに現れ、心洗われた気分にさせてくれる「突撃と戦闘」、そしてヘンリー5世の勝利を讃える輝かしい「アジャンクールの歌」など、名曲ぞろいなので、ぜひ聴いてみて下さい。管弦楽組曲盤のCDも出ています。
ウォルトンの映画音楽では他に、『スピットファイアー』 (1942) の音楽を編曲した管弦楽曲「“スピットファイア”前奏曲とフーガ」、これがかっこいいんです。輝かしく勇壮で気品に満ちたエルガー風行進曲の「前奏曲」に始まって、活発なフーガ(名戦闘機スピットファイアが工場で組み立てられてゆくシーンの音楽)が続き、前奏曲のテーマが同時演奏されてクライマックスを築き、大きく盛り上がって堂々と締めくくられるのです。
ウォルトンは『空軍大戦略』(1969)のスコアも書くはずでした。実際の映画ではロン・グッドウィンの歯切れのいい音楽が使われていますが、ウォルトンは空中戦の音楽とラストの行進曲を書きました。行進曲はかっこいいのに、映画では使われませんでした。
「ジャマイカン・ルンバ」(1938)の作曲者アーサー・ベンジャミン(1893〜1960)もA.ヒッチコック監督の『暗殺者の家』(1934)の音楽を書きました。音楽会のクライマックスに暗殺者の弾丸が発射されるという映画の設定のために、管弦楽と合唱のためのカンタータ「雷雲」をさらりと書き上げたのはさすがです。10分程度の曲ですが、主要主題がちゃんと展開され、後半の沸き上がる「救済」のモチーフと絡みつつ盛り上がり、最後の息詰まるコーダ(結尾)を導く力作です。ヒッチコックが後年この映画をハリウッドで『知りすぎていた男』(1956)としてリメイクした時、音楽はB.ハーマンに任せたのですが、クライマックスにはこのベンジャミンのカンタータ「雷雲」をそのまま使っています。E.バーンステイン指揮ロイヤル・フィルのハーマン作品集(Milan盤)に収録されています。
1936年には、色彩交響曲(1921-22)やバレー音楽「チェック・メイト」(1937)で知られるアーサー・ブリス(1891〜1975)が、H.G.ウェルズ原作・脚本、A.コルダ製作のSF大作『来るべき世界』(1936)の音楽を書き、評判を集めました。その音楽(演奏会用組曲)はレコード化され、オリジナル・スコアの最初のヒットとなりました。ブリスには他に、『クリストファー・コロンブス』(1949)という素晴らしい作品があります。
同じ1936年には20世紀イギリス最大の作曲家ベンジャミン・ブリトゥン(1913〜1976)も映画音楽に手を染めます。ブリトゥンが担当した映画音楽はほとんどが記録映画・教育映画で、代表作は『オーケストラの楽器』(1946)ですが、この曲は「青少年のための管弦楽入門(H.パーセルの主題による変奏曲とフーガ)」Op.34と言った方が有名でしょう。学校の音楽鑑賞の時間に聴かされた人も多いんじゃないですか?
イギリス民謡調を近代手法で料理して9曲の交響曲を残した巨人レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(1872〜1958)も『北緯49度』(1941)以来11本の映画音楽を書きました。そのうちセミ・ドキュメント映画『南極のスコット』(1948)のための音楽は、改編されて彼の交響曲第7番「南極交響曲」になりました。
クラシック畑以外では、舞台音楽出身のリチャード・アディンセルが「ラフマニノフのピアノ協奏曲のようなロマンティックなコンチェルトを」と頼まれて『危険な月光・(1940)のために作った「ワルソー・コンチェルト(ワルシャワ協奏曲)」が、世界的に大ヒットしました。
なお、ソ連では大作曲家プロコフィエフ(1891〜1953)がいい仕事を残しています。1933年に亡命先のパリから帰国した彼は、『キージェ中尉』(1933)[交響組曲Op.60に編曲]を手始めに映画音楽を書き始めます。特にエイゼンシテイン監督の『アレクサンドル・ネフスキー』(1938)と『イワン雷帝』(1942-45)に付けられたスコアは素晴らしく、どちらもカンタータに編曲されてクラシック作品としてよく演奏されています。
★第2次世界大戦とアメリカ国民主義映画音楽★
1939年、ナチス・ドイツは遂にポーランドに侵入し、第2次世界大戦が始まります。1941年には日本がハワイ島の真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊に奇襲攻撃をおこない、戦火は太平洋戦線にも広がります。結局戦争は1945年4月のベルリン陥落、8月の広島、長崎への原爆投下で終わるわけですが、全世界がこの悲惨な戦争で疲弊する中、国土が戦場になることが全くなかったアメリカだけが戦争中も繁栄を続け、映画も相変わらず作られ続けました。
映画音楽もロマン派風のべたりとした音楽が主流だったのですが、一方で別の新しい動きが芽生えつつありました。その動きの中核にいたのは、ヴァージル・トムソン(1896〜1989)とアーロン・コープランド(1900〜1990)という二人のクラシック作曲家です。
彼らは共に若い頃パリのナディア・ブーランジェ女史に学んでフランス近代作曲法を身に付け、のち、アメリカ民謡のイディオム(語法)を近代的に処理することで、ヨーロッパ・ロマン派の借り物ではない、真のアメリカ音楽を築こうとしました。映画音楽に真剣に取り組んだという点でも共通しています。
最初に映画音楽を書いたのはトムソンの方で、彼の『平原を破壊した鋤』(1936)の音楽は同名の組曲に編曲され、最初のアメリカニズムによる音楽としてよく演奏されます。『ルイジアナ物語』(1947)[1948年度ピューリッツァー賞音楽部門獲得]や『男たちの中の力』(1958)による組曲はさらにダイナミックです。
しかしアメリカ音楽史に占める位置からも、映画音楽に与えた影響の大きさからも、より重要なのは、アーロン・コープランド(1900〜1990)です。彼は20世紀アメリカの代表的な作曲家で、ヨーロッパのロマン主義の亜流から脱却し、新大陸の風土に育った白人の音楽を基礎に、アメリカ独自の響きを持った作品を最初に作った人物です。その硬質の響きは紛れもなくアメリカの厳しい大自然から生まれた音です。彼は1930年代後半から10年くらいの間に、管弦楽曲「エル・サロン・メヒコ(酒場メキシコ)」(1936)、バレー音楽「ビリー・ザ・キッド」(1938)、同「ロデオ」(1942)、同「アパラチアの春」(1943-44)……と次々と代表作を発表し、作風を固めていきましたが、同じ頃映画音楽も手掛け、『二十日鼠と人間』(1939)、『我等の町』(1940)などを残しています。
★コープランドの影響★
第2次世界大戦後、ハリウッドには若い世代の作曲家が多く登場し、ロマン派の遺産で食いつないでいた映画音楽に新しい風を送り込むことになります。彼らは一様にA.コープランドとジャズの影響を受けていて、その作品はアメリカ国産の音楽としての明確なアイデンティティ(個性)を持っています。
アメリカの音を“発明”した、「アメリカ印(ブランド)」の作曲家とも言うべきコープランドの独創的な音楽は、若い作曲家たちに強い影響を与えずにはいませんでした。彼の「ビリー・ザ・キッド」「ロデオ」といったバレー音楽は西部劇音楽の手本となりましたし、東部の山間地を描く映画では「アパラチアの春」そっくりの響きが用いられました。コープランド自身も『赤い仔馬』(1948)、『女相続人』(1949)など映画音楽を書き、映画音楽の分野に刺激を与え続けました。
コープランドの洗礼を受けた作曲家にはH.フリードホーファー、A.ノース、E.バーンステイン、L.バーンスタインなどがいます。
ヒューゴー・フリードホーファー(1902〜1981)はスタイナーやコルンゴルトのオーケストレーター(管弦楽編曲専門家)としての下積みが長かったのですが、ハリウッド戦後最初の名作と言われたW.ワイラー監督の『我等の生涯の最良の年』(1946)に付けた素晴らしいスコアでようやく一級作曲家と認められます。このスコア(特に和声)にはコープランドの影響が聴かれます。
『欲望という名の電車』(1951)のジャズ・スコアで衝撃のデビューを果たすアレックス・ノースはコープランド門下生です。彼はE.カザン監督『革命児サパタ』(1952)では注目すべき管弦楽スコアを書きます。
クラシック指揮者・作曲家でミュージカルや映画音楽を書くレナード・バーンスタインもコープランドの影響下にあると言えます。E.カザン監督の『波止場』(1954)の音楽など、とってもコープランドっぽいのです。
コープランドの影響はこれに留まりません。J.ゴールドスミスやJ.ウィリアムズでさえ、コープランドそっくりのスコアを書きます。20世紀後半のアメリカの映画音楽作曲家たちは全員、大かれ少なかれコープランドの影響を被っていると言えるでしょう。コープランドの乾いた無機的な音は、映画音楽を、マックス・スタイナー以来の暑苦しいロマン派サウンドの呪縛から解き放つ鋭い武器となるのです。
★移民組の活躍★
同じ頃、戦前にヨーロッパから移住してきた作曲家たちも優れた作品を次々と生み始めます。
大戦勃発と同時にハリウッドに移ったハンガリー人ミクロス・ローザは、『深夜の告白』(1944)や『失われた週末』(1945)、『白い恐怖』(1945)で見事な心理描写を行い、実力を示しました。『失われた週末』『白い恐怖』では映画音楽で初めて電子楽器テレミンを使っています。『白い恐怖』と『二重生活』(1948)ではアカデミー劇・喜劇映画音楽賞を受賞しました。
1925年に渡米したウクライナ生まれのディミトリ・ティオムキン (1894〜1974) は、『真昼の決闘』(1951)でようやく映画音楽の大作曲家としての名声を手に入れました。主題歌「ハイ・ヌーン」は大ヒットしましたが、映画のアンダースコアも重厚なシンフォニック・スタイルで書かれた力作です。その後も『OK牧場の決闘』(1957)、『リオ・ブラボー』(1959)などを手掛け、コープランドの「ビリー・ザ・キッド」スタイルとはまた別の西部劇音楽の様式を確立しました。それにしても、ロシア人が西部劇音楽の第一人者になってしまうのだから、アメリカは妙な国です。
ナチ時代にドイツから亡命したフランツ・ワックスマン(1906〜1967)は、『サンセット大通り』(1950)と『陽のあたる場所』(1951)で2年連続してアカデミー劇・喜劇映画音楽賞を受賞し、急速に注目されるようになりました。暗い中に燃え立つ情念を描く彼の音楽は、後期ロマン派を基調としながらもジャズや現代音楽の技法を消化しており、独特の魅力があります。特に『陽のあたる場所』の組曲版は絶品で、SONY盤「ハリウッドからの音楽」中の自作自演や、RCA盤「ワックスマン作品集」C.ゲルハルト指揮ナショナル・フィルで聴けますが、後者の方がお勧めです。
★MGMミュージカル黄金時代★
戦後から1950年代にかけてはMGMのアーサー・フリードが製作した大型ミュージカル映画の黄金時代です。I.バーリンの歌曲による『イースター・パレード』(1948)、L.バーンスタインのミュージカル「オン・ザ・タウン」による『踊る大紐育』(1949)、I.バーリンの同名ミュージカルによる『アニーよ銃を取れ』(1950)、G.ガーシュウィンの音楽による『巴里のアメリカ人』(1951)、既成歌曲による『雨に唄えば』(1952)、I.バーリンの歌曲による『ショウほど素敵な商売はない』(1954)などが目白押しでした。
★ヴィクター・ヤングと映画主題歌★
この時代の人気作曲家にヴィクター・ヤング(1900〜1956)がいます。1940年以降パラマウント映画を中心に多くの映画音楽を手掛けましたが、彼の音楽の素晴らしさは何と言ってもその魅力的な旋律に尽きます。『呪いの家』(1944)の「星影のステラ」、『ラヴ・レター』(1945)の「ラヴ・レター」、『黄金の耳飾り』(1947)の「ゴールデン・イヤリング」、『愚かなりわが心』(1950)の「マイ・フーリッシュ・ハート」、『シェーン』(1953)の「遥かなる山の呼び声」、『大砂塵』(1954)の「ジャニー・ギター」……など、映画の主題歌は軒並大ヒットしました。ただ惜しむらくは彼が軽音楽畑出身のせいか、シンフォニックな厚みに欠けることが玉に傷ですが、彼の最高傑作『80日間世界一周』(1956)では、素晴らしい主題曲「アラウンド・ザ・ワールド」以外のアンダースコアでも見事な手腕を見せてくれました。この作品は1956年度アカデミー劇・喜劇映画音楽賞を受賞しましたが、V.ヤングは受賞決定直前に亡くなってしまいました。
D.ティオムキンやV.ヤングのおかげで、1950年代の前半には映画の主題歌がヒットするようになります。ただ、単純で覚えやすいメロディーのテーマ・ソングが売れるようになると、映画の製作者たちは主題歌ばかりに力を注ぐようになり、アンダースコアを軽視するようになります。「映画音楽」=「主題歌」という我々がうんざりする図式は、この頃から確立するのです。
★メジャー・スタジオ凋落の始まり★
1950年代に入ると、ハリウッド映画業界は大変な苦境に陥ることになります。それは、@赤狩り、A独禁法、Bテレビの脅威の三重苦が一斉に襲ってきたからです。
赤狩り(レッド・パージ)は、東西冷戦の激化を背景に、全米で起こった共産主義者追放運動で、ハリウッドでも多くのプロデューサー、監督、脚本家が槍玉に挙げられ、自由な映画製作が出来なくなりました。パージの嵐は1947〜1957年の間ハリウッドに吹き荒れます。
その一方で、独占禁止法は1948年の最高裁判決で映画産業の巨大化を違法と決めつけ、映画会社の興行部門は1950年代に製作・配給部門から分割されました。これも映画会社の経営を弱体化させました。
しかし映画産業にとって最大の脅威は、テレビの家庭進出でした。特に1949〜1952年にかけてテレビは爆発的に各家庭に普及し、映画の観客をごっそりと奪い去ったのです。
危機感を強めた映画各社はテレビには出来ない映画の魅力を強調しようとして、画面を大きくしたり(シネラマ、シネマスコープの登場)、物量を投入してスペクタクル映画を作ったりします。しかし映画メジャーの経営悪化を防ぐことは出来ませんでした。
その結果、客を集めやすい低予算SF・恐怖映画が粗製乱造されると同時に、予算削減のしわ寄せが音楽部に向けられました。サウンドトラックは次第に手抜きをされ、ひたすら主題歌のヒットを狙ったような映画が多くなってくるのです。
★史劇スコアの成立★
テレビへの対抗策として、1950年代には大型歴史スペクタクル映画なるものが作られるようになります。そうすると、その大画面のパワーに負けないシンフォニック・スコアが求められるようになります。
この要求に最初に答えたのは、M.ローザでした。1951年の『クォ・ヴァディス』で、彼は今後の歴史スペクタクルの手本となるようなスケールの大きい音楽を書きました。
1953年には20世紀フォックスが大画面の「シネマスコープ」第1作として製作した『聖衣』のために、アルフレッド・ニューマンが音楽を作りました。これも壮大なシンフォニック・スコアの名曲です。
1954年の『エジプト人』の音楽は、A.ニューマンとB.ハーマンの合作でした。
史劇スコアはこうした先人たちの努力で次第に形を整えてゆきました。
★ジャズ、ロックの進出★
1955年−−この年は様々な意味で映画音楽にとって重要な年となります。まず何よりも、この年には映画音楽に大々的にジャズとロックが登場してきたのでした。
O.プレミンガー監督が麻薬を取り上げた問題作『黄金の腕』(1955)で、ショーティ・ロジャーズ(トランペット)やシェリー・マン(ドラムス)といったウェスト・コースト・ジャズの代表的なプレーヤーを起用した本格ジャズ・スコアが登場しました。ウェスト・コースト・ジャズは、1950年代前半に赤狩り旋風で東部から避難してきたジャズ・メンたちが西海岸で生んだ知的でクールなスタイルです。全体のスコアを担当したのはエルマー・バーンステインで、これが彼のデビュー作でした。この作品以降、ジャズを全面的に使った映画音楽が急速に増えていきます。チコ・ハミルトンを使った『成功の甘き香り』(1957)とか、デューク・エリントンが音楽を書いた『或る殺人』(1959)とか……。
同じ1955年の『暴力教室』には、前年に大ヒットしたビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツのロックン・ロール「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がフィーチャーされ、話題となりました。ロックン・ロールの誕生はポピュラー音楽史上の革命的事件ですが、黒人のR&B(リズム・アンド・ブルース)に熱狂する白人ティーンエイジャーが、強烈なビートに支配されるこの熱狂的な音楽を生み出したのは1954年頃のことですから、映画はロックを誕生と同時にいち早くスクリーンに取り入れたわけです。
ジャズとロックの映画音楽への進出−−これは映画音楽の軽量化、シンフォニック・スコア衰退への第1歩でした。
★ジェームズ・ディーンとレナード・ローゼンマン★
また、1955年は『エデンの東』『理由なき反抗』でレナード・ローゼンマン(1924〜 )がデビューした年でもあります。シェーンベルク、ダッラピッコラ、セッションズなどに師事して前衛音楽を作曲していたローゼンマンが映画音楽の世界に入った事情は、次のようなものでした。
1950年代初め、音楽教師の仕事をやっていたローゼンマンの生徒の中に、当時ニューヨークのアクターズ・スタジオ(映画監督エリア・カザンが設立した俳優学校)に通っていたジェームズ・ディーンがいました。ディーンは、『エデンの東』の主役に決まると、監督のE.カザンに音楽担当者としてローゼンマンを推薦しました。ところでローゼンマンは元来が現代音楽作曲家だったので、この映画の音楽も無調性のポリフォニックなものにしたいと言いましたが、カザン監督にだめだと言われ、仕方なく書いたのが、あの、世にも美しいテーマ曲だったのです。この美しいメロディーはV.ヤングの素晴らしいアレンジで大ヒットしたので、この編曲で知っている人が多いのではないでしょうか。『理由なき反抗』では念願かなって無調スコアを書くことができました。その後も『ミクロの決死圏』(1966)、『続・猿の惑星』(1970)などで前衛的な響きを聴かせてくれましたが、『スター・トレック4 故郷(ふるさと)への長い道』(1986)や『ロボコップ2』(1990)ではずいぶん分かりやすい音楽を書くようになりました。どうしちゃったの?
★大作映画相次ぐ★
映画産業の経営は悪化し、ハリウッドは衰退の一途を辿っていました。各社は相変わらず大作を次々と作り、社運を賭けました。
ミュージカル映画は相変わらず盛んで、『回転木馬』(1955)、『オクラホマ!』(1955)、『王様と私』(1956)、『南太平洋』(1958)、『恋の手ほどき』(1958)などが作られましたが、これらの原作はほとんどR.ロジャーズとO.ハマーステイン2世原作のブロードウェイ・ミュージカルです(『恋の手ほどき』だけはF.ロウ&A.J.ラーナー)。映画のためのオリジナル・ミュージカルは作られなくなりました。
『80日間世界一周』(1956)が70ミリトッドAOシステムで上映されのもこの頃。音楽はV.ヤング。
史劇スペクタクルでは『ピラミッド』(1955)、『十戒』(1956)、『ベン・ハー』(1959)などの大作が作られました。『ピラミッド』にはティオムキン、『十戒』にはE.バーンステイン、『ベン・ハー』にはローザが音楽を付けました。
西部劇も大型化しました。
巨匠W.ワイラー監督の『大いなる西部』(1958)は、新しい時代の到来を告げる新鮮なタッチの異色西部劇でしたが、映画の内容にふさわしく、ジェローム・モロス(1913〜1983)はさわやかでダイナミックなシンフォニック・サウンドを繰り広げました。モロスは他にも『枢機卿』(1963)、『大将軍』(1965)などで、雄大かつ暖かいスコアを披露しています。
ジョン・ウェイン製作・監督の『アラモ』(1960)は映画としては少々凡庸でしたが、D.ティオムキンの音楽はバラエティに富む大変な力作で、彼の西部劇音楽の代表作と呼べるでしょう。大管弦楽を使ったシンフォニック・スコアから、民俗調の「皆殺しの歌」、ア・カペラ(無伴奏)のコーラスによる優しくソフトな「テネシー・ベイブ」、そしてフォーク・バンド「ブラザース・フォア」が歌う「遥かなるアラモ」など、実に多彩で楽しめます。
シネラマ超大作『西部開拓史』(1962)にはA.ニューマンが勇壮な音楽を書いています。
★ヒッチ=ハーマンの黄金時代★
1950年代後半から60年代前半のハリウッドで忘れてならないのは、ヒッチコック映画に付けられたバーナード・ハーマンの音楽です。
強烈な表現力を持つハーマンの音楽は、サスペンスとロマンに満ちたA.ヒッチコック監督の一連のスリラー映画と一緒になった時、本領を発揮します。ハーマンはまず、『ハリーの災難』(1955)では乾いた音色で映画のブラックユーモアを強調して見せ、『間違えられた男』(1957)ではA.ベンジャミンのカンタータ「雷雲」をロイヤル・アルバート・ホールで演奏する指揮者として映画の中のポスターに本名を出したり、実際に画面に登場して指揮したりして笑わせてくれました。彼が本当の実力を見せるのは『めまい』(1958)の陶酔するような愛のテーマあたりからで、『北北西に進路を取れ』(1959)のめまぐるしいサスペンス・スコアや、『サイコ』(1960)の異常に緊迫した音楽は、大変に優れたものでした。『北北西に進路を取れ』ではフル・オーケストラのカラフルな音楽を書く一方、『サイコ』では、幾パートにも分奏された弦楽器群のみによるモノトーンの音楽を用い、白黒の画面にぴったりマッチさせているのはさすがと言うほかありません。
ヒッチ=ハーマンの共作はさらに、切迫した中にも美しい『マーニー 赤い恐怖』(1964)を生みますが、次の『引き裂かれたカーテン』(1966)では、「売れる主題歌を」と求めるユニヴァーサル社の圧力にヒッチコックが屈してハーマンのスコアを没にしたため、二人の長年にわたる協力関係は終わりを告げるのです。
★ヌーヴェル・ヴァーグのスコア★
1953年にソ連の独裁者スターリンが死に、1956年に書記長フルシチョフがスターリン批判を行なったため、米ソ間に雪解けムードが高まります。人々は時代の変化を敏感に読み取り、映画にも新しい表現が現れます。
1957〜1960年頃にフランスに起こった「ヌーヴェル・ヴァーグ」と言われる映画界の新しい波は、サウンドトラックにも新しい感性を持ち込みます。それは一言でいえばアンチ劇映画スコア、アンチ・シンフォニック・スタイルでした。『死刑台のエレベーター』(1957)や『大運河』(1957)は全編ジャズに埋め尽くされ、『恋人たち』(1959)や『二重の鍵』(1959)はブラームスやモーツァルトをそのまま用いました。
こうした手法は、優れた監督がやれば効果的なのですが、実際には無能な監督が映画コストを安く上げるためにヌーヴェル・ヴァーグの真似を始め、やたらジャズやクラシックの既成曲が氾濫する結果となり、オリジナルの映画音楽の衰退に拍車が掛かってしまいました。
しかし、ヌーヴェル・ヴァーグは映画音楽の歴史に大きな貢献もしています。それは、ドルリュー、ルグラン、レイらの発掘です。
ジョルジュ・ドルリュー(1925〜199 )の音楽は地味ですが、限りなく深い味わいを持っています。音色は常に柔らかく、一種の寂しさとそれを慰める優しさに満ちていて、ここにフルートやオーボエや、あるいはチェンバロなどできらっと光るように乗せられるメロディの美しさは例えようもありません。F.トリュフォー作品に秀作が多く、『恋のエチュード』(1971)、『逃げ去る恋』(1978)、『終電車』(1980)、『隣の女』(1982)などが素晴らしいスコアです。
それに対してミシェル・ルグラン(1932〜 )はジャズから管弦楽までをこなす才人で、美しいミュージカル映画『シェルブールの雨傘』(1963)が事実上のデビューです。
フランシス・レイ(1932〜 )は元々シャンソン・ライターで、エディット・ピアフやイヴ・モンタンの伴奏者だったこともあります。C.ルルーシュ監督の『男と女』(1966)で映画音楽にデビュー、『パリのめぐり逢い』(1967)や『白い恋人たち』(1968)で人気を高めます。ただ、レイの音楽はセンチメンタルなメロディが中心なので、単調になりがちです。この欠点を補うために最近では専門のオーケストレーター(管弦楽編曲家)を雇い、オーケストレーションに工夫を凝らしているようで、『黒い瞳』(1987)などでは響きに厚みが出てきました。
★「オフ・ハリウッド」の時代★
1960年代になると、ハリウッドの没落が進むのとは対照的に、ヨーロッパ映画がますます調子を上げてきます。それに連れてヨーロッパの作曲家もすぐれた映画音楽を生むようになってきます。
イギリスでは「007」シリーズが作られ、世界的なヒットとなります。このシリーズの音楽を担当したジョン・バリーの名も国際的に有名になってゆきます。
また、デヴィッド・リーン監督の名作『アラビアのロレンス』(1962)では、フランス人モーリス・ジャールが起用され、荒削りながらエキゾティックな魅力溢れる主題曲でアカデミー作曲賞を取りました。ちなみにこの映画の音楽は最初はミュージカル作曲家リチャード・ロジャーズが担当するはずでした。BBCのテレビ・ドキュメンタリー『悲劇の海戦史』(1952)などに立派なオケ・スコアを付けたロジャーズの実績を買われてのことでしたが、彼のスケジュールの都合がつかなかったため、ジャールにおはちが回ってきたという次第だったのです。
それから、テレビで『海底大戦争/スティングレイ』(1962)、『サンダーバード』(1964)、『キャプテンスカーレット』(1967)、『スーパー少年・ジョー90』(1968)、『謎の円盤UFO』(1972)などの音楽を書いた逸材バリー・グレイが最も活躍したのもこの頃です。『サンダーバード』は子供向け人形劇だったのに、グレイは手抜きをせず、フル・オーケストラ・スコアを書きました。テーマ曲のなんと健康的でさわやかなこと! 晴やかなオーケストレーションと鮮やかな転調が国際救助隊の最新メカにふさわしく、胸をわくわくさせてくれました。
イタリアでは、すでに1950年代からニーノ・ロータ(1911〜1979)がF.フェリーニ監督と組んで『道』(1954)などの質の高い作品を発表しています。ロータはクラシック作曲家としてしっかりした音楽的素養を持っている上、泣かせるメロディを書けるので大衆的人気も集めました。『太陽がいっぱい』(1960)がヒットしますが、むしろ彼の音楽の良さはF.ゼフィレッリ監督との『じゃじゃ馬ならし』(1967)や『ロミオとジュリエット』(1968)に出ているように思います。
一方、いわゆる“マカロニ・ウェスタン[欧米ではスパゲッティ・ウェスタンと呼ばれた]”ブームを通じて、エンニオ・モリコーネも頭角を現してゆきます。また、痛快なイタリア映画『黄金の七人』(1965)には、才人アルマンド・トロヴァヨーリがスキャット風のしゃれたジャズ・スコアを提供して話題になりましたが、最近また渋谷系あたりでリバイバル・ヒットしているようです。
★ハリウッドも頑張る★
1960年代前半のハリウッドは、確かにヨーロッパ勢に押され四苦八苦していましたが、それなりに頑張っていました。
20世紀フォックスの大プロデューサー、D.F.ザナックは自ら陣頭指揮に立って『史上最大の作戦』(1962)を大成功に導きます。音楽を担当したのはM.ジャール(但し有名なマーチはポール・アンカ)で、その実績が『アラビアのロレンス』での起用につながりました。
ザナックは続いて世紀の超大作『クレオパトラ』(1963)を仕上げますが、これは結局世紀の失敗作となり、フォックスは経営危機に陥ってしまいます。音楽はアレックス・ノース。
しかしノースの史劇スコアとしては、これよりもS.キューブリック監督の『スパルタカス』(1960)の方が優れています。これは傑作で、ノースの現代的な手法が劇の内容と見事に一致して質の高い音楽を生みました。
ノースの音楽は基本的には難解です。『アンチェインド』(1955)の主題曲「アンチェインド・メロディ」のように美しいメロディを書くことも出来るのですが、プロコフィエフにのめり込んだり無調・12音技法のE.トッホやA.コープランドに学んだ経歴から分かる通り、彼は前衛−−とまではいかなくても、現代的な手法を自らのイディオム(語法)としていて、安易に妥協することはしません。例えば、ジョン・フォード監督の異色西部劇『シャイアン』(1963)でも、インディアン民謡に特徴的な4度上昇・3度下降のモティーフを彼独特の和声・変奏法によって展開しているため、最初はなかなか耳に馴染みません。でも内容が濃いので繰り返し聴くに連れ味が出て来るのです。『スパルタカス』は、そんなノースの本格作品群の中では比較的親しみやすいので、お薦めです。
エルマー・バーンステインが『荒野の七人』(1960)、『大脱走』(1963)などの名スコアを書くのも注目されます。
アーネスト・ゴールド(1921〜 )が頭角を現してくるのもこの頃です。『渚にて』(1959)でオーストラリア民謡「ワルツィング・マティルダ」を素材にシンフォニック・スコアを書いて実力を認められた彼は、『栄光への脱出』(1960)で最高にかっこいい曲を書きました。シンフォニック・スコア・ファンならずとも感動する力強い音楽です。
ミュージカル映画ではブロードウェイ舞台の映画化『ウェスト・サイド物語』(1961)、『マイ・フェア・レディ』(1964)、『サウンド・オブ・ミュージック』(1965)などが大ヒットしますが、これを最後に大型ミュージカル映画の時代も終わりを告げます。
さて、映画製作の国際化は進み、ハリウッドは資金と配給網だけ受持ち、作品自体はヨーロッパが作るという映画も増え、ハリウッド以外の作曲家が活躍する場も多くなりました。D.リーンが監督した『ドクトル・ジバゴ』(1965)ではリーンお気に入りのジャールが音楽を書き、「ララのテーマ」がヒットしてアカデミー作曲賞を取ります。また、イタリアの大プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスが製作した『天地創造』(1966)では、日本の黛敏郎が素晴らしいシンフォニック・スコアを書いてアカデミー作曲賞にノミネートされました。
★マンシーニ登場!★
しかし、1960年代のアメリカの映画音楽をリードしたのは、何と言ってもヘンリー・マンシーニ(1924〜 )です。50年代終わり頃からテレビ音楽出身者が映画界に入ってくるようになりましたが、マンシーニもその一人で、NBCテレビ・ドラマ『ピーター・ガン』(1958)のビートの効いた主題曲の大ヒットで認められ、1960年代にブレーク・エドワーズ監督の諸作品に付けたおしゃれな曲の数々でたちまち映画界随一の人気者となりました。『ティファニーで朝食を』(1961)、『ハタリ!』(1961)、『酒とバラの日々』(1962)、『シャレード』(1963)、『ピンクの豹・(1964)……と毎年のように後世に残る名曲を生んだのだから、マンシーニの才能には恐れ入ります。
マンシーニの音楽の魅力は何よりも、明快で覚えやすいメロディです。それを、ジャズ&ポップス風の軽いタッチでアレンジしたところに人気の秘密があったのです。
マンシーニが映画音楽のスタイルに与えた影響は大変大きいものでした。マンシーニ以降、サウンドトラックは軽音楽に占められ、厚ぼったい管弦楽は全く流行らなくなりました。シンフォニック・スコアはますます嫌われる時代となったのです。
★既成曲の氾濫★
1962年のキューバ危機で東西雪解けが幻想に終わり、1963年にケネディ大統領が暗殺されてからは、アメリカは混乱し始めます。1965年の北ベトナム爆撃以降、ベトナム戦争は泥沼化し、国内では公民権運動、ブラックパワー、反戦運動、麻薬が荒れ狂い、アメリカの荒廃はとどまるところを知りません。その間ドルの価値も下がり、ニクソン・ショック(1971)を引き起こします。1973年には第1次石油ショック、1974年にはウォーターゲート事件でニクソン大統領が辞任、アメリカ国民はすっかり自信を失ってしまうのです。
アメリカ社会の混迷に呼応するように、若い独立系のプロデューサーたちは1967年頃から新しい感覚の映画を作ります。『俺たちに明日はない』(1967)、『卒業』(1967)、『イージー・ライダー』(1969)、『明日に向かって撃て!』(1969)など、いわゆる「ニュー・シネマ」と言われるものがそれで、音楽もポップス、ロック系や既成曲(クラシック曲、オールディーズなど)を使用する、などの特徴がありました。
しかし、既成曲の使用・音楽の軽量化は何もニュー・シネマに限ったことではなく、当時の映画音楽全体がそうした方向に傾きつつあったのです。
例えば、S.キューブリック監督は『2001年宇宙の旅』(1968)で、A.ノースのシャープな秀作スコアをボツにして、あえてリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」Op.30などクラシック音楽をそのまま使いました。確かに、映画の効果としては見事だったけど、優れたオリジナル・スコアを埋もれさせてしまったことは問題でした。
『スティング』(1973)がS.ジョプリンのラグタイム、『アメリカン・グラフィティ』(1973)が昔のポップス・ヒット曲(オールディーズ)を集めたサウンドトラックで成功したことは、こうした傾向に拍車を掛けました。これ以降、大部分の映画製作者は音楽などは町で売ってるレコードからの引用と、2、3曲売れそうな歌を若者のバンドに演奏させるだけで済ませ、誰も高い金を払って作曲家にオリジナル・スコアを書かせてオーケストラで演奏・録音しようとは思わなくなりました。
1970年代には映画作曲家もジャズ、ポップス、ロック畑から捜されるようになります。そうして抜擢されたのがL.シフリン、J.フィールディング、M.ハムリッシュ、B.バカラック、D.シャイア、B.コンティ、D.グルーシンらでした。
彼らは出身母体こそ軽音楽ですが、オーケストラ・スコアを書き上げるほどの実力を有していました。中でも大きな存在だったのは、ビル・コンティ、ラロ・シフリン、そしてデイヴィッド・シャイアです。
ロード・ムービーの走りのような『ハリーとトント』(1974)へのほのぼのとしたスコア付けで頭角を現したビル・コンティは、1976年の『ロッキー』のテーマで大ブレイクしましたが、当時流行のデスコティック音楽のリズムを用いたこの曲は、コンティのほんの一面しか表していません。もう一つの顔---シンフォニック・スコア・メーカーとしてのコンティの姿は、『勝利への脱出』(1980)でかいま見え、1983年の『ライトスタッフ』で全開しました。この作品でコンティはアカデミー作曲賞を受賞します。
南米アルゼンチン生まれの作曲家ラロ・シフリンは大変器用な作曲家で、『スパイ大作戦』(TV)、『ダーティハリー』(1971)、『燃えよドラゴン』(1973)など、ありとあらゆるジャンルの音楽を書きまくっていますが、1960年代からの長い下積みの経験を生かし、『暴力脱獄』(1967)のように密度の濃い作品や、『四銃士』(1974)のようにオーケストラを洒脱に用いたもの、『鷲は舞い降りた』(1976)のように重厚な戦争スコアなど、優れた音楽も少なくありません。
ソング・ライター出身のデイヴィッド・シャイアは、より地味な存在ですが、最も魅力的と言っていいかも知れません。『サブウェイ・パニック』(1974)でジャズ・バンドに12音技法に基づくサスペンス・スコアを演奏させたシャイアは、『さらば愛しき女(ひと)よ』(1975)では、限りなくメロウでジャジーな音楽を書きます。これは紛れもなく彼の最高傑作の一つで、そのほの暗い音楽にはすっかり酔わされてしまいます。そして『2010年』(1984)では、宇宙での単調なシンセサイザー・スコアと対照的に、第二の太陽が誕生する感動的なラスト・シーンのために、フル・オーケストラによる壮大な曲を書いたのです。翌1985年の『オズ』では、軽妙で不思議な、素晴らしいスコアを繰り広げています。
★ヨーロッパの作曲家のハリウッド進出★
この時代に目立ったのは、ヨーロッパの作曲家がハリウッドで映画音楽を書き始めたことです。
例えば、J.バリーは『真夜中のカーボーイ』(1969)で、E.モリコーネも『ウェスタン』(1969)や『シシリアン』(1969)でアメリカ市場参入を果たしました。
M.ルグランは『華麗なる賭け』(1968)の「風のささやき」でアカデミー主題歌賞を取り、『おもいでの夏』(1971)では素晴らしくムードのある曲を書いてアカデミー劇映画作曲賞を取りました。『三銃士』(1973)(これはイギリス映画)での華麗なオーケストラ・スコアも魅力的でした。
F.レイも『ある愛の詩』(1970)でアカデミー作曲賞を獲得。
N.ロータは『ゴッドファーザー』(1972)や『ゴッドファーザー PARTU』(1974)の音楽を書き、『PARTU』はアカデミー作曲賞を贈られました。
G.ドルリューは『イルカの日』(1973)、『リトル・ロマンス』(1979)(アカデミー作曲賞)を手掛け、特に『イルカの日』メイン・タイトルの美しさ、悲しさは忘れることが出来ません。
しかし、彼らの陰では、昔ながらのシンフォニック・スコアの名手たちが活躍の場を失い、慣れないジャズやロックに手を染めていました。
★ゴールドスミスの登場★
こうした逆境にありながら、めきめきと頭角を現した怪物のような作曲家がいました。ジェリー・ゴールドスミス(1929〜 )です。
他の作曲家たちが軒並ポップス系の音楽になびいていた中、ゴールドスミスは持ち前の荒々しく男っぽい、硬質で乾いた鋭いトーンを逆に売り物にして、『ブルー・マックス』(1966)、『猿の惑星』(1968)、『刺青の男』(1969)、『パットン大戦車軍団』(1970)、『パピヨン』(1973)、『チャイナタウン』(1974)、『風とライオン』(1975)……などの優れたスコアを提供し続けてきました。この時期の作品はかなり現代的な手法を使い、甘ったるいムードをクールな客観性とパワーで断ち切っているのが印象的で、個人的には『ブルー・マックス』『パットン大戦車軍団』『風とライオン』あたりが傑作と思っています。
ちなみに、彼の作曲の先生M.カステルヌオーヴォ=テデスコ(1929〜1968)はユダヤ系のため1939年にイタリアから渡米したクラシック作曲家で、そのギター協奏曲第1番ニ長調Op.99(1938)は名曲としてよく演奏されます。ビヴァリー・ヒルズに住み、1946年からロスアンジェルス音楽院で作曲を教えたため、ハリウッドの映画音楽作曲家には彼の指導を受けた人が多く、H.マンシーニもその一人です。
★パニック映画とJ.ウィリアムズ★
1970年代にはパニック映画と呼ばれる一連のスペクタクル映画が作られました。英語では「ディザスター(災害)映画」と呼ばれ、大災害に遭遇した人々を描くスケールの大きい作品で、音楽も当然それにマッチするパワーのあるものが求められます。
『大空港』(1970)がパニック映画の走りでしたが、ここに付けられたA.ニューマンの音楽は巨大で力強く、素晴らしいものでした。
ニューマンに負けないスコアを書ける逸材として登場したのがジョン・ウィリアムズ(1932〜 )でした。『ポセイドン・アドベンチャー』(1972)、『大地震』(1974)、『タワーリング・インフェルノ』(1975)、『ジョーズ』(1975)など、いずれも優れたスコアばかりで、『ジョーズ』はアカデミー作曲賞を受けました。何本ものパニック映画のアンダースコアリングを経て、ウィリアムズは現代のシンフォニック・スコアの第一人者となるのです。
★『スター・ウォーズ』の衝撃★
1977年にSF大作『スター・ウォーズ』が公開された時、人々は画面だけでなく、その音楽の素晴らしさに唖然としてしまいました。86人編成のロンドン交響楽団が演奏するJ.ウィリアムズのフル・オーケストラ・サウンドは、大管弦楽が迫力あるフォルティッシモで壮大な主題を響かせるシンフォニック・スコアのカタルシス(快感)を、久し振りに人々に教えてくれたのです。それまで貧弱なバンド音楽のサウンドトラックばかり聴かされてきた映画ファンにとって、オリジナル・シンフォニック・スコアの再登場は、どれほどの衝撃だったでしょうか。
伝統的なシンフォニック・スコアが復活した背景には、SFX(特殊効果)の目を見張る発達があります。驚異のSFX映像に負けないためには、フル・スケールの管弦楽の音が必要だったのです。ウィリアムズのシンフォニック・サウンドは、電子楽器やシンセサイザーよりも宇宙の広さを感じさせてくれました。
もちろん“伝統的シンフォニック・スコア”と言っても、ウィリアムズのスコアはただ単に昔のハリウッドの色調過剰のオーケストラ・サウンドに戻ったのではありません。様々な現代的手法を消化し、所々ぴりりと辛味をきかせ、よりパワフルになったシンフォニック・スコアなのです。
その後至るところでものすごい勢いでシンフォニック・スコアが書かれ始めたことは言うまでもありません。これ以降、映画音楽の歴史は新しい段階に入ったのです。
★SF、オカルト映画ブームとシンフォニック・スコア★
SFX技術は発達したものの、1978年末のイラン革命をきっかけに第2次石油ショックが到来して世界は不況のどん底に叩き落とされ、1979年にはソ連がアフガニスタンに侵攻して冷戦が再燃するなど、世の中は暗いニュースばかり。現実を忘れるようなSFXを利用したSFやらオカルトやらがたくさん作られるようになり、それに応じてシンフォニック・スコアの注文も多くなりました。
大御所となったJ.ウィリアムズは、『未知との遭遇』(1977)、『スーパーマン』(1978)、『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』(1980)、『レイダース/失われたアーク≪聖櫃≫』(1981)、『E.T.』(1982)、『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』(1983)……など、色彩的でスケールの大きい名作を次々に生んでいきます。
一方、ハードなシンフォニック・スコアをこなせるJ.ゴールドスミスも引っ張りだこで、『オーメン』(1976)に始まり、『オーメン2/ダミアン』(1978)、『スター・トレック』(1979)、『エイリアン』(1979)、『アウトランド』(1981)、『オーメン/最後の闘争』(1981)、『ポルターガイスト』(1982)、『サイコU』(1983)、『トワイライトゾーン 超次元の世界(体験)』(1983)、『スーパーガール』(1984)……と、もう、ゴールドスミスの作品を挙げていったらきりがないんですが、これらの中では、シンフォニックなスケールの大きさを求めるなら『オーメン/最後の闘争』、メロディの純真素朴な美しさなら『ポルターガイスト』、最もゴールドスミスらしいスコアなら『トワイライトゾーン』の「高度2万フィートの悪夢」がよろしいでしょう。あと、SFじゃありませんが、『大列車強盗』(1979)の管弦楽の扱いも見事です。
それ以外にも、例えばステュー・フィリップスの『宇宙空母ギャラクティカ』(1878)とか、ローレンス・ローゼンタールの『メテオ』(1979)とか、ジョン・バリーの『ブラック・ホール』(1979)とか、ジョン・スコットの『ファイナル・カウントダウン』(1980)とか、クレイグ・サファーンの『スター・ファイター』(1984)とか、雄大な管弦楽スコアの傑作がいろいろ生まれました。
★ベテランの活躍★
1980年代には、ウィリアムズやゴールドスミス以外にも多くのベテラン作曲家が、この時代を待っていたかのように、優れたシンフォニック・スコアを書き始めます。
『ひまわり』(1970)で見事なドラマティック・スコアを書いたH.マンシーニは、『料理長(シェフ)殿ご用心』(1978)でもしゃれたゴージャスなオーケストラ・サウンドを聴かせてくれましたが、1980年代に入ると『サンタクロース』(1985)、『スペースバンパイア』(1985)などの本格的なシンフォニック・スコアの秀作を発表します。
若い頃はどちらかというと異端児だったE.モリコーネは、まるでクラシックのような質の高い音楽を作り始めます。『天国の日々』(1978)の、文字通り天上の音楽のような美しさは、何なのでしょう。『サハラ』(1984)のテーマ曲も、巧妙な転調と楽器用法のおかげで、オアシスのようなすがすがしさです。そして、『ミッション』(1987)。敬虔なミサの合唱に、神父ガブリエルの吹く美しいオーボエが重なり、南米の打楽器が野性的なリズムを打ち始める……。大自然と人間の祈りが融合した雄大な音楽は、モリコーネの代表作の一つでしょう。一方『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)では、小編成ながら泣かせてくれます。
N.ロータもこの頃『ナイル殺人事件』(1978)などで大管弦楽を扱う力量を披露しています。
進境著しいのがM.ジャール。昔はちょっと大ざっぱで雑な印象がありましたが、ロイヤル・フィルを使うようになってから音楽が実にダイナミックでしなやかになりました。アカデミー作曲賞を取った『インドへの道』(1984)や『ブライド』(1985)では音楽はうっとりするほど美しく、それに対して『マッドマックス サンダードーム』(1985)では打楽器を多用して、血沸き肉踊る殺戮の饗宴をカラフルに活写しています。
それから、フランスの若手、フィリップ・サルド(1945〜 )も紹介しておきましょう。1970年代から活躍し、哀愁漂う『離愁』(1973)や鮮烈な『バロッコ』(1977)を書いたりしていますが、1980年代になるとロンドン交響楽団を振って、重厚な『人類創世』(1981)、活気に満ちた『ギャルソン!』(1983)、優しさと孤独を秘めた『フォート・サガン』(1984)などの優れたシンフォニック・スコアを送り出すようになりました。
★ホーナー、ブロートンらの登場★
こうしたシンフォニック・スコアの活況は、若いシンフォニストを次々と登場させることになりました。最初に姿を現したのは、ジェームズ・ホーナー(1953〜 )です。
『宇宙の7人』(1980)で見事なシンフォニック・スコアを披露した彼は、『スター・トレック2 カーンの逆襲』(1982)でロンドン交響楽団を難なくドライブして注目を集めました。続く『銀河伝説クルール』(1983)は彼の大傑作。これほど面白いスコアも珍しく、ロンドン響も練習不足の割には熱演しています。『ブレインストーム』(1983)は抒情的なメロディがきれいだし、『コクーン』(1985)でも優しく暖かく泣かせる音楽を書いています。ただ、この辺から息切れしてきたようで、その後はみんな似たり寄ったりの曲になってしまうのは、初期の作品群で全ての持駒を出し尽くしてしまったということなのでしょうか? それでも『レッド・ブル』(1988)の歪んだロシア音楽風のタイトル曲は面白いし、『フィールド・オブ・ドリームス』(1989)のエンド・タイトルも泣けるし、『ウィロー』(1988)や『ロケッティア』(1991)のシンフォニックな響きも魅力です。でも『ウィロー』のテーマはシューマンの交響曲第3番「ライン」第1楽章第1主題と同じだし……。あんまりパクらないでね。
ブルース・ブロートンも1980年代に現れた注目株です。『ヤング・シャーロック/ピラミッドの謎』(1985)での熟達したオケの扱い、『シルバラード』(1985)での金管の鳴らし方など、とても若手と思えません。『ロスト・イン・スペース』(1998)はぶっ飛び。映画音楽史上に残る傑作です。
アラン・シルヴェストリは『ファンダンゴ』(1984)の緻密な現代的スコアで注目され、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)、『アビス』(1989)で実力の程を示しましたが、本来は抒情的な音楽に向いている人で、『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1994)の可憐なメロディーは印象的でした。また『リッチー・リッチ』(1994)では文字通りリッチな音の織物を聴かせてくれ、いよいよ吹っ切れてきたかな、と感じられてきた時、あの凄まじい『ジャッジ・ドレッド』(1995)が出現したのです。この、有無を言わさないド迫力スコアで、ついに彼の才能は全開したと言えるでしょう。
リー・ホールドリッジはクラシックの技法をしっかり身に付けた作曲家で、その実力のほどは、地味ながら素晴らしく感動的な『私が愛したグリンゴ』(1989)に聴くことが出来ます。
イギリスの俊英ジョージ・フェントンも紹介しておきましょう。この人は管弦楽の扱いが達者な人で、『ガンジー』(1982)ではラヴィ・シャンカールが作ったインド古典音楽を実にうまくオーケストラ・アレンジしていました。その後も『狼の血族』(1984)のような佳作もありましたが、彼の音楽が本当に良さを発揮するのは1990年代に入ってからで、『メンフィス・ベル』(1990)の管弦楽の充実した響きは素晴らしいですし、『永遠(とわ)の愛に生きて』(1994)では、オックスフォードの聖歌隊とロンドン交響楽団がセクエンツィア(聖歌の一種)「来たれ聖霊よ」をポリフォニックに繰り広げるメイン・タイトルが聴かせます。
また、オーストラリアからは『マッドマックス』(1979)、『マッドマックス2』(1981)のブライアン・メイが登場しました。
★今後を担う新人たち★
そして、1990年代となりました。J.ウィリアムズらの努力のおかげで、現在はシンフォニック・スコアの第2の黄金時代と言えるでしょう。今や映画音楽の将来を背負って立つ有望な新人が目白押しです。
まずジェームズ・ニュートン・ハワード。『サウス・キャロライナ 愛と追憶の彼方』(1991)の美しいメロディ、『わが街』(1991)ファンファーレのスケール感、『生きてこそ』(1993)のドラマ性、『デーヴ』(1993)の楽しさ快さ……など見るべき点が多い作曲家。どのスコアも歌に満ちたその音楽性は将来性満点ですが、この一本!という傑作がなかなか出ません。
注目度No.1はむしろジョエル・マクニーリーかも知れません。テレビ・シリーズ『インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険』で注目され、『白銀に燃えて』(1994)、『ゴールド・ディガーズ/伝説の秘宝を追え!』(1995)などで優れた音楽を聴かせています。まだ若いくせに、彼のオーケストラの使い方は堂に入ったもの。音楽自体も生き生きしている。いやはや、恐れ入りました。
才気溢れるマーク・シェイマンも『シティ・スリッカーズ』(1991)、『アダムス・ファミリー』(1991)、『ノース 小さな旅人』(1994)などで職人的な腕前を見せ、急速に人気を高めています。
かの大作曲家アルフレッド・ニューマンの息子、トマス・ニューマンも注目株です。兄のデビッド、従兄弟のランディがにぎやかなオケ・スコアを展開するのに対して、トマスの音楽はしっとりと落ち着いて、歌に満ちているのがうれしいじゃありませんか。『ショーシャンクの空に』(1994)、『若草物語』(1994)などでいい線いってます。そのうち、どかあっと大感動スコアを書いてくれるでしょう。
これら若手に共通しているのは、技巧がしっかりしているだけでなく、歌心が脈々と息づいているということです。彼ら次世代シンフォニック・スコアの旗手たちの活躍を楽しみに見守って行きたいと思います。我々はシンフォニック・スコアの第2の黄金時代に生きているのです。何と幸運なことでしょう!
まだまだ紹介しきれない作曲家、名曲、エピソードが山ほどあります。今回はアメリカを中心に述べましたが、イギリスには他にも、『カリブの嵐』(1976)、『遠すぎた橋』(1977)のジョン・アディスン (1920〜1998)や、『荒鷲の要塞』(1968)、『空軍大戦略』(1969)のロン・グッドウィン(1930〜 )や、『ファイナル・カウントダウン』(1980)、『グレイストーク ターザンの伝説』(1983)のジョン・スコット(1930〜 )や、『遥か群衆を離れて』(1967)、『レディ・カロライン』(1973)、『オリエント急行殺人事件』(1974)のリチャード・ロドニー・ベネット(1936〜 )がいるし、フランスにもフランソワ・ド・ルーベ(1939〜1975)やウラディミール・コスマ(1940〜 )がいるというのに……ああ、それにドイツ、ロシア(旧ソ連)の映画音楽には全く触れられなかったし、日本を含めたそれ以外の国に至っては……。機会があったらそうした知られざる名スコアも御紹介したいと思っています。
なお、映画音楽の歴史に関しては、映画音楽評論家の柳生すみまろ氏の書かれた『映画音楽 その歴史と作曲家』(芳賀書店 1985年)が極め付きの名著ですし、音楽・オーディオ評論家の岡俊雄氏の『フィルム・ミュージック −世界映画音楽事典−』(教育社 1988年)も資料的価値の高いものです。本格的に知りたい方は、読んでみて下さい。
(1995年8月/1997年12月改訂/1998年5月一部改訂/1999年3月)