ヒューゴー・フリードホーファー

早崎 隆志


 今、日本の若い映画音楽ファンで、フリードホーファーの名前を知っている人はどの位おられるのでしょうか。 ましてや彼の音楽を耳にしている人は、ほとんどおられないのではないでしょうか……

 皆さん、嘘は申しません、フリードホーファーは天才です!

   郷愁溢れる音楽を書く人はいます。 冴え渡ったハーモニーや対位法を聴かせる人もいます。 輝かしいオーケストレーションで聴衆を圧倒する人もいます。
 でも、それらを全て兼ね備え、絶妙なバランスでメロディ、和声、音色を融合させた音楽を作る人など、そうざらにいるものではありません。 フリードホーファーこそは、そうした希有な才能の一人でした。

   以下では、主にTony Thomasを参考にして、フリードホーファーの生涯と作品について簡単に紹介します。

 皆さん、是非彼の音楽を聴いてみて下さい。 最初はやはり『我らの生涯の最良の年』あたりをお薦めします。 それで気に入ったら、今度は『レッド・バロン』や『若き獅子たち』、あるいは最近マルコ・ポーロ・レーベルから新録音の出た、その名も『マルコ・ポーロの冒険』あたりを聴いて下さい。
 だんだん彼のオーケストラの響きの虜となっていくはずです。
 

<フリードホーファー:歩みと作品>

   ヒューゴー・フリードホーファー(Hugo Friedhofer 1902〜1981)は、ハリウッド映画音楽の黄金時代を代表する作曲家の一人である。  その70本以上のスコアはいずれも大変水準が高い。
 彼はまた、ハリウッドで最も卓越したオーケストレイターでもあった。 彼がオーケストレーションを施したスコアは200本近くあり、その中には、コルンゴルトの15本の映画、スタイナーの50本以上の映画のスコアもある。
 コルンゴルトやスタイナーといった大物に信頼されたということ自体、フリードホーファーがどれほど傑出した管弦楽法の腕前を持っていたかを示していると言えよう。

   彼は、1902年5月 サンフランシスコに生まれた。

   父はチェリストで、ドレスデンで勉強をした。父が、母(やはり音楽一家の出身)と出会ったのも、ドレスデン留学中のことだった。

 父が息子ヒューゴーにチェロを教え始めたのは、1913年、ヒューゴーが11歳の時だった。
 ヒューゴーは大変に芸術的才能に恵まれた少年で、1918年、16歳の時に学校を中退し、一時はコマーシャル・アートをやろうかと真剣に考え、リソグラフ工房のデザイン部門で働きながら、マーク・ホプキンス専門学校で絵の勉強をした。
 しかし最終的には絵をあきらめ、音楽家になろうと決心したのだった。

   彼は真剣に音楽を勉強したが、中でも編曲とオーケストレーションに興味を示した。 これは、彼が学んだイタリア人の先生ドメニコ・ブレッシャが、ボローニャ音楽院でレスピーギと同期生だったことと無縁では無いだろう。 というのも、レスピーギは、彼の交響詩「ローマの松」で聴く通り、近代管弦楽法(オーケストレーション)の大家だったからだ。

 間もなく、フリードホーファーにはチェリストとしての仕事が舞い込み始め、やがて劇場のオーケストラ団員としての職を得た。

   しかし、彼の明るい前途は長くは続かなかった。
 トーキー時代になり、劇場の伴奏者たちは解雇の危機に晒されるようになった。 そこに追い打ちをかけるように1929年10月の株価暴落に始まる世界経済恐慌が彼らの職場を直撃した。 アメリカ中の劇場で映画の伴奏をしていた楽士たちは一斉に路頭に迷うこととなったのである。

 それでも、フリードホーファーの場合は幸運だった。 ヴァイオリン奏者の友達ジョージ・リプシュルツが、フォックス映画社の音楽監督になっており、フリードホーファーに編曲の仕事を回してくれたのだ。
 こうしてフォックス社での仕事が始まった。 ミュージカル「Sunny Side Up」の編曲に始まったアレンジャーとしての仕事は、あらゆるジャンルの映画をこなしつつ、5年間続いた。

   転機は1935年に訪れた。
 この年、フォックス社は20世紀映画社に吸収合併され、多くの従業員と共に、フリードホーファーも解雇されてしまうのである。
 しかし失業は長くは続かなかった。 幸いにも彼は、20世紀映画の音楽監督アルフレッド・ニューマンの信頼を勝ち得ており、ニューマンからいろいろな仕事を回してもらったのである。
 ここにさらに、ワーナー・ブラザーズの精力的な音楽部長レオ・フォーブスタインから新たな申し出があった。
 ワーナーは、ウィーンから連れてきた大作曲家コルンゴルトに、エロール・フリン主演の『海賊ブラッド』の音楽を書かせようとしていたが、そのためには優れたオーケストレーターが必要だった。 フリードホーファーは、コルンゴルトのスコアの管弦楽編曲、兼アシスタントとして雇われた。 フリードホーファー、33歳の冬のことだ。

   コルンゴルトはフリードホーファーの優秀な仕事を見て、すぐに全幅の信頼を置くようになった。 フリードホーファーも、このウィーン育ちの天才作曲家を心から尊敬し、その作風から強い影響を受けた。
 ハリウッド映画音楽がドイツ後期ロマン派の作風を受け継いだのは、コルンゴルトやワックスマンを通じてだが、その介在役として、フリードホーファーのような優れた才能がいたことを忘れてはならない。
 その後、コルンゴルトがワーナーのために音楽を書く時には必ずフリードホーファーを呼ぶようになった。
 1936年、フォーブスタインがマックス・スタイナーをRKOから引き抜き、『進め竜騎兵』のスコアリングをやらせた時、フリードホーファーはオーケストレーションを担当し、スタイナーを唸らせた。 作曲家とオーケストレーターは、またしても固い信頼で結ばれたのである。

   ところで、フリードホーファーの本当の希望は作曲を担当させてもらうことだった。 しかしずる賢いフォーブスタインは、コルンゴルトもスタイナーも、フリードホーファーのオーケストレーションに満足していることを知って、フリードホーファーには作曲の仕事を回さなかった。
 そのようなフリードホーファーの苦しみに助け船を出してくれたのは、またもやアルフレッド・ニューマンだった。
 1937年、ニューマンの口利きで、フリードホーファーはサミュエル・ゴールドウィンに雇われ、『マルコ・ポーロの冒険』のスコアを作曲した。 コルンゴルトばりの胸のすくような活劇スコアとなっている。
 だがこれもフォーブスタインの考えを変えるには至らなかった。
 そこでフリードホーファーは、オーケストレーターとしての安逸な生活を捨て、自立する決心をした。
 1943年、フリードホーファーはニューマンの力添えで20世紀フォックスと契約を結び、ワーナーを後にしたのである。
   但し、コルンゴルトのスコアのオーケストレーションの仕事がある時は、フリードホーフアーは必ずワーナー撮影所へ舞い戻り、仕事をした。それほどに彼はコルンゴルトを尊敬していた。

   フォックスへの移籍後(1943)の1940年代は彼の最盛期だった。

……といった具合である。
 特に『我等の生涯の最良の年』は、映画音楽の教科書には必ずと言って良いほど取り上げられる名作だ。
 この映画のスコアについて、フリードホーファーは、この「率直で単純で、民謡風ですらあるスコア付け」(フリードホーファー)が、コープランドの影響を受けていることを自ら認めている。 なお、アメリカの誇る大作曲家コープランドも、フリードホーファーの友人だった。

   フリードホーファーの活躍は1950年代も続く。

   だが、この頃からフリードホーファーの前途には黒雲が立ちふさがった。 50〜60年代から映画製作が急速に減少していったのだ。
 フリードホーファーへの打撃は、単に仕事が減ったというだけではない。 彼は大変几帳面に作曲を進めるので、プロデューサーが望む以上に時間をかけてしまうが、仕事の正確さよりもどれほど早く安く仕上げられるかが重要となった時代には、彼のような職人作曲家はお払い箱なのだった。
 フリードホーファーは60年代には4本しか書いていない。 そして1972年の暗い『The Private Parts』が彼の最後のフィーチャーされたスコアとなった。 彼らしくもない、ロックを応用した晦渋な作品である。 その後は2本の短編映画があるだけである。

   最晩年はハリウッドのアパートで慎ましやかに暮らし、1981年5月17日に息を引き取った。
 「フリードホーファーに学べ」------映画音楽を志す学生に聞かれた時、作曲家仲間は必ずこう答えている。


  <フリードホーファー映画音楽リスト> 主要作品のみ (作成協力:島田幸市さん

凡例: <VD> =劇場未公開/ビデオ・タイトル
    <TV> =劇場未公開/テレビ放映時タイトル


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更新日:1998/05/03

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