マックス・スタイナー

早崎 隆志


=Contents=

  • =スタイナー:歩みと作品=
  • =スタイナー映画音楽リスト=

     マックス・スタイナーと言えば、ハリウッドで劇映画音楽のスタイルを確立し、シンフォニック・サウンドを導入した映画音楽の大家です。

     ウィーンの音楽一家の生まれで、ドイツ語の本名マクシミリアンの名付親はリヒャルト・シュトラウスでした。
     マーラーに学び、ヨーロッパ中心に自作オペレッタの指揮で活躍しますが、1914年にアメリカの興行王F.ジーグフェルドに招かれて渡米し、ブロードウェイ・ミュージカルの編曲や指揮に携わります。
     その彼がハリウッドにやってきたのは、1929年にミュージカル「リオ・リタ」 (1927) の映画化に際し、「リオ・リタ」作曲者H.ティアニーが彼をRKO映画社に推薦したからです。それ以降、スタイナーの精力的な映画音楽の活動が始まります。
     1931年にRKOの製作主任としてやってきたデイヴィッド・O・セルズニックとの出会いが転機になり、『六百万交響楽』(1932)、『キング・コング』(1933)、『肉弾鬼中隊』(1934)[アカデミー賞ノミネート]、『男の敵』(1935) [アカデミー劇音楽賞]……と次々に注目作を生み出します。
     その後セルズニックが独立プロダクションを設立したので、スタイナーも1936年にRKO映画音楽部長を辞め、セルズニックの推薦でワーナー・ブラザーズ(WB)に入ります。
     スタイナーがWBのために書いた第1作『進め竜騎兵』の音楽は軽快かつ交響的迫力に満ち、特に楽器用法が見事です(オーケストレイターはH.フリードホーファー)。この作品の出来に満足したWBは、1937年4月から彼と専属契約を結び、以後30年間、同社の作品を一手に任せるのです。こうして、『情熱の航路』(1942) [2つ目のアカデミー劇音楽賞] 、『カサブランカ』(1943)、『ドン・ファンの冒険』(1949)などの名作が生まれました。
     一方でスタイナーは、恩人セルズニックのプロダクションのために『風と共に去りぬ』(1939)、『君去りし後』(1944) [3回目のアカデミー劇・喜劇音楽賞受賞作] などを書いています。

     スタイナーの音楽はマッシヴな響きと親しみやすいメロディ・ラインが魅力です。 ただ、やや演出過剰のところがあり、オケが分厚く鳴り過ぎで、ブカブカドンドンというサーカス・バンドみたいな箇所も目立ち、続けて聴くと多少飽きがきます。 しかし晩年の『避暑地の出来事』 (1959) ではスロー・ロック・ビートを管弦楽に用い、爽やかな音楽を展開しています。 この曲はもっぱらパーシー・フェイス・オーケストラの演奏する「夏の日の恋」として知られていますが、オリジナル・スコアもノスタルジーあふれる忘れ難いものです。


    =スタイナー:歩みと作品=

     1888年5月10日、ウィーン有数の劇場支配人一家のただ一人の息子として生まれた。本名は、マクシミリアン・ラオウル・ヴァルター・シュタイナー(Maximilian Raoul Walter Steiner)。彼の名は祖父にちなんで付けられたが、その祖父マックス・シュタイナーは有名なアン・デア・ウィーン劇場の支配人で、ヨハン・シュトラウス2世にオペレッタ作曲を勧め、「こうもり」(1874)などの名作を書かせたことで知られる。オッフェンバックらとも親交があった。
     また父は1897年、ウィーン北東のプラーター遊園地に有名な大観覧車(リーゼンラート)を建て(映画『第三の男』でJ.コットンがO.ウェルズに出会い、悪の哲学を語られる印象的な場面の舞台になった)、母はレストラン経営者として良く知られていた、という具合に、一家はウィーンの文化事情に深く関わっていた。

     彼らの唯一の息子マックスは音楽に対して早熟の才能を見せた。
     普通課程を修了後、ウィーンの帝室音楽院に入学、ピアノ、オルガン、その他の楽器を短期間にマスターした。作曲と理論は最初ロベルト・フックスに、次いでヘルマン・グレートナー(Hermann Graedner)に習った。グレートナーは有名な音楽教育家で、後にコルンゴルトに対位法を教えた人物。指揮法はフェリックス・ヴァインガルトナーから教わった。さらにグスタフ・マーラーその人にも教わった。
     1903年には通常4年間の課程をたった1年で修了、金メダルをもらった時にはまだ15歳だった。

     音楽院卒業後は演出家である父の下で働き、父の劇場でグスタフェ・ケルカー(Gustave Kerker)(Birgit Kahle-Hanusaによる『マーク・トゥエインの冒険』オリジナル・スコアCDの解説ではグスタフ(Gustav))のオペレッタ「ニューヨークの美女(Die Sch ne von New York)」を指揮した時(『新音楽辞典−人名−』によれば1902年14歳の時、Kahle-Hanusaによれば12歳=1900年)には作曲者から絶賛された。
     1904年、若きスタイナーはまたオペレッタ「美しいギリシア娘(Die Sch ne Griechin)」を作曲し、指揮した。しかし父はこの作品の出来は良くないと言い、彼が所有するどの劇場でも上演することを断った。そこでマックスはウィーンのオルフェウム劇場(Orpheum Theater)の支配人カール・トゥシュル(Carl Tuschl)に話を持ちかけた。トゥシュルが上演したこの作品(マックス自身が指揮)は1年以上のロングランとなった。

     以後、パリ、ベルリン、モスクワ、ヨハネスブルク(南アフリカ)などで指揮活動。
     1906年、18歳のマックス・スタイナーはオペラの一座と共にロシアへ演奏旅行に出かけた。しかしこれが彼の幸福な青年時代の最後のツァーだった。ウイーンに戻ってみると、父は破産していた。
     それからというもの若いスタイナーにとって仕事を見つけることは難しく、ロンドンへ行くことにした。それもウィーンで知り合ったイギリス人のショー・ガールに惹かれたから、という理由かららしかったが。

     ロンドンでもなかなか雇ってもらえなかったが、一度は劇場音楽の指揮者兼編曲者として活躍したキャリアを生かして、次々と仕事を見つけた。そうしているうちに1914年の第1次世界大戦の勃発を迎えた。
     スタイナーは自分が大変まずい立場にいることに気づいた。彼はここイギリスでは敵性の異邦人なのだ。
     タイミング良く、アメリカの興行王フロレンス・ジーグフェルドがスタイナーの華々しい活躍に目を付け、アメリカに招待した。
     そこで、ロンドン劇場の友人たちはニューヨーク行きを勧め、お金を集めてくれた。しかし戦時のイギリスから出国するにはもっと多くのお金と正式な出国書類が必要だった。幸いスタイナーは有力な紳士ウェストミンスター公と知り合いで、彼を通じて必要書類を準備することが出来た。
     財産を持ち出すことは許されず、スタイナーはほぼ無一文で船に乗り、1914年12月にニューヨークに着いた時にはポケットの中には32ドルしか残っていなかった。

     1914年のクリスマス・イヴ、26歳のユダヤ系オーストリア人、スタイナーはニューヨーク港に降り立った。
     ロンドンに来た時と同様、きちんとした仕事に就くことは難しく、どうしても低級な労働を繰り返さざるを得なかった。だがとうとう彼はハームズ音楽出版社の写譜屋として雇われ、それが彼を急速に劇場音楽のオーケストレーションの仕事へと導いた。
     1916年までにはスタイナーはブロードウェイの指揮者として知られるようになり、その後13年間はミュージカルの世界で働いた。あまりに多くのミュージカルに携わったため、彼はそれを全部は覚えていないと言っている。
     この間ガーシュウィンやJ.カーンとも交友。1920年、アメリカに帰化した。
     ニューヨークでの日々の間に、膨大な数のミュージカルを扱ったに関わらず、スタイナーはこの間ほとんど作曲をしていない。彼の才能はもっぱら他人の音楽を編曲し、指揮することに注がれていた。「桃たち(Peaches)」は彼が音楽を書いた唯一のショーだが、わずか2週間で打ちきりとなった。

     1929年暮れ、スタイナーは、ミュージカル「リオ・リタ」(1927)の映画化に際しハリウッドに呼ばれ、精力的に映画音楽の活動を始める。
     彼がハリウッドに呼ばれたのは、「リオ・リタ」の作曲者ハリー・ティアニーが彼を推薦したからだった。スタイナーは「リオ・リタ」を管弦楽化し、ブロードウェイで指揮した。RKOが「リオ・リタ」の映画化権を買った時、ティアニーは編曲と指揮はスタイナーでないと駄目だと譲らなかった。
     ブロードウェイでの彼の評判の故、スタジオはスタイナーに1年間の契約を申し出た。このことはスタイナーに、映画製作者は誰も、背景音楽の作曲の重要性を知らないということを印象づけた。
     スタイナーが1929年の暮れにニューヨークを去る時には、スタイナーが最も多忙で最も影響力のある映画作曲家になるとは、彼自身を含め誰も予想だにしなかった。
     スタイナー自身、RKOに移った頃の事情について、次のように述べている。

     ハリウッドへ移る直前に私が仕事をした最後のブロードウェイ作品は、ジャック・ドナヒューとリリー・ダミタが主演した『銃の息子たち(Sons O'Guns)』でした。大好評の作品でしたが、幕開きの3〜4週間後の1929年11月26日、ハリー・ティアニーが、RKOのオーケストレーターの仕事で私をハリウッドに呼んだのです。その時はちょうど株価大暴落の年で、続く数年間は大不況となったのですが、私は張り切ってハリウッドでの仕事を始めたのです。作曲家仲間のティアニーは私を出迎え、RKOのエグゼクティヴ・プロデューサーのウィリアム・ル・バロン(William Le Baron)氏とアシスタントのパンドロ・バーマン(Pandro Berman)氏に面会させてくれました。私はただオーケストレーターとして西海岸に来たのでした。
     私の最初の映画は大体3ヶ月で仕上がり、スタジオも静かになりました。しかし私は1年契約を結んでおり、ロッド・ラロックの何本かの映画を割り当てられました。ロイ・ウェッブと私はこれら低予算作品の音楽を編曲しましたが、許されていたのは10人規模の楽団、印刷譜の使用、3時間の録音セッションでした。
     1929年末にハリウッドに着いたとき、スタイナーは42歳だった。
     RKOはルーサー・リード(Luther Reed)製作の『リオ・リタ(Rio Rita)』(1929)と『Hit the Deck』の管弦楽編曲のためにスタイナーに6ヶ月の契約を申し出た。最初RKOに雇われた時は週給450ドル。主な仕事はオーケストラの指揮と編曲だった。
     だが彼はむしろ、ドラマのバックグラウンド・ミュージックに注目する。当時はオープニングとエンド・タイトルに音楽が流れるだけで、劇中にはほとんど音楽が聴かれなかった。彼にはこれが不満だった。
     スタイナーは書いている。
     この頃までにハリウッドは低迷しつつあり、RKOは劇映画には音楽を付けないことにしていました。これは経済的理由ばかりでなく、ソース(音源)が(画面に)見えるまではバックグラウンドの音楽も流さないと決めていたためでもあります。言い換えれば、オーケストラやレコード・プレーヤーや演奏者たちが視界に入らなければ、人々は一体音楽がどこから聞こえてくるのか、不思議に思うだろう、ということです。だから映画会社の経営者たちは音楽部も縮小すべきだと考え、ロイ・ウェッブはニューヨークに送り飛ばされ、私がただ一人残されました。しかし私にはまだ契約が4ヶ月残っていました。
     音楽部の人員整理から1ヶ月かそこらして、私はフロント・オフィスに呼ばれ、君にも用はないと言われました。契約解消には何が必要かね?−−と彼らは尋ねました。結局(契約解消まで)6週間ということで同意しましたが、私は本当に崖っぷちに立たされてしまいました。職探しはハリウッドでもニューヨークと同様に困難なものになっていたからです。私はニューヨークのエージェントのジェニー・ジェイコブズという女性に連絡を取り、私の窮状を訴え、何か仕事を見つけてくれるように頼みました。彼女から返事があり、アーサー・ハマーステインがアトランティック・シティでオペレッタを開幕しようとしているので、すぐに東海岸に飛べと言って来ました。私はRKOに契約解消を頼み、彼らは検討するとこたえました。私の辞職を認める代わりに、彼らは私に、契約なしの月次雇用ベースで音楽部長の職を申し出てきました。私はこれを飲み、ジェニーにアトランティック・シティの仕事を受けられない旨を書き送りました。私はいつも、これが私の人生の分岐路だったと感じています。すべては「タッチ・アンド・ゴー」でした。もしアトランティック・シティに行っていたら、二度とハリウッドに戻ってこられなかったかも知れません。誰に分かりましょう? これが我々の仕事のやり方なのです。
     こうしてスタイナーはRKO映画音楽部長になった。
     私はロイ・ウェッブをアシスタントにするためにニューヨークから連れ戻し、新しい契約での最初の仕事はリチャード・ディックス(Richard Dix)、イレーネ・デュン(Irene Dunne)主演の『シマロン(Cimarron)』でした。この時点では私は映画のために作曲したことはありませんでした。映画が撮り終わると、会社が雇おうとした作曲家は仕事を引き受けることが出来ず、他の人々も手がふさがっていました。1930年代初めの話で、そこにはごく少数の作曲すしかいなかったのです。とうとう正面事務所(Front Office)の紳士は私に言いました、「我々にスコアを急いでこしらえてくれ。あまり金を使うな。それにもし我々が気に入らなければ他の者に任せる。試写会用にとにかく何か書いてくれ」。私は全力を出し、実に小さなオーケストラを使って映画に音楽を付けました。試写は大成功で、翌日の二つの業界紙『ヴァラエティ(Variety)』『ハリウッド・レポーター(The Hollywood Reporter)』はどちらも、誰が音楽を書いたか、そしてなぜ〔音楽担当者の〕クレジットがないのかを知りたがりました。これがハリウッドに於ける私の本当の始まりでした。
     そして、1931年にRKOの製作主任としてやってきた後の大プロデューサー、デイヴィッド・O・セルズニックが、スタイナーの才能に目を付け、『六百万交響楽(Symphony of Six Million)』(1932)の音楽を任せてみた。
     スタイナーはここで初めて、セリフの下も含め、映画全編に音楽を流す「アンダー・スコア」の手法を取り入れた。そのため映画の35%にBGMが流れた。しかもそれを本格的な大管弦楽が演奏した。オーケストラによるアンダースコア、というスタイルの基礎は、スタイナーによって固められた。
     50人以上の大編成管弦楽を用いてスケールの大きな音響を鳴り響かせるというハリウッド音楽のスタイルは彼によって定着させられた。
     続く6年間、私はRKOで実にたくさんの映画に音楽を付けたので、それらを辛うじて覚えているだけです。私の最初の完全なスコアで、アンダースコアの芸術を始めた作品は、1932年の『六百万交響楽』で、デイヴィッド・O・セルズニックという名の若く輝かしい製作者は、親友になりました。『六百万交響楽』はニューヨークのイースト・サイドからパーク・アヴェニューに移ったユダヤ人の医師が、しばらくの間彼の遺産を忘れてしまう話でした。私は全長スコアが映画を助けるだろうと感じ、セルズニックは試みとして私に1リール約10分にスコアを付けるよう言い、音楽が会話を邪魔するか助けるか見極めようとしました。音楽は実に助けとなることが決定されました。この時、映画音楽作曲家としての私のキャリアが本当に始まったのです。
     続く『南海の劫火(Bird of Paradise)』(1932)では、セリフ、効果音、音楽をそれぞれ別のマイクで録音し、後で1本のサウンド・トラックにまとめる、という「リ=レコーディング/ミックスダウン」方式が採用され、アンダースコア録音上の制約が無くなったので、スタイナーはますます自由に音楽を展開できることとなった。
     続くアーネスト・シュードザック監督『キング・コング(King Kong)』(1933)ではワーグナー風のライトモティーフの手法を初めて映画に持ち込んだ。
     低予算のRKO(アステア&ロジャースのミュージカル映画ですら1本50万ドルという予算内で作られていた)としては破格の65万ドルがこの映画にかけられたが、そのうち5万ドルが音楽製作に使われたから、製作者の音楽にかける意気込みは並大抵ではなかった。監督のメリアン・クーパーは、スタイナーに、お前さんの持てる才能全てをこの映画にそそぎ込んでくれ、金はいくらでも出す、と言ったと伝えられる。
     『キング・コング』のスコアは、1932年12月9日から8週間かけて仕上げられ、100分の上映時間に対し、75分の音楽(300以上のスコア)が付けられた。演奏にはマックスの指揮の下に46人の楽士が集められ、重厚なオーケストラ・サウンドが鳴り響いた。
     『キング・コング』はRKOを失敗から救った映画でした。しかし撮り終わった段階では、プロデューサーたちは観客からどんな反応を受けるか懐疑的でした。ゴリラは作り物っぽいし、アニメーション〔ストップ・モーション撮影技術のこと〕はやや幼稚だと思ったのです。彼らは私に、心配はしているが映画製作に大金を投じたので音楽予算は残っていない−−それで他の出来合いのトラックを使えないかと言って来たのです。私は適したものなど持っていないと説明しました。しかし、映画の総責任者メリアン・C・クーパーは私を隅へ連れていき、言いました、「マキシー、先に進んで君の能力を最大限に出し切って映画に音楽を付けてくれ。費用のことは心配ない、オーケストラや超過予算は俺が出すから」。彼の映画に対する自信は確かに正しいものでした。
     RKO時代には次のような作品を書いている。
     『男の敵』は私の最初のオスカーを獲得しました。ジョン・フォードも監督賞を、ヴィクター・マクラグレンは男優賞を撮りました。この映画の製作中、 製作担当重役 は気を揉んで私に尋ねました、「四六時中霧の中の映画なんて、誰が見たいと思うかね?」。背景は1920年代初頭のダブリンに於けるイギリスとアイルランド共和派との闘争でした。映画の終わり近くにマクラグレンが部屋で雨漏りに打たれるシーンがありました。これは彼が脱走し、殺される直前です。私がここに使おうとした音楽の効果がありました。私はこの雨漏りの一滴一滴を音楽的に捕らえたいと考えたのです。小道具係と私は何日も水槽を調整し、テンポに合わせて滴が垂れ、私が伴奏を付けられるようになりました。これには大変な時間と工夫を要しました、と言うのは蛇口はいつも同じリズムで水を垂らすとは限らないからです。我々は終いにそれをマスターし、私はそのことが私に賞をもたらした一因だと信じています。
     RKOにいた5年以上の期間のスタイナーのクレジットのリストを見ると、彼の仕事の大半が作曲と指揮に費やされていることが分かる。
     例えば1934年には、スタイナーは34本の映画の音楽を書いている。もっとも当時の映画の大部分はメイン・タイトルとエンド・タイトル以外には音楽を必要としなかったのだが、しかし毎年何本かの映画は実際にフル・スコアを必要とした。それは『六百万交響楽』(1932)に始まり、数ヶ月後には『南海の劫火』(1932)を手がけた。翌年の『キング・コング』(1933)は映画製作におけるオリジナル音楽の価値についてプロデューサーたちに強い印象を残したのだった。

     RKO時代にスタイナーのオーケストレイターをつとめたのはバーナード・カウン(Bernard Kaun)で、ワーナー・ブラザーズでも一緒に仕事をする。

     1936年、スタイナーはRKO映画音楽部長を辞し、ワーナー・ブラザーズ(WB)へ移る。
     彼がRKOを辞めたのは、世話になったセルズニックが独立プロを設立したためだ。 セルズニック・プロのウィリアム・ウェルマン監督作品『スタア誕生(A Star Is Born)』(1937)等を担当している。

     1936年にデイヴィッド・O・セルズニックは彼自身の製作会社を設立し、私に彼の音楽監督になるよう頼みました。彼はいつも私の作品を評価していて、私が飲まざるを得なかったRKOの契約より遥かに良い条件を提示してくれました。新しい仕事での私の最初のスコアは『砂漠の花園(The Garden of Allah)』で、「プッシュ=プル・トラック(push-pull track)」が初めて使われた点で音楽的に言及するに価する。これは以前の方式に較べれば格段に優れたシステムで、モノとステレオと同じくらいの違いがあります。多くの高音、多くの低音でより広いレンジが可能となりました。ハリウッドに於けるグラウマン(Grauman)のチャイニーズ・シアターでのオープニングの夜には、人々は画面から流れてくる音に驚いていました。
     私はセルズニックのために本当にたくさんの映画を受け持ちましたが、彼の成功にも関わらず、物事は彼の思惑通りには進まず、彼の製作はペースを落としました。彼はある日私にワーナー・ブラザーズに“貸与”という形で移ってくれることで、〔会社の〕財務状況を助けてくれないかと訊ねました。私は分かったと答え、そこへ行ってエロール・フリン主演の『進め竜騎兵(The Charge of the Light Brigade)』にスコアを付けました。セルズニックの状況は良くならなかったので、私たちは契約を終え、私はワーナーとの契約を受け入れました。レオ・フォーブスタインが彼らの音楽部長で、彼は私に大変いい条件を持ってきてくれました。膨大な仕事が控えているとは私はほとんど気付きませんでした。
     セルズニックは、スタイナーにWBを薦め、エロール・フリン主演、マイケル・カーティス監督の『進め竜騎兵(The Charge of the Light Brigade)』の音楽を担当させた。
     これが素晴らしい出来だったため、WBは1937年4月から彼に専属契約を結ばせた。以後30年間、同社の作品を一手に手掛けた。

     『進め竜騎兵』以降10年間はスタイナーは毎年平均8本の大作級映画にスコアを付けた。いずれも1時間以上の音楽を必要とするものばかりだった。スタイナーが過労死しなかったことは驚異ですらある。1939年には、『風と共に去りぬ』(1939)のために3時間の音楽を書いたほかに、11本の映画音楽も書いている。これらの仕事は眠らないように錠剤を飲み続けることで辛うじてこなすことが出来た、とスタイナーは言っている。

     1938年のマイケル・カーティス監督のコメディ『(Gold Is Where You Find It)』のために、スタイナーは有名なワーナー・ブラザーズ・ファンファーレを書いた。

     1939年には有名なヴィクター・フレミング監督『風と共に去りぬ (Gone with the Wind)』(1939)のための音楽が書かれる。
     『風と共に去りぬ』の締め切りに間に合わせるため、スタイナーは医者の世話になりながらハード・スケジュールをこなした。医者は頻繁にやってきて覚醒剤ベンゼドリンをうった。スタイナーは言う。

    私は、『風と共に去りぬ』の3時間45分のオリジナル・ミュージックと並行して、もう一つ別の映画のスコアも書き、両方の録音を監修したが、それらすべてを4週間で終えた。〔中略〕この4週間に私が取った睡眠はきっかり15時間であり、残りの時間は絶え間なく働くことでやり遂げたのだ。こんな労働条件では、誰もベートーヴェンにはなれないさ。
    『風と共に去りぬ』は文字どおりの空前の大作映画で、音楽もスタイナーの代表作と言うのにふさわしい素晴らしいものである。
     その「メイン・タイトル」は映画音楽の代名詞のような、有名な曲である。まずアルフレッド・ニューマン作曲のセルズニック・インターナショナル映画会社のトレードマークの音楽が鐘の音のように響いた後、壮大な響きでメイン・タイトルが始まる。「ディキシーのテーマ」「乳母のテーマ」が断片的に出てから、いよいよ「タラのテーマ」が登場する。そのスケールの大きさは感動的である。後半で「レット・バトラーのテーマ」がちょっと顔を見せる。

     1942年、『情熱の航路(Now, Voyage)』で2回目のアカデミー賞。

     1944年、ジョン・クロムウェル監督『君去りし後(Since You Went Away)』で3回目のアカデミー賞。
     これがセルズニック・プロのためにスタイナーが書いた最後の作品となる。

     その後スタイナーは『ドン・ファンの冒険(The Adventures of Don Juan)』や『大海戦史(John Paul Jones)』などでコルンゴルトばりの活劇スコアを披露、老いてなお盛んなところを示した。
     『ドン・ファンの冒険』のスコアは、コルンゴルトの影響を受け、オケを爽快に鳴らしながら、浮き立つリズムや甘いメロディを満載した素晴らしいものである。

     1959年の『避暑地の出来事(A Summer Place)』(1959)のテーマは、パーシー・フェイスによって「夏の日の恋」へ編曲され、パーシー・フェイス・オーケストラの演奏で全米ヒット・チャート第1位になった。

     膨大な仕事量にも関わらず、スタイナーは決して映画のための作曲をやめなかった。
     スタイナーの人生の終わりは、ハリウッド映画産業の没落と、制作者たちの世代交代と軌を一にしていた。若いプロデューサーの多くは音楽をドラマの内容ではなくプロモーション(販売促進)の手段として考えていた。
     同時にスタイナーの健康も徐々に衰えていった。特に視力の低下は打撃だった。

     1965年、遂にスタイナーは引退した。時に77歳だった。最後の作品はノーマン・トーカー監督のディズニー映画『われらキャロウェイ』だった。 しかし引退後も喜んで後進に助言を与えた。

    1971年12月28日、スタイナーは他界した。長い病気を患った後だった。


    =スタイナー 映画音楽リスト=
    (作成協力:島田幸市さん

    凡例: <VD> =劇場未公開/ビデオ・タイトル
        <TV> =劇場未公開/テレビ放映時タイトル


    以下は音楽監督として音楽の監修に当たった作品

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    ©1997 早崎隆志 All rights reserved.
    更新日:1997/12/23

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