エンニオ・モリコーネ
Ennio Morricone   1928〜
早崎 隆志

★ イタリアの映画音楽家としてN.ロータを正統派の横綱とすれば、モリコーネは異端児中の最大の人物であった。しかしロータ亡き後、モリコーネは名実共にイタリア映画音楽最大の立役者となり、国際的名声も高まるばかりである。
 ローマのサンタ・チェチーリア音楽院で、12音技法に強いG.ペトラッシに学んだ。これまでに書いた映画音楽は450本ほどあり、やたらめったら書きまくったという感が強いが、ちゃんと、それぞれの映画に合った音楽スタイルになっているところがすごい。マカロニ・ウェスタンの音楽が有名だが、恋愛もの、文芸映画、歴史スペクタクル、犯罪、ホラー、コメディ……など、守備範囲は無限大と言えるほど広い。
 本職は現代音楽作曲家だけに、実験的な音色や手法を使ったものも多く、それが彼の音楽をアクの強い個性的なものにしている。最近は大管弦楽に朗々と歌わせる王道を行く作品も多いが、人気は一向に衰えない。

=Contents=

  • =モリコーネと映画音楽=
  • =モリコーネ:歩みと作品=
  • =モリコーネ映画音楽:名曲案内=
  • =モリコーネ純音楽作品 概説==
  • =モリコーネ映画音楽リスト=
  • =モリコーネ年譜=
  • ■モリコーネ・リンク■

     モリコーネというと、ミョーな音楽を書く人です。
     確かにヘンなんですけど、それが不思議によかったりするので、はまるともう大変。こんなもん、世の中にそうざらにあるものじゃないから、目の色を変えてコレクションに走ったりして身の破滅を招きます。
     彼の音楽が持つ強烈な個性はもちろん、この世のものとは思えない耽美的なメロディや、現在の「癒し」ブームを先取りしたような、果てしなく安らぐ心地よいハーモニーなどにもあるのですが、それ以上に、音色に対する鋭い感覚から来ているのではないでしょうか。

     ではその、独特のモリコーネ・サウンドを生む「響き」への追求は、どこから生み出されたのでしょうか?
     実は、彼の本業である現代音楽での実験から導き出されたものなのです。
     彼はよく、様々な楽器や人間の声、時にはガラクタの類を鳴らして出した音をコラージュのように組み合わせ、一つの音楽作品にしてしまいますが、これは現代音楽の代表的手法「ミュージック・コンクレート」そのものです。
     また、モリコーネ・ミュージックのもう一つの特徴である「同一音型の意味ありげな繰り返し」も、現代音楽では常套手段です。音型に表象 (シンボル) としての意味を持たせたり、あるいは、繰り返しだけで音楽を構成してしまうこともあります。「ミニマル・ミュージック」もこの流れから登場したのでした。

     そこで以下では、ちょっと毛色を変えて、「現代音楽作曲家」という切り口で、モリコーネに迫ってみましょう。

    [なお、音楽之友社『レコード芸術』1999年2月号「海外誌切抜帖」および Jerry McCulley氏による Rhino のCD [R2 71858/ DRC2-1237] 解説を主に参考にさせて頂きました。]


    =モリコーネと映画音楽=
  • 多作家モリコーネ
  • モリコーネの映画音楽作曲法
  • 映画音楽と純音楽
  • 現代音楽と映画音楽
  • モリコーネの映画音楽の特質

     現在 (2001年1月) 、世界の映画音楽家の中で最も熱狂的なファンを持つのは、ジェリー・ゴールドスミスとエンニオ・モリコーネの二人ではないでしょうか。
     特にモリコーネの場合、450本近い膨大な作品群の多くがイタリア映画であり、鑑賞が困難という事情もあって、カルト的な人気を誇っています。
     しかし、意外と知られていないのは、彼が筋金入りの現代音楽作曲家だという事実です。

    多作家モリコーネ

     モリコーネは映画音楽を全部でいくつ書いているのでしょう?
     実はよく分かりません。正確な統計は存在せず、本や解説を見ても資料ごとにまちまちです。おそらくモリコーネ本人も自分が何本の映画音楽を書いたか分からないでしょう。
     概算では、1995年の段階で、およそ400本内外と言われていました。この時点でモリコーネは映画作曲家として35年活躍してきたわけですから、毎月1本以上のペースで作曲し、アレンジし、オーケストレーションを施し、演奏者たちを集めてセッションを行い、録音を仕上げ続けているわけです。
     どうやったらこんなに早く、たくさんの音楽を書けるのでしょう?
     モリコーネは答えます。

     本当はそんなにたくさんでもないし、早くもないよ。他の人がそう思うだけさ。
     でも歴史を振り返れば、他の時代の音楽、例えばヨハン・セバスチャン・バッハは毎週一つのカンタータを書いていた。それに彼は一人で全部の仕事を仕上げ、合唱を指導し、本番までやったんだ。モーツァルトがとても短い一生の間に書き上げた全作品やオペラを考えてみたまえ。
     今は多くの作曲家はそんなにたくさん書く必要はないと考えるだろう。でもそれは怠惰なだけかも知れないよ。
     私の場合、書くのは簡単なんだ。今まで書くのに苦労したことはないし、編曲やオーケストレーションも一人でやっているし、それにいつも締め切りのかなり前に出来てしまう。

    [1994年、『Score』誌のチャールズ・バーンスタインとの対談]
     いやはや何ともすごい人です。我々には全然参考になりませんね。

    モリコーネの映画音楽作曲法

     では、モリコーネが実際に映画音楽を書く時は、どのような手順を踏むのでしょう? 早書きの秘密は?

     [録音へのアプローチは] まず最初は私にとっては作曲するテクニックだった。それからこんな具合にスコアを作っていく---いくつかの素材を一つのトラックに貼り付け、別のものを別のトラックにくっつける。それから24トラック全部を使って、様々なミキシングを行う。そうすると全く同じ素材から全然違う結果が生み出されるんだ。

    [1994年、『Score』誌のチャールズ・バーンスタインとの対談]
     「音楽はどんな具合だ? 聴かせろ」とうるさい監督には、まず口で説明し、実際の音はもう少し待てと言っているようです。
     私はオーケストレーションがどこまで進んだか説明するだろう。それから書く。私は監督に、録音セッションに来て驚くように勧める。それがどんな風に聴こえるかなんて、その時まで分からないんだから。

    [1994年、『Score』誌のチャールズ・バーンスタインとの対談]
     モリコーネの仕事ぶりを観察したアメリカの映画音楽作曲家チャールズ・バーンスタイン曰く、
     彼の仕事と録音の流れはとても迅速でとても個人的な業に頼っている。委嘱者側からの横やりもあんまりないしね。
     彼はその役目上、よく、音楽をとても早く、とてもうまく仕上げると言っているが、彼が考え抜かれた芸術上のコントロールを握っていることを理解しなきゃいけない。同じやり方がハリウッドで通用するとは思わないね。
     彼は、作曲家としての私が理解する一つの仕事の方法を築き上げた。彼はマルチトラック録音を始めた時、あるキューを違った風に編曲して映画を通じて何回も使い回しをする、といった方法でスコアを作り上げていったんだ。これは時間を大いに節約するよ。

    [1995年、Jerry McCulleyとの対談]

    映画音楽と純音楽

     これほどの人気者にも関わらず、本人はシャイで、人前に出ることを嫌います。そしてまた、映画音楽作曲として有名---有名過ぎるほど---であることに、割り切れなさを感じているようです。

     映画音楽の作曲家として有名であることに不満はないが、私は演奏会用の音楽も書いている。誰もそのことを知らないのは残念だ。
     これはモリコーネ自身の弁です。
     もう少し彼の言うことに耳を傾けてみましょう。
     映画とコンサートはまったく別の世界だ。
     コンサート用音楽は心の底から自ずと湧き起こる自然な欲求から生まれてくるもので、自分を表現する喜び、表現せざるを得ない気持ちの表れだ。
     しかし映画音楽は別の人が創り上げた“映画”という作品に仕えるために書かれるもので、ストーリー、監督や観客の趣向、その時代の流行に合わせなければならない。
     なるほど。彼にとっては純音楽を書く方が喜びが大きいのですね。

     もちろん、映画音楽の仕事に喜びを見出さないわけではありません。それどころか、誇りを持って曲を書いています。

     私が作曲する映画のための音楽と演奏会用の音楽との間に大した違いはない。
     最初、映画音楽を書き始めた時、芸術への裏切り者になったような気がした。しかしその後、全く同じ誠実さ、同じ才能が映画音楽の作曲にも注がれていることを理解したのだ。

    [1989年、『Hollywood Reporter』誌の Giovanna Grassi との対談]
     にも関わらず、モリコーネに一度もアカデミー賞が与えられていないのは、意外な事実です。映画音楽にこれほどの貢献をし、『天国の日々』 (1978)、『ミッション』 (1986)、『アンタッチャブル』 (1987) で3回もノミネートされながら、彼が未だにオスカー像を手に出来ないというのは、アメリカ映画界が彼の業績を正当に評価していないとしか言いようがありません。
     モリコーネは冗談めかして、「私が死ぬまでにオスカーを下さいね」と言っているそうです。

     但し、映画音楽の仕事に誇りは持っていても、それを演奏会用の組曲に編曲して出版することは考えていないようです。

     映画音楽は映画やCDという形になって初めて商品価値を持つもの。印刷して売るものではない。

    現代音楽と映画音楽

     では、彼の「コンサート用音楽」とはどういう音楽なんでしょうか? ……実はこれがばりばりの現代音楽なのです。
     現代音楽を書いていた「マジメな」前衛作曲家だったモリコーネが、映画音楽という「大衆的」なジャンルを選んだのは、なぜでしょう?

     私は他の音楽では生活していくことが出来なかった。だから映画音楽で稼ぐ生活を始めたのだ。しかしその時、映画の仕事を愛していることに気付いたのだ。本当に深く愛していたのだ! 実際、私が映画のために書いた音楽には多くの私の [クラクック系/現代系] 演奏会用音楽が取り入れられているし、その逆もある。
     解決の発見、殊に映画での個人的解決の発見は、他の音楽にも現れる。これがしばしば起こる事でないことは分かっているが、それでも新しい試みを追い求めることは刺激的なのだ。かりにそれが私の個人的な満足に過ぎないとしてもね。

    [1994年、『Score』誌]
     ふむ。映画音楽に携わることで現代音楽の制作のヒントになることもある、というのですね。
     逆に、理知的で乾いた現代音楽と、ウェットで聴きやすいことの多い映画音楽とでは、表現や技法が全然異なることも多いのですが、この矛盾についてはどう対処しているのでしょう?

     [作曲に際して]、しょっちゅう私は全く異なる選択を迫られる。
     例えば、私の音楽を通じて、そして私の映画を通じて、他人の感情に到達しなければならない時、私は自分の作風を曲げることなく人々が受け入れやすいメロディーを選ぶだろう。もしその代わりにけば立った感情---例えばホラー---を人々の中に呼び起こそうとしたら、私はもっと実験的なアプローチを取るだろうね。
     よく一つの映画の中でこの二つを一度にやらなければならないことがあって、これらはオーバーラップする。私は首尾一貫性に全くこだわらない。時には一貫してないことで悩むこともあるが、気にしない。一貫性を保つことはやろうと思えばいつでも出来る。だがその時はたぶん、人々の中に同じ感覚を呼び覚ますことは出来ないだろう。

    [1987年、BAM誌の Jerry McCulley との対談で]
     ただ、現代音楽に対する一般の無理解には苛立ちもあるようです。例えばSF映画などでは電子楽器を使った音楽が登場し、「電子音楽」と呼ばれていましたが、本来の現代音楽に於ける「電子音楽」の定義とは違っていました。
     まず、電子音楽という言葉の意味を理解することが大切だ。私にとっては真の電子音楽とは楽器そのものから生まれ出で、消えてゆく音楽だ。一方、伝統的な楽器を電子装置に置き換えるだけの音楽がある。
     私の意見では、電子音楽やシンセサイザーは、音楽の概念そのものを変えるために使用されるべきだ。ここでは人々は異なった種類の音楽を扱っている。楽器自体から生み出され、新しい響きと音色に満ちた音楽だ。

    [1989年、『Hollywood Reporter』誌の Giovanna Grassi との対談]
     モリコーネは、既存の音楽を電子楽器に置き換えただけの音楽は「電子音楽」ではなく、本当の電子音楽は従来の音楽の枠組みを超えるものであるべきだ、そして、そういう実験的なアプローチがどんどんなされるべきだ、と考えています。
     彼にとっては映画音楽も音楽の新しい実験の場なのですね。

    モリコーネの映画音楽の特質

     最後に、モリコーネの映画音楽の魅力の秘密をまとめてみましょう。

     まず、モリコーネという人が魅惑的なメロディーを書く天性に恵まれていたことです。これはもう、テクニック云々以前の問題です。
     しかし、独自のモリコーネ・サウンドは、「全く異質な音響の組み合わせ」から生まれます。これは、「新しい音色へのあくことなき追求」から導かれたものでしょう。その旺盛な実験精神と前衛的手法は、彼が現代音楽の作曲家だという事実と切り離せません。
     彼の映画音楽の多くは、従来のような「主題の対立と発展」というヨーロッパ音楽を支配した原理ではなく、「オブジェ化された音の並列と対照」という新しいコンセプトで構成されています。
     どういうことかというと、特定のメロディーが特定のリズムや強弱と結びつけられ、常にその形で用いらる---つまり、全ての音の属性が固定化され、いわば「音のオブジェ」として用られるのです。
     このような作曲法の場合、音の属性の一つとしての音色の斬新さは、とてつもなく重要となってきます。だからこそ、モリコーネはあれほど貪欲に新しい響きを追求するのです。
     そして、このような音のオブジェ化という思想は、「セリエリスム (セリー主義)」や「ミュジック・コンクレート」などの現代音楽の原理と相通ずるのです。

     モリコーネの音楽のもう一つの特徴は、即興性です。
     彼の音楽には、口笛やオカリナ、非楽音など、楽譜に正確に写しきれない微妙な音を使ったものが多いことが特徴です。例えばマカロニ音楽に於ける口笛は、アレッサンドローニの口笛が必要で、あれを違う口笛でやられては別の音楽になってしまいます。
     このように、モリコーネは一回こっきりのプレーヤーとのセッションの中で、そのアンサンブルにふさわしい音楽を書き、プレーヤーには自由にやらせることが多いのです。
     実は譜面に囚われない即興性も、現代音楽 (とジャズ) のムーヴメントから生まれてきたもので、その著しいものにはジョン・ケージの「偶然性の音楽」があります。

     さらに、モリコーネの音楽には、同じ音型を執拗に繰り返すという特徴があります。
     これも1980年代以降「ミニマル・ミュージック」として現代音楽の一大潮流になった手法を先取りしていたと言えるでしょう。
     ちなみに、「ミニマル」「偶然性」「微分調性」などは従来の西洋音楽には存在しなかった概念ですが、民族音楽では普通に使われているテクニックです。モリコーネが民族音楽や民族楽器の使用に熱心で、時には動物の鳴き声を研究したりするのも、このためなのです (そういえばフランスの現代音楽の巨匠メシアンは鳥の鳴き声に凝って、それを採譜して自分の音楽に取り込んでいました)。

     そして最後に、彼の音楽にしばしば聴かれる耽美的な瞬間。『ウェスタン』のジルのテーマや、『プロフェッショナル』の「Chi Mai」、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の「コックアイズ・ソング」、『ニュー・シネマ・パラダイス』などの安らぎに満ちた響きはその代表例ですが、これらは昨今の"癒し"系音楽の先駆だったわけです。
     現代音楽もモリコーネの後を追うように、グレツキの交響曲第3番「悲歌」Op.36やアルヴォ・ペルトの諸作をきっかけに一斉に調性復帰・静寂志向へと流れを変えたのです。

     まとめに入りましょう。 モリコーネの作風を一言で言うと

  • ミュージック・コンクレート (響きの追求) + 即興性ミニマル ・ミュージック (繰り返しの恍惚) + 癒し系

    と言えると思います。
     おや? モリコーネを語るだけで戦後現代音楽の歴史をおさらいできてしまう!

     エンニオ・モリコーネ。とんでもない才人ですね。


    =モリコーネ:歩みと作品=

    風変わりな現代音楽のホープ

     エンニオ・モリコーネは1928年11月10日、イタリアの首都ローマで生まれました。
     父親マリオはトランペット奏者で、ジャズ楽団や歌劇場、さらには初期トーキー映画の録音セッションと、至る所で演奏していました。
     エンニオは小さい頃から父親のバンドに出入りして、ポピュラー音楽とクラシックの両方に親しみます。

     6歳で作曲を始めるという早熟振りを発揮していたこの子は、トランペットを習うため、1938年、わずか10歳でローマのサンタ・チェチーリア音楽院に入学しました。

     演奏するのが大好きな楽器はトランペットだ。ちょうど私の父がそうだったように。
     私が音楽院に入ったのもこの楽器の奏法を学ぶためだった。だが私の先生は作曲を勉強するよう指示した。

    [1989年、『Hollywood Reporter』誌の Giovanna Grassi との対談]
     そこで1943年、15歳のモリコーネは、まず和声法の勉強を始めます。
     私は和声法のコースを取った。この特別講習には私を含めて二人しかおらず、それが4年間続いた。
     実際には私は講習全体を6ヶ月で終えた。講師が説明する以前に知っているというのは妙な気分だったね。先生は作曲を勉強するよう私に言ったけど、それは彼がいつも私がやったものを他の学生の手本として見せるためなんだ。

    [1987年、BAM誌の Jerry McCulley との対談で]
     なかなか出来が良かったようですね。
     和声学の先生から熱心に勧められたモリコーネは、作曲の道に進むことを決心しました。

     ところでモリコーネはこの頃から、音楽院での勉強と並行してバイトに精を出すようになります。
     当時イタリアは連合国に無条件降伏し、逆に連合国と共に北イタリアのナチス傀儡政権と戦っていました。このためローマには多数の連合国兵士が駐留していました。
     そこで兵士が泊まっているホテルでは、兵士たちを喜ばせるためにジャズを演奏する楽団を雇っていました。モリコーネがトランペットを吹きに行ったのはそんな高級楽団の一つでした。彼のパートは第2トランペットでした。なぜトップ (首席) になれなかったかと言うと、その座には彼のお父さんマリオが占めていたからです(!)。

     モリコーネは1946年頃から盛んに習作的な歌曲を書き始め、また軽音楽のアレンジのバイトなども始めます。間もなく本格的な劇場から劇音楽の依頼も来るようになり、在学中にも関わらず、すっかり売れっ子の若手アレンジャーとして知られるようになりました。
     また1950年には若い美女マリア・トラヴィアとも恋に落ちました。

     私的事情に忙しいように見えるモリコーネですが、決して音楽院での勉強の手を抜いていたわけではありません。
     作曲の勉強は順調にはかどり、間もなく、当時イタリアでダッラピッコラと並んで有名だった中堅作曲家ゴッフレート・ペトラッシから教えを受けるようになります。
     そして、ペトラッシはこの頃12音技法に凝っていたのです。そのため、モリコーネも先生の影響を受け、現代音楽に強い興味を抱くようになりました。

     ここでいう現代音楽とは「現代の音楽」ではなく、無調・前衛手法を使った実験的な「ゲンダイオンガク」のことです。

     第2次世界大戦が終わり、廃墟と化したヨーロッパでは、伝統と無縁の、全く新しい音楽の試みが始まっていました。その中心は西ドイツ、ダルムシュタットのクラニヒシュタイン音楽学校で毎年夏に行われる「国際現代音楽夏期講習」でした。
     1946年に始まったこのセミナーは、最初は戦前にシェーンベルクらが始めた「12音技法」を消化することから始まりました。
     「12音技法」とは、無調音楽の一種で、1オクターブの中に含まれる12の半音を必ず1個ずつ使った12の音から成る音列 (セリー) を作り、これを様々に組み合わせて曲を書いてゆく方法のことです。
     なぜこんなことをするかというと、完全な無調音楽を目指したからです。普通「ハ長調 (Cメジャー)」とか「ホ短調 (Eマイナー)」とかいう調性は、必ず最後に「ハ (C)」とか「ホ (E)」といった「中心音」に帰る性質を持っています。逆に言えば、中心音が存在する限り、その音楽は多かれ少なかれ調性感を持つということです。いかに無調に聞こえても、同一の音が頻繁に何回も現れては、完全な無調性とは言えません。これを避けるために1オクターブ中の12半音を平等に使い、中心音の存在を否定するのが「12音技法」なのです。
     12音音楽は1948年以降急速に広まり、1949年にはフランスの作曲家メシアンが12音セリーの考え方を一歩進め、音階だけでなく、リズムや強弱にも決まった組み合わせ(セリー)を導入しました。これはブーレーズ (今ではクラシック指揮者として有名) らの「ミュジック・セリエル」に発展していきます。
     同時に1948年以降、フランスではテープを編集した「ミュジック・コンクレート(具象音楽)」の試みが始まります。

     このように、モリコーネが作曲を学んでいた時期は、正に現代音楽が産声を上げ、これから大発展をはじめようという時代に当たっていました。モリコーネが現代音楽に魅せられ、興奮したのも無理からぬことです。
     しかも、現代音楽を担う若き3人の天才の一人が、同じイタリアから彗星のように登場していました。
     彼の名はルイージ・ノーノ (1924〜1990)。ヴェネツィア音楽院でマリピエロに作曲を学び、のちマデルナとシェルヘンに師事し、12音音楽の基礎をしっかり身に付けた俊英です。シェーンベルクの娘ヌリアを妻とする彼は、1950年のダルムシュタット夏季音楽講習で注目を集めて以来、ドイツのシュトックハウゼン、フランスのブーレーズと並び、「現代音楽三羽がらす」と呼ばれました。
     同じイタリアの若者が現代音楽のホープとして大活躍している!---これはモリコーネにとっても勉強の励みになったに違いありません。

     現代音楽はさらに新しい試みに挑戦していきます。1950年にはドイツで電子音楽の研究が始まり、1951年にはアメリカでシェーンベルクの弟子ジョン・ケージが中国の「易」を参考に「偶然性の音楽 (チャンス・オペレーション) 」を編み出します。これは演奏者に演奏するページや音型を自由に選ばせたり、上から落として偶然重なった図形楽譜に基づいて演奏させたりするもので、あらかじめ書かれた楽譜通りに演奏する今までの固定観念を打ち破るものでした。
     モリコーネはこうした現代音楽の最新の手法を次々と消化していきました。1954年には北イタリアのミラノの国立放送局に、作曲家ベリオ、指揮者マデルナらの手によって電子音楽スタジオが開かれたことも、モリコーネにますます刺激を与え、彼は師のペトラッシを感心させるほどの進歩を示すのです。

     しかし、その一方で、ポピュラー音楽に対する情熱も失いませんでした。1952年にはラジオ劇の伴奏音楽を書くようになり、1953年からはラジオの夕刻のバラエティ番組のために軽音楽をアレンジする仕事を始めました。

     こうして、1954年7月6日にペトラッシから10点満点中9.5点という高得点をもらって音楽院を卒業する頃には、モリコーネは「カンツォーネも書ける現代音楽作曲家」として重宝がられ、様々な方面から引っ張りだこでした。
     1955年には早くも映画音楽の世界に足を踏み入れます。と言っても、有名映画作曲家のスコアをアレンジしたり、彼らのゴーストライターをつとめたり、という下積みの仕事でしたが。

     アカデミックな教育を受け、目覚ましい才能を示したモリコーネなのに、「シリアス」な音楽の道ではなく、ポピュラー音楽へ進んだことについて、非難する人たちもいました。しかしモリコーネは次のように反論します。

     私が作曲する映画のための音楽と演奏会用の音楽との間に大した違いはない。
     最初、映画音楽を書き始めた時、芸術への裏切り者になったような気がした。しかしその後、全く同じ誠実さ、同じ才能が映画音楽の作曲にも注がれていることを理解したのだ。

    [1989年、『Hollywood Reporter』誌の Giovanna Grassi との対談]
     何とか収入を得られるようになったので、1956年に恋人マリア・トラヴィアと結婚し、翌1957年に長男マルコを得ています。

     1958年、モリコーネはようやくイタリア国営ラジオ RAI で音楽アシスタントの職を得ることに成功します。RAI は日本の NHK の様な存在で、当時は大変な権威を持っており、収入の点でも安定していました。
     ところがモリコーネは入社したその日に RAI を辞めてしまうのです。
     なぜか?
     現代音楽のメッカ、ダルムシュタット夏期講習に参加するためでした。彼は憧れのダルムシュタットでジョン・ケージのセミナーを受け、ノーノが作曲した「合唱と打楽器のための≪ディドーネの合唱≫」(1958) の初演の手伝ったのでした。
     また同年、勢いを借りて畢生の大作「管弦楽のための協奏曲」を引っ提げてヴェネツィアの現代音楽祭に乗り込み、由緒あるヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演を行ってもいます。彼の「管弦楽のための協奏曲」は翌々年の1960年8月にRAIを通じてオン・エアされました。
     このように、モリコーネは決して「シリアスな」現代音楽に対する興味を失うことはなかったのです。


    1960年代初め---映画音楽との出会い

     1950年代後半の間に、モリコーネの名は放送を通じて関係者に次第に知られるようになりました。
     そのため、多くの有名歌手のために歌曲を書きました。現在までに、シャルル・アズナヴール、ポール・アンカ、ミルヴァ、ジョーン・バエズ、マリオ・ランツァ、アンナ・モッフォといったポピュラー界、オペラ界の名歌手たちのために500曲以上のヒット・ソングが書かれています。

    = クラシック作曲家の映画音楽 =

     イタリアでは戦後しばらくの間、映画音楽が新しい芸術として注目を浴び、クラシック系作曲家がこぞって映画音楽を書いた時期がありました。以下にその一部をリストアップしておきましょう。

    • ゴッフレード・ペトラッシ …… モリコーネの先生自身、1948〜1953年の間にジュゼッペ・デ・サンティス監督の『にがい米』(1948)、『オリーヴの下に平和はない』(1950)、『アンナ・ザッケオの夫』[未](1953)という3本の映画に音楽を書いた。
    • ルイジ・ダッラピッコラ …… ペトラッシのライバルだった有名作曲家。1948年も2本、1951年に1本の短編映画の音楽を担当。
    • イルデブランド・ピッツェッティ …… A. ラットゥアーダ監督の『ポー川の水車屋 (Il mulino del Po) 』(1949) に曲を書いている。
    • マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ …… ピッツェッティの愛弟子だがユダヤ系のためカリフォルニアに亡命、ハリウッドでルネ・クレール監督『そして誰もいなくなった』 (1945) ほか多くの映画音楽を書く。ヘンリー・マンシーニ、ジェリー・ゴールドスミス、ジョン・ウィリアムズに教えたことでも有名。
    • フランチェスコ・マリピエロ …… 1947、48年に短編ドキュメンタリー2本を担当。
     同じ頃、演出家エットーレ・スコラに気に入られ、1960年頃から彼が担当するテレビ・ショーの音楽を書くようになります。この番組を通じて演出家ルチアーノ・サルチェとも知り合い、彼の劇場ショー (「Il Lieto Fine」 (1959) など) に音楽を提供します。
     そのサルチェが映画製作を始めた時、モリコーネにもオリジナルの映画音楽を書くチャンスが回ってきたのです。

     当時イタリアでは映画音楽はクラシック作曲家すら注目する話題のメディアでした。
     一番の売れっ子はニーノ・ロータでした。戦時下の1942年から映画音楽を書き始め、1946年以降はかなりの本数を担当しています。
     その他にも、アレッサンドロ・チコニーニ、カルロ・ルスティケリ、マリオ・ナシンベーネ、フランチェスコ・アンジェロ・ラヴァニーノ、ピエロ・ピッチオーニ、ジョヴァンニ・フスコといった人々が大量の映画音楽を生み出していました。

     モリコーネ自身が映画音楽という分野に興味を抱いたのは、ハリウッドの大御所アルフレッド・ニューマンが担当した『聖衣 (The Robe) 』 (1953) を観てからです。
     1950年代の終わりには既に、ナシンベーネやフスコのアシスタントとして、彼らのスコアを編曲・指揮していました。
     例えば、マリオ・ナシンベーネの『友人の死 <未> (Morte di un amico)』 (1959) や、『バラバ』 (1962) のメイン・タイトルで編曲・指揮を担当しているのはモリコーネです。
     また、ジョヴァンニ・フスコの『くち紅 (Il Rossetto) 』 (1959) や『情事 (L'Avventura) 』 (1959) (ニコ・フィデンコが歌う主題歌「トラスト・ミー Trust Me」が知られる) でも、スコアをアレンジし、指揮・録音を行っています。
     ちなみに、フスコという人はローマのサンタ・チェチーリア音楽院を出た後、ミケランジェロ・アントニオーニ監督作品を中心に映画音楽を書いた人で、現代音楽の前衛手法を使いながら、キャッチーな主題歌も書きました。モリコーネと共通点も多く、彼との仕事はモリコーネにとって大いにプラスになったはずです。

     モリコーネが最初に音楽を一人で担当した映画は何でしょう?
     諸説あって、1980年代までは『歌え!太陽』 (1960) だと言われていました。これはドメニコ・モドゥーニョ、ミーナなど当時のイタリアの人気歌手が出演した音楽喜劇ですが、音楽は既成の歌謡曲のアレンジといった感じが強く、オリジナルのスコアという意味では、ルチアーノ・サルチェが監督した『ファシスト <未> (Il Federale)』 (1961) だと言われるようになりました。
     いずれにせよ、1960年代の初め、モリコーネの映画作曲家としての人生が始まったのです。

     私の最初の頃の映画は、軽いコメディか、歴史映画で、それらに必要なスコアは単純なものだから、簡単にひねり出せた。私はその後もっと有名な監督や作家ともっと重要な映画を作るようになったが、その後もこの分野には愛着があった。
     セルジオ・レオーネとの協力関係のおかげで私が国際的に認められ、成功したというのは全くその通りだ。イタリア製西部劇が私を世界中に有名にしたのだ。

    [1989年、『Hollywood Reporter』誌の Giovanna Grassi との対談]
     セルジオ・レオーネ監督およびマカロニ・ウェスタンとの出会い−−これこそ、モリコーネのキャリアを決定した、いや、世界の映画音楽の歴史を変えた、重要な出来事なのです。


    1960年代半ば---「マカロニ作曲家」誕生!

     イタリアでは1960年代のはじめから、アメリカの西部劇を真似た低予算の西部劇が作られるようになっており、これを日本では「マカロニ・ウェスタン」と呼びます。アメリカでは「スパゲッティ・ウェスタン」と言いますが、ま、発想は大差ありません。
     それまで歴史スペクタクルものなどを撮っていたセルジオ・レオーネは、1964年、黒澤明たちの書いた『用心棒』を翻案したマカロニ・ウスタン『荒野の用心棒』 (1964) を撮ることにしました。
     20万ドルという低予算のもと、なかなか芽の出なかった34歳のアメリカ人俳優クリント・イーストウッドを1万5000ドルで雇い、撮影を開始したレオーネは、次には音楽担当者を探すことにしました。
     彼は前作『ロード島の要塞 (Il Colosso di Rodi) 』 (1998) で使った作曲家フランチェスコ・アンジェロ・ラヴァニーノがお気に入りでしたが、配給会社ジョリー・フィルム (Jolly Films) はモリコーネを推薦しました。モリコーネはすでにマカロニ・ウェスタン『赤い砂の決闘』 (1963) を書いた経験があり、この時もちょうど『銃は論議しない <未> (Le Pistole non discutono)』 (1964) の仕上げに入っていました。
     レオーネはしぶしぶモリコーネと会ってみることにしました。
     モリコーネはレオーネに古い写真を見せました。何と二人は昔、ローマの「キリスト兄弟団 (Christian Brothers) 」学校で同級生だったのです。
     しかしそれでもレオーネはモリコーネ起用に難色を示すので、モリコーネは実際に音楽のアイデアを示しました。

     何年も前に、農民たちのグループが町へ行った時に耳にする騒音---鉄床 (かなとこ) を叩く音とか、鐘が鳴る音とか、そうしたものを盛り込んだ音楽の編曲を考えていた。それが『荒野の用心棒』の音楽が生まれた背景さ。
     セルジオ・レオーネはティオムキンの「皆殺しの歌」が欲しいと言い張った。だが、誰か他人の音楽を使うくらいなら、死んだ方がましだった。
     何年も前、私は劇作家ユージン・オニールが書いた海の戯曲に音楽を付けたことがあった。その中にとても深い声で歌われる子守歌があった。私はそれをレオーネに聴かせ、それからメキシコ風の香りのビートで味付けし、映画で使ったのだ。

    [1989年、『Hollywood Reporter』誌の Giovanna Grassi との対談]
     マカロニ・ウェスタンはイタリアで作られる疑似西部劇であり、厳密な時代考証に縛られずに自由に話を展開できるところが魅力ですが、それでも「西部劇らしい」雰囲気を持った音楽がある程度求められます。それに関してはモリコーネは研究したのでしょうか。
     私がこれらの映画を担当した時、これらの映画が描いている時代を頭に入れておく必要があった。
     アメリカの西部に行ったことはないし、調べもしなかった。しかしあの種の音楽、これら西部劇のフォークロア (民謡的)な雰囲気は、実際には中世ヨーロッパに遡る。そこからアメリカに渡っていったのだ。

    [1994年、『Score』誌のチャールズ・バーンスタインとの対談]
     私は音楽的なマンネリズムや知ったかぶりを避けながらフロンティア (開拓者) の伝説を蘇らせようと試みた。
     典型的な西部の民俗音楽に雑多なサウンドの覆いをかけた。それらの多くはヨーロッパ起源だが、結果は大変ポジティブで、アグレッシブなリズムを持った力強い音楽スコアを書いた。そこにはシャウト (叫び) の効果や、西部のそれよりもっと強烈なビート感を加えた。
     一方、多くのウェスタンで私は複雑微妙な和声を試みた。それは前衛音楽の一部を成すものだ。私は [音楽的] 要素を経済的に使ったが、サウンドの蒸留濾過は現代音楽の最もモダンな流れでもあったのだ。

    [1989年、『Hollywood Reporter』誌の Giovanna Grassi との対談]
     『荒野の用心棒』は空前の大ヒットとなりました。映画の奇想天外な面白さもさることながら、モリコーネの音楽が忘れがたい印象を残したことは明らかでした。レオーネもこれ以降、迷うことなくモリコーネに音楽を依頼するようになります。

     なお、『荒野の用心棒』の録音セッションのために、モリコーネは何人かの音楽家を集めます。彼らとはその後何年も共同で斬新なサウンドトラックを作っていくことになりますが、中でも重要なのはアレッサンドロ・アレッサンドローニです。
     アレッサンドローニはモリコーネより3つ年上で、子供の頃からの友だちでした。専門的な音楽教育は受けませんでしたが、ヴォーカル・グループを結成して活躍していました。
     モリコーネはアレッサンドローニに頼んで『荒野の用心棒』の録音に参加してもらいました。タイトル曲「さすらいの口笛」でギターと口笛を演奏しているのは、他ならぬこの人なのです。
     また、同じタイトル曲でバック・コーラスを付けているのは「カントーリ・モデルニ(1) (モダン・シンガーズ、Cantori Moderni)」というヴォーカル・グループですが、これもアレッサンドローニが結成した12〜16人のコーラスです。
     ちなみに、「We can fight !」と歌っているようにも聞こえるバック・コーラスの歌詞は、ファンにとって長年の謎でしたが、モリコーネ自身がこんな種明かしをしています。

     彼らは何も言っちゃいないんだ。呪文をかけているようなもんさ。つまり、こういうことだ。言葉が理解されるかどうかは問題じゃない。私は人間の声が大好きだ、声の響きが好きなんだ。
    [1994年、『Score』誌のチャールズ・バーンスタインとの対談]
     さて、『荒野の用心棒』のスコアを見ると、そこには現代音楽作曲家モリコーネの工夫が満ち満ちています。

     例えばタイトル曲「さすらいの口笛」。
     普通の曲のようにも聴こえますが、そこに加わる謎めいた鐘と笛(オカリナ?)、金床 (かなとこ) 、それに鞭の音。さらに"呪文"を繰り返すだけの男声コーラス……これらは天才モリコーネの手によって有機的に組み合わされていますが、これらの要素は本来、ジグソー・パズルのピースのようにばらばらです。
     この曲を、それまでのロマンティックな映画音楽と較べてみると、その違いは明らかでしょう。従来の音楽は、美しい「楽音」を奏でる楽器だけによって演奏され、メロディが中心でした。メロディは力強い第1主題と優しい第2主題が用意され、ハーモニーを伴いながら流れるように絡み合い、発展していくのが普通です。
     モリコーネはこの常套手段を断ち切りました。「主題の動機的発展」という原理を捨て去り、リズムに主導権を与え、鐘、笛の下降音階、呪文コーラスといった異質なピースを、そのまま組み合わせることで音楽を構成することにしたのです。
     このようなモリコーネの音楽は多くの音楽家に衝撃を与えました。

     一体モリコーネはどこからこんな奇抜な音楽を思いついたのでしょう?
     それは当時の現代音楽からでした。前に述べたように、現代音楽ではメロディを中心に置いた思想を捨て去り、音やリズムを単なる素材として見なして、それらをいかに論理的に組み立てるかに焦点が移っていました。つまり、音楽とは、音響を組み合わせた一種のオブジェと考えられるようになっていたのです。
     こう考えると、モリコーネのスタイルが、現代音楽では一般的だったミュージック・コンクレートや音素材のオブジェ化にヒントを得たものであることは明白でしょう。
     モリコーネはあくまで、戦後現代音楽の洗礼を受けた前衛楽派の申し子だったのです。

     しかし、モリコーネの偉大さは、ただ現代音楽の手法を映画音楽に持ち込んだだけではありません。無味乾燥になりがちな前衛的手法を用いながら、面白く、わくわくさせ、多くの人々に直接訴えかける感銘深い音楽を書けるのだということを身をもって示した点こそ、もっと高く評価されるべきでしょう。

     ところで、『荒野の用心棒』のスタッフは、イタリア製映画のチープなイメージを消すため、英語風の偽名を使いました。例えばセルジオ・レオーネは父親ロベルト・レオーネ・ロベルティにちなんでボブ・ロバートソンと名乗りました。モリコーネの場合は「ダン・サヴィオ」でした。

     「ダン・サヴィオ」の名を使ったのは、1964年のレオーネの『荒野の用心棒』の時と記憶する(*)。
     偽名を使うというのはプロデューサーのアイデアだ。その後数年間、私はレオ・ニコルズという他の偽名を使った (『さすらいのガンマン』(1966)、『帰って来たガンマン』(1966)、『黄金の棺』(1966))。しかしこれは本当に限られた場合に過ぎない。

     * 実際は『赤い砂の決闘』 (1963) もダン・サヴィオ名義で書かれています。
    [1989年、『Hollywood Reporter』誌の Giovanna Grassi との対談]
     当時モリコーネはまだ映画音楽だけで食べていく自信がなく、RCAでの編曲の仕事を兼務していました。その腕前を評価され、アレンジの仕事はここ数年うなぎ登りに増加していました。しかし『荒野の用心棒』で大ヒットを取ったため、モリコーネは徐々にアレンジャーの仕事を減らし、映画音楽に重心を移していくことにします。
     この1964年には、他に『革命前』(1964) でベルナルド・ベルトリッチ監督との初仕事も経験しました。ベルトリッチとは12年後に『1900年』(1976) でまた協力することになります。
     私生活の面では、3人目の子供である次男アンドレアが生まれました。彼の誕生はモリコーネの音楽人生上も重要です。アンドレアこそ、長じて父親と同じ作曲家となり、現在父の仕事に無くてはならないパートナーになっているからです。

     マカロニ・ウェスタン・ブームは翌1965年もさらに熱狂の度を増して続きます。
     『荒野の用心棒』が「Nastro d'Argento」賞を受賞したこの年、セルジオ・レオーネはさらに型破りな西部劇『夕陽のガンマン』(1965) を作り上げました。
     この異色作では、モリコーネのマカロニ・サウンドはさらに進化を遂げます。耳にこびりついて離れないジューズ・ハーブ (口琴) の響きや、美声ソプラノ歌手エッダ・デロルソによる歌詞のないヴォーカルなど、モリコーネ独自のスタイルの多くがここで確立されました。
     映画も音楽も、『夕陽のガンマン』の音楽も前作に勝るとも劣らない成功を収めました。

     しかし、世界中がマカロニ・ウェスタンに夢中になっていたこの時期、モリコーネはブームの真っ直中にいても、それ以外の仕事も着実にこなしていました。
     そんな、西部劇以外の自信作を尋ねられ、モリコーネは次のように答えています。

     ジッロ・ポンテコルヴォ (Gillo Pontecorvo) が1965年に監督した『アルジェの戦い』を挙げなければなるまい。私が作曲した音楽スコアは実にシンプルだった。
    [1989年、『Hollywood Reporter』誌の Giovanna Grassi との対談]
     シンプルですが、節約した音の用法は実に効果的です。専門的な音楽の知識を有するジッロ・ポンテコルヴォ監督とは、これ以降も協力関係が続きます。
     なお、『アルジェの戦い』のサントラを指揮したブルーノ・ニコライ (Bruno Nicolai) は、ローマのサンタ・チェチーリア国立音楽院でゴッフレード・ペトラッシについて作曲を勉強していた時に知り合った親友で、1964年から約10年間、主にモリコーネのサントラ録音の指揮を振ります。また彼自身、マカロニ・ウェスタンなどの映画音楽を何曲も残しています。
    = 「ヌオーヴァ・コンソナンツァ」 =

     「ヌオーヴァ・コンソナンツァ」は、「国際即興集団 (Gruppo di Improvvisazione; International Group of Improvisation)」という別名から分かるように、即興演奏を中心に音楽の実験を繰り広げるべく結成された団体です。「楽譜に縛られない即興演奏にこそ音楽の未来がある」と固く信じるリーダーのエヴァンジェリスティが、自分の理想を実現するために同志を募って作り上げたのでした。
     主要メンバーは次のような人々です。

    • フランコ・エヴァンジェリスティ (Franco Evangelisti, 1926〜1980) ……打楽器、ピアノを演奏。
    • エジスト・マッキ (Egisto Macchi) ……打楽器、チェレスタ、編曲
    • エンニオ・モリコーネ ……トランペット、フルート、編曲
    • ジョヴァンニ・ピアッツァ (Giovanni Piazza) ……ホルン、フルート、ヴァイオリン
     メンバーには入れ替わりがあり、1976年頃のアルバムでは、上のメンバーの他に
    • アントネッロ・ネーリ (Antonello Neri) ……ピアノ、編曲
    • ジャンカルロ・シャッフィーニ (Giancarlo Schiaffini) ……トロンボーン、フルート
    の名が見えますが、1992年のアルバムになると上の二人は見えず、
    • ジョン・ハイネマン (John Heineman) ……トロンボーン、チェロ
    • マリオ・ベルトンチーニ (Mario Bertoncini) ……打楽器、ピアノ
    • ワルター・ブランキ (Walter Branchi) ……コントラバス
    • イェズス・ヴィラ・ロホ (Jesus Villa Rojo) ……クラリネット
    らが加わっています。
     一方、音楽事典では、「ヌオーヴァ・コンソナンツァ」の主な音楽家としてはエヴァンジェリスティ、マッキ、ハイネマン、それにイヴァン・ヴァンドールの名が挙げられています。

     同じ年 (1965年)、現代音楽の分野での活動にも新たな進展がありました。イタリアの指導的な現代音楽作曲家フランコ・エヴァンジェリスティ (Franco Evangelisti 1926〜1980) が、彼の率いる前衛音楽グループ「ヌオーヴァ・コンソナンツァ (Nuova Consonanza) 」に参加するよう誘ってくれたのです。
     エヴァンジェリスティは、ケルンとワルシャワの電子音楽スタジオに参加した経験を持つ前衛音楽家で、サンタ・チェチーリア音楽院で電子音楽を指導、ベリオに続く世代の新星と期待された秀才です。1961年にローマで現代音楽集団「ヌオーヴァ・コンソナンツァ」を結成。1963年以降は作曲を放棄し、即興演奏活動に専念しました。
     「ヌオーヴァ・コンソナンツァ」は即興演奏を中心に実験的な音楽の創作・演奏を目指す団体で、モリコーネは得意のトランペット (及びフルート) で奏者として加わり、エジスト・マッキ (Egisto Macchi) 、ジョン・ハイネマン (John Heineman) 、イヴァン・ヴァンドールといった前衛作曲家たちと共にセリー技法の作品を作曲・演奏したのです。

     こうした、他の現代音楽作曲家との交流が刺激となったのでしょう、翌1966年に書かれたセルジオ・レオーネ監督との第3作『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(1966) は、モリコーネのマカロニ音楽の中でも最も完成度の高い傑作となっています。
     冒頭の「メイン・タイトル」からしてユニークです。心臓の鼓動を思わせる打楽器のビートのみによる導入、オカリナや人声による雄叫びのような音型、南北戦争の進軍ラッパの幻想的な交錯……様々な音素材を貼り合わせる「ミュジック・コンクレート」的な手法は洗練の極みを見せています。
     あの印象的なミ-ラ-ミ-ラ-ミーというメイン主題の由来について、モリコーネはこんな話を聞かせています。

     あの頃は動物の鳴き声を再現しようと苦心していた時期だった。 [ここで頭をやや後ろに引いてお馴染みの4度の上下行音型を吠えてみせて] これはコヨーテの遠吠えなんだ。これがア-ア-ア-ア-アーという風に音符に写されている。誰もその由来に気付かなかったよ。ただの音楽的な主題だと思っていたんだ。
    [1994年、『Score』誌]
     アメリカの映画監督マーティン・スコセージは、レオーネ=モリコーネのマカロニ・ウェスタンについて、こう評しています。
     [『ウェスタン』は] イタリアの伝統芸能であるオペラの拡張版だ。
     音楽、フレーム、カメラの動き、英雄叙事詩的なスケールの登場人物、そして物語−−これはオペラだ。イタリア人たちは西部劇を作っているんじゃない。彼らは今日のオペラを作っているんだ。だからこそ、[レオーネの] 全ての映画で音楽がこれほど重要な役を果たしているのだ。

    [1980年代初めのインタビュー]
     極めて的確な指摘です。そしてこれはそのまま『続・夕陽のガンマン』に当てはまります。特に、コーラスと鐘が鳴り響くクライマックスの「黄金の悦び (L'Estasi dell'Oro) 」は並みのオペラ以上にドラマティックと言えましょう。
     モリコーネの『続・夕陽のガンマン』の音楽が、他の映画音楽関係者にどれだけ衝撃を与えたかは、現代アメリカの映画音楽作曲家チャールズ・バーンスタインの言葉がよく示しています。
     1960年代に映画館で『続・夕陽のガンマン』を初めて聴いた時、ぼくは座席でぶっ飛んだよ。新しいスタイルを発明する彼の能力は、それまでの、あるいは現存の他のどんな映画作曲家をも遥かに超えたものだ。あのスコアを聴いて、映画作曲家になるのにワーグナー風の音楽を書く必要はないんだと悟らなかったら、ぼくは映画音楽の道に進まなかったかも知れない。
    [1994年、『Score』誌]
     これほど多くの人々を感嘆させた『続・夕陽のガンマン』は、モリコーネのマカロニ・ウェスタン・スコアの一つの頂点を築いたのでした。

     同じ1966年には、才人ピエル・パオロ・パゾリーニ監督とのコラボレーションも始まりました。

     あの映画 [『アルジェの戦い』(1965)] のあと、私は他の作曲家の作品をちぎってはつなげて、パスティッチョを作って喜んでいた。一種のジョークだな。
     しかし1966年、私はピエル・パオロ・パゾリーニのために『パゾリーニの 鳥』の音楽を書いた。スクリーンのイメージに密接に繋がった輝かしい音を使った。

    [1989年、『Hollywood Reporter』誌の Giovanna Grassi との対談]
     実際、『パゾリーニの 鳥』(1965) の音楽は才気と実験精神に溢れるものです。有名な「オープニング・クレジット」では、普通は画面に映し出されるだけの映画タイトル、製作・配給会社クレジット、配役とキャストなど全部にメロディを付け、当時のイタリアの人気歌手ドメニコ・モドゥーニョ(2)に歌わせています。こんな例は前代未聞、空前絶後であり、モリコーネ以外は思いつく人もいないでしょう。しかも伴奏にはあらゆる楽器が千差万別のスタイルで参加してきます。
     『鳥』に限らず、パゾリーニの豊かな映像イメージは、モリコーネの創作意欲を刺激しました。『テオレマ』(1968) でも、前衛的な音のモザイクの面白さを聴くことが出来ます。

     なお、この年 (1966年) には三男ジョヴァンニが誕生しています。


    1960年代後半---幅を広げる作風

     世の中がまだマカロニ・ウェスタンに浮かれている1967年、モリコーネは既に新たな道を進み始めていました。
     この年、『アラベラ <未> (Arabella)』(1967) の仕事を通じてマウロ・ボロニーニ監督と知り合います。ボロニーニとはその後、『さらば恋の日』(1968)、『彼女と彼』(1969)、『わが青春のフロレンス』(1970)、『哀しみの伯爵夫人』(1974)、『薔薇の貴婦人』 (1986) などでも仕事を共にし、一貫して滑らかでメロウなサウンドを作り出します。
     またこの年、第20回カンヌ国際映画祭の審査員を依頼されるという名誉を受けます。『荒野の用心棒』『続・夕陽のガンマン』などのヒットで国際的な知名度が上がった賜物と言えます。

     1968年にはRCAでの編曲の仕事をぐっと減らし、映画音楽に集中します。その結果、1年で20本もの映画音楽を書き上げました。これは記録です。
     それらの中で、再度レオーネ監督と組んだ『ウエスタン』(1968) は、レオーネ=モリコーネ西部劇音楽の一応の総括であり、一つの究極の終着点を示した作品として、極めて重要です。
     映画製作が遅れたため、『ウェスタン』のスコアは映画が撮り終わる前にほぼ完成し、録音されていました。レオーネ監督は語ります。

     『ウェスタン』はモリコーネが音楽を作曲してから撮影した。
     全撮影行程の間中、我々は録音に耳を傾けた。誰もが音楽と共に演技し、リズムに従い、その「いまいましい」出来に悩まされた。そいつは神経に障るのだ。

     確かに、ここにはハーモニカの物憂いポルタメント、乾いたバンジョーのオスティナート(同型反復)など、疲労した俳優たちをいらいらさせる刺激的なサウンドが満載されています。これは従来のモリコーネの路線の延長線上の手法と言えるでしょう。
     しかし、ここで注目すべきなのは、実験的なサウンドと並行して、気品に満ちたクラシカルな曲も書かれるようになってきた点です。「ジルのテーマ」などは、アコースティックな弦楽合奏を主として、美声ソプラノ歌手エッダ・デロルソの清楚なヴォカリーズをフィーチャーした、この世のものとは思えない美しい音楽です。
     あたかも、マカロニ・ウェスタンの変てこ奇抜な音楽の作曲家という偏見に悩まされるようになったモリコーネが、「自分は普通の音楽も書ける−−しかも人一倍美しい音楽を!」と叫んで、無言の抵抗を始めたかのようです。
     現代手法と伝統、前衛芸術と大衆人気……モリコーネは、これらを無理なく結合する希有の才能を持った音楽家なのです。

     同じ1968年、『サン・セバスチャンの攻防』(1968) に曲を付けたことでアンリ・ヴェルヌイユ監督とも知り合い、その後も同監督の『シシリアン』(1969)、『華麗なる大泥棒』(1972)、『エスピオナージ』(1972)、『ジャン=ポール・ベルモンドの恐怖に襲われた街』(1975) などの暗黒街もの、犯罪ものでシャープなスコアを聴かせることになります。
     また、ジュリアーノ・モンタルド (Giuliano Montaldo) 監督とも、この年に『盗みのプロ部隊』(1968)へバカラック風のポップで軽快な曲を書いて以来、長い付き合いが始まります。グループサウンズ調の『明日よさらば』(1968)、『銃殺! ナチスの長い五日間』(1969)、フォークの女王ジョーン・バエズと組んだ『死刑台のメロディ』(1971)、『L'Agnese va a Morire』(1976)、TV映画『マルコ・ポーロ/シルクロードの冒険』(1982)、『フェラーラ物語』(1987)、TV映画『戦慄の黙示録』(1987)、『タイム・トゥ・キル/愛と勇気の戦場』(1989) など、長年コンビを組むモンタルド監督は、時代と密着したポップスを意欲的に取り込むことを好み、モリコーネの作風に軽快さを付け加えました。
     さらに同じ頃、『殺人捜査』(1969) の極めてドライな音楽を通じ、エリオ・ペトリ (Elio Petri) 監督の知己も得ます。ペトリ監督とは『労働者階級は天国に入る』(1971)、『Todo Modo』(1975)、『Le Mani Sporche』(1978) などで協力を続けます。

     このように映画人脈と作風の幅を広げ、実力を周囲に示したモリコーネは、翌1969年には「スポレト映画賞」を受賞するなど、次第に回りからも認められるようになります。
     その一方、ヴェネツィア国際現代音楽祭に前衛的な管弦楽作品を引っ提げて参加するなど、現代音楽の創作も順調に進めます。

     なお、1960年代後半〜1970年代前半は、モリコーネが最も貪欲に映画音楽の仕事を引き受けた時期で、そこには本邦未公開のイタリア製プログラムピクチャーが多く含まれています。それらの中には、強烈な表現ではないものの、そこはかとないロマンティックな雰囲気や、気分を和ます軽いリズムのポップ音楽が多く含まれ、ファンにとっては秘宝の泉と言えるでしょう。


    1970年代---メロディー・メーカーとしての名声の確立

     1970年、モリコーネはフロシノーネ市 (Frosinone) に新設された市立音楽学校「リニチオ・レフィーチェ (Linicio Refice) 」で作曲を教えることになりました。
     この仕事は1972年まで続けましたが、その間に、シルヴァーノ・アウレリ (Silvano Aureli) 、ルイージ・デ・カストリス (Luigi De Castris) 、ルイージ・ディ・ステファーノ (Luigi Di Stefano) 、アントニオ・ポーチェ (Antonio Poce) 、リッカルド・ゼナドッキオ (Riccardo Zenadocchio) といった人々を世に送り出しました。

     1970年代初期のモリコーネは、『わが青春のフロレンス (Metello)』 (1970)、『La Califfa (レディ・カリフ)』(1970)、『死刑台のメロディ』(1971) 『マッダレーナ <未> (Maddalena)』(1971)など、美しい、印象的なメロディを次々に生み出します。
     マカロニ・ウェスタンにおいても、『夕陽のギャングたち (Giù la testa)』(1971) や『ミスター・ノーボディ』(1973) のように、極度に前衛的なサウンドは棄て、純音楽的な美しさを追求するようになりました。(『ミスター・ノーボディ』は実質上モリコーネの最後の西部劇です。)
     モリコーネの音楽には本来、

    1. 実験的でグロテスクなサウンド
    2. 軽快なリズム進行
    3. 気品ある叙情性
    の3つの柱がありますが、これまで1.の特徴ばかりがクローズ・アップされてきました。しかしこの頃の作品は、むしろ3.を前面に出したものです。
     世間もようやく「奇抜なマカロニ作曲家」という表面的な評価を改め、様々な賞を彼に与えます。例えば1970年には『ある夕食のテーブル <未> (Metti, una Sera a Cena)』(1969) に「Nastro d'Argento」賞、翌1971年には『死刑台のメロディ』に「Nastro d'Argento」賞、さらに翌1972年には『レディ・カリフ <未> (La Califfa)』 (1970) に「Cork Film International」賞が与えられました。
     モリコーネはそんなこととはお構いなしに、自分の道を歩み続けます。1972年にはローマの「電子音楽スタジオ R7」と協力を開始、現代音楽の可能性をさらに幅広く追求します。

     1974年、最も身近な音楽仲間でもあった父マリオが亡くなります。この年の荘重な『立法者モーゼ <未> (Moses the Lawgiver)』(1974)のテーマや、『哀しみの伯爵夫人 (Fatti di gente per bene)』(1974) の哀愁には、この悲しみが反映されているようです。また、同年の『ペイネ愛の世界旅行 (Il Giro del mondo degli innamorati di Peynet)』(1974) の心温まるテーマにも、父との懐かしい思い出が反映されているのかも知れません。
     なお、同じ1974年頃、親友でモリコーネのサントラ録音のほとんど全てを振っていた音楽家・指揮者のブルーノ・ニコライと決裂します。その原因や経過ははっきりしませんが、ニコライの言によれば「純粋に個人的な問題で、音楽に関することではない」とのことです。
     いずれにせよ、これ以降のサントラは基本的にモリコーネがすべて自分で振るようになります。
     さらに1975年には親友の詩人・映画監督パゾリーニが浮浪者に殺されるというショッキングな事件が起こります。
     これらの出来事はモリコーネに大きく影響し、1970年代以降の彼の音楽はぐっと深みを増します。

     1976年からやや映画音楽の仕事量を絞り、内容をさらに凝縮するようになります。
     それが功を奏したためか、1978年の米テレンス・マリック監督の『天国の日々』(1978) のために書いた極上の音楽は1979年にアカデミー賞候補となり、華々しいハリウッド・デビューを果たしたのです。
     残念ながらこの時はジョルジョ・モロダー作曲の『ミッドナイト・エクスプレス』のスコアに敗れ、オスカー獲得とは行きませんでした。今日判断すれば、『ミッドナイト・エクスプレス』のスコアと『天国の日々』のそれと、どちらが素晴らしいかは一目瞭然です。それが正当に評価されないところに米アカデミー賞の問題があり、モリコーネは今後もこの米国アカデミー賞には散々悩まされることになるのです。……


    1980年代---巨匠への道

     モリコーネの80年代は、国際的知名度の上昇と、ハリウッドでの地位確保の10年間と言えるでしょう。
     1980年は、『草原 <未> (Il Prato)』(1979) の「レコード批評家賞 (critica discographia) 」受賞に始まります。
     新作でも同年の『華麗なる女銀行家』(1980)、翌年の『プロフェッショナル』 (「キ・マイ (Chi Mai)」[3:29] が大ヒット) など、曲の美しさに磨きが掛かります。一方、民族音楽との接点が感じられる『ある愚か者の悲劇』(1982) や、現代的手法を用いた『コップキラー』(1982) など実験意欲も相変わらず旺盛でした。またこの年、旧友セルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984) がクラクン・インし、そのために新旧の手法を織り交ぜた“レオーネ・シネミュージック集大成”といった感のスコアを準備します。
     1983年の『サハラ』(1983) はうっとりするテーマ曲の美しさに対し、アンダースコアではディキシーランド・ジャズあり、緊迫したサスペンス・スコアあり、12音や無調を用いた激しい現代調スコアありと多彩で、この時点でのモリコーネの総力を結集した感があります。

     このように功成り名遂げつつあったモリコーネは、1983年、映画音楽の仕事をぐっと減らし、純音楽の作曲やコンサートにより時間を割く決心をします。その結果としてこの年、現代音楽集団「ヌオーヴァ・コンソナンツァ」の運営委員 (the board of administration) にも選ばれます (1983〜1985年の間)。
     翌1984年には、「ヌオーヴァ・コンソナンツァ」の同僚であるエギスト・マッキ (Egisto Macchi) や、パオロ・ベルナルディ (Paola Bernardi) 、カルロ・マリネッリ (Carlo Marinelli) といった現代音楽作曲家と共に、「I.R.TE.M. (Istituto di Ricerca per il Teatro Musicale)(=音楽劇場調査研究協会)」を設立し、ますます現代音楽の研究と発展に尽くす決意を新たにします。
     同じ1984年に恩師の作曲家ゴッフレード・ペトラッシの80歳を祝う記念式典がザガローロ (Zagarolo) で催され、モリコーネは開会の辞を述べるという栄誉に浴しました。
     1985年には『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984) が、「Nastro d'Argento」賞と、BAFTA (The British Academy of Film & Television Arts = 英国映画テレビ芸術アカデミー) 賞を受賞します。アカデミー音楽賞にもノミネートされる予定でしたが、ラッド・カンパニー解散のごたごたが重なり、ワーナー社が正式出品し損なうという事務的なミスで失格となってしまいました。

     1980年年代後半には、今後のモリコーネ作品の方向性を決定する重要な監督3人と出会っています。
     まず1986年に『ミッション』(1986) でアメリカのローランド・ジョフィ監督と初めて協力しました。ロンドン交響楽団を使った壮大な音楽はBAFTA賞とゴールデン・グローブ賞を受賞、アカデミー賞にも候補入りし、モリコーネの代表作の一つとなっただけでなく、この仕事を通じて、モリコーネは、自分の音楽が進もうとする方向を明確に出来たと述べています。『ミッション』は彼の最大のお気に入りとなっただけでなく、彼の作風の大きな転機ともなったのです。
     ジョフィとはこの後も『シャドー・メーカーズ』(1989)、『シティ・オブ・ジョイ』(1992) などで何度も一緒に組むことになります。
     1987年には『アンタッチャブル』(1987) でアメリカのブライアン・デ・パルマ監督と初顔合わせをします。この映画のスコアは、今までのイタリア風の親密なアンサンブルからハリウッド風のゴージャスな響きに変わったことで、モリコーネの映画音楽の歴史の上でも一つの転機と言えますが、素晴らしい音楽であることに変わりはなく、「Nastro d'Argento」賞、BAFTA賞、グラミー賞を軒並み受賞し、オスカーにもノミネートされます。
     ところで『アンタッチャブル』では12音セリー (音列) 的な技法を用いています。このことについて彼は、

     監督との合意の上で、現代音楽作曲家としての興味のある作曲技法を映画音楽に盛り込むことがある。
     そこがハリウッドの映画音楽作曲家と違うところだ。

    [音楽之友社『レコード芸術』1999年2月号「海外誌切抜帖」による]
    と強調しています。
     なお、パルマ監督とはこの後『カジュアリティーズ』(1989) で再共作します。

     1988年には同じイタリアの監督ジュゼッペ・トルナトーレの名作『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988) に音楽を付け、多くの人々に感動を与えました。ここでは息子のアンドレアが愛のテーマを書いており、立派に父を助けています。トルナトーレともこの後、『みんな元気』(1990)、『夜ごとの夢/イタリア幻想譚』(1991)、『記憶の扉』(1994)、『海の上のピアニスト』(1998) などで一緒に仕事をします。
     この1988年には『フェラーラ物語/「金縁の眼鏡」より (Gli Occhiali d'Oro) 』(1987) が「David di Donatello」賞を受賞するという出来事もありました。

     同じ1988年、ローマの「音楽研究実験集団 (Gruppo di Ricerca e Sperimentazione Musicale) 」は、エギスト・マッキとエンコオ・モリコーネの60歳の誕生日を記念して、聖ミケーレ聖堂複合施設の音楽ホール「エクス・ステンディトイオ (ex Stenditoio) 」で、彼らの室内楽による演奏会を開催します。
     モリコーネの業績はようやくクラシック/現代音楽界の方からも注目を集めるようになったのです。
     そしてこの年には純音楽の大作、ヨーロッパのためのカンタータ (1988) も書き上げます。

     1989年には、ローマ演奏大学協会 (Istituzione Universitaria dei Concerti di Roma) がモリコーネの室内楽のみによる演奏会を開き、のちに国営RAI第3放送で放映されたり、リエージュ王立音楽院がモリコーネを指揮者に招いて彼の作品だけで構成されるオーケストラ・コンサートを開いたりと、一層彼の知名度が高まりました。やはりモリコーネの作品を集めた第15回ポンティーノ (Pontino) 音楽祭には、恩師ペトラッシも出席しました。
     一方、『ニュー・シネマ・パラダイス』 (1988) の音楽が「David di Donatello」賞を獲得し、『戦慄の黙示録』 (1987) のスコアが第9回年間エース・ウィナー賞 (Annual Ace Winner) を受賞するなど、相変わらず映画音楽でも成果を上げ、この年1989年のロカルノ映画祭は長年の功績に対し「Pardo d'Oro」を贈りました。
     そして、父方の両親が生まれたアルピノ市からは名誉市民の称号を贈られたのです。


    1990年代---祖国での栄光と海外での過小評価

    = モリコーネの日常生活 =

     多作の人気作曲家モリコーネの一日は、朝5時の起床から始まります。そして朝6時には作曲にとりかかります。
     作曲の仕事は、ローマ中心部のヴェネツィア広場に面した高級アパートの1フロアを借り切った仕事場で行われます。ちなみに住居は同じアパートの別のフロアを丸ごと借りています。
     普通は毎日9時間、曲作りに没頭しますが、レコーディングのある日は朝9時から行います。
     夜は9〜10時に就寝です。

     モリコーネはローマから離れようとしません。ハリウッドの仕事が増えてからも、ロサンジェルスに住むこともないし、英語も話せません (途中で勉強を放棄したらしい)。アカデミー賞にノミネートされても受賞式に出席しないため、受賞できないのはそのためという噂もあります。
     しかしモリコーネがローマの捨てることはないでしょう。ここには愛する4人の子どもたちと、何よりとびきり美味いピザがあるのですから。モリコーネのピザ好きは有名で、彼の飽く事なき創作エネルギーはピザから生まれるのかも知れません。

     1990年代に入り、もはやモリコーネの名声は不動のものとなり、イタリアの誇る大作曲家として大きなコンサートや作曲依頼が相次ぐようになります。純音楽の活動で多忙となり、映画音楽はぐっと減りますが、巨匠の筆のたしなみのような軽妙かつ確実な筆致で書かれるようになり、相変わらずの高水準を維持します。
     しかし、実力が正当に評価されるのはイタリア国内だけで、海外、特にハリウッドでは彼の音楽はほとんど無視される……という状況が相変わらず続きます。

     まず1990年、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団 (モリコーネの母校サンタ・チェチーリア国立音楽院付属のオーケストラ) は、1989/90年のシーズンの定期演奏会で、モリコーネの「ヨーロッパのためのカンタータ (Cantata per l'Europa) 」を取り上げ、モリコーネとの親密な関係を深めます。
     また、「ヌオーヴァ・コンソナンツァ」や「イタリア現代音楽アカデミー (Accademia Italiana di Musica Contemporanea) 」といった現代音楽集団が、モリコーネを特集した室内楽コンサートを開きました。
     一方、『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988) の音楽はBAFTA賞、第43回カンヌ映画祭のSacem基金賞、「David di Donatello」などを軒並み受賞。しかし米国アカデミー賞だけはモリコーネの業績を無視しました。
     同じ1990年モリコーネは、ニーノ・ロータが長いこと (1950-77) 院長を務めた南伊バーリ市のピッツィンニ音楽院ゆかりのバーリ・ニーノ・ロータ音楽ホールで、地元のオケを自ら振って映画音楽コンサートを開いています。そして、シエナのチギアナ音楽アカデミー財団 (Fondazione Accademia Musicale Chigiana) が開いた「音楽と映画についての国際会議 (Convegno Internazionale Musica & Cinema) 」にも招かれています。
     そして、これが縁となって翌1991年には乞われてセルジオ・ミチェリ (Sergio Miceli) と共にチギアナ音楽アカデミーで映画音楽夏期講習を受け持つようになります。そして第60回チギアナ音楽財団は、モリコーネらの作品を集めたコンサートを開きます。
     同じ1991年にはジュゼッペ・トルナトーレ監督『みんな元気』(1990) への音楽で「David di Donatello」賞を獲得しています。

     1992年には『バグジー』(1991) のスコアが米アカデミー賞にノミネートされますが、またもオスカーは逃します。
     しかしヨーロッパではさらにモリコーネに対する評価が高まります。彼は第49回ヴェネツィア国際映画祭の審査員をつとめ、ローマ演奏協会大学 (Istituzione Universitaria dei Concerti di Roma) の芸術委員会のメンバーに推薦され、さらにはフランスの文部大臣から芸術文学勲章をもらったのです!

     1993年には『鯨の中のジョナ』(1993) が「David di Donatello」「Efebo d'Argento」両賞を獲得。フェルモ市 (Fermo) からは名誉市民に列せられ、おまけにレコードやチケットの売上に貢献した業績で劇場産業連盟 (Ente dello Spettacolo) からも「Colonna Sonora」賞をもらっちゃいます。
     映画音楽では『ザ・シークレット・サービス』(1993) などで気を吐き、演奏会用音楽の分野でも、この年には第50回シエナ音楽週間 (Settimana Musicale Senese) で、ソプラノ、器楽合奏、ダンサーのためのモリコーネの大作「Epitaffi Sparsi」 (1991-93) が上演され、オランダのマーストリヒトでも超大作「十字架の道行き (Una Via Crucis) 」 (1991-92) が完全上演されました。
     しかし現代音楽で活動を共にしてきた仲間の一人、エジスト・マッキ (Egisto Macchi) がこの年1993年の夏に急死します。モリコーネは独奏ヴァイオリンのための「エジストへの悲歌」(1993/9) を書いて親友を悼みました。

     1994年、私生活で悲喜こもごもの事件が起こります。母が88歳で亡くなり、同時に3番目の子供アンドレア (次男) が作曲の勉強を終え、一人立ちしたのです。
     恩師ペトラッシにミケランジェロ賞が授与された際、短いスピーチを行うなど、モリコーネは公用で多忙でしたが、この年は、アメリカでようやくモリコーネの業績を評価する動きが出てきたことが注目されます。例えば、アメリカの映画音楽保存協会 (Society for Preservation of Film Music) (SPFM) はモリコーネに功績賞 (the career achievement award) を贈りましたが、この賞がアメリカ人以外に贈られるのは初めてのことです。
     また、「ASCAP」として知られる「アメリカ作曲家・作家・出版社協会 (American Society of Composers, Authors & Publisher) 」から、ゴールデン・サウンドトラック賞を贈られました。

     1995年になると、モリコーネの社会的地位はさらに高まります。
     映画音楽では、第52回ヴェネツィア映画祭でその業績に対し金獅子賞を受け、CAM出版社と『ヴァラエティ (Variety) 』誌が創設した「ロータ賞」を受賞するなど、尊敬は高まるばかりです。
     それどころか、政治・経済の分野でも評価されています。ローマで開かれたイタリア音楽家自治委員会の会議に出席したモリコーネは、音楽に於ける政治・経済問題というテーマで、ミケーレ・カンパネッラ (Michele Campanella) 、ウト・ウーギ (Uto Ughi) 、ヴィットリオ・アントネッリーニ (Vittorio Antonellini) といった並み居る出席者と堂々と議論したのでした。
     そしてこの年モリコーネは遂に、イタリア共和国大統領オスカル・ルイージ・スカルファノから国家勲章を受けるという最高の栄誉を手にしたのです。
     しかし、彼にとって何より嬉しかったのは、息子のアンドレアが指揮法で卒業証書を得たことでしょう。


    21世紀のモリコーネ---トータルな視点での再評価を!

     このように公の活動に多くの時間を割かれるようになったため、1990年代半ば以降、映画音楽の本数が急速に減っているのはファンとして気になるところです。また内容も以前ほど実験精神に溢れたものでなく、以前と似たようなサウンドに安住しつつあるようなマンネリズムを感じないわけではありません。
     しかしそれでも、『海の上のピアニスト』(1998) のように水準の高いスコアをコンスタントに産み続けるのは驚異的です。このスコアもオスカーを取り損ないましたが、それは米アカデミー賞の内向きな体質を示しているのであり、モリコーネのスコアがアカデミー賞を受賞している数々のスコアと較べて何ら遜色のないものであることは明らかです。
     2000年度に書かれた『Malèna』(2000) も早くも様々な賞への入選の噂・期待が流れています。

     映画音楽でもアメリカではなかなか正当に評価されないモリコーネ。しかし、モリコーネの映画作品を熱狂的に支持する人々の間にも、彼が本当に心血を注いで書いているのがコンサート用音楽=前衛的な現代音楽であることの理解は、充分とは言えません。
     我々は、「映画音楽作曲家」とか「前衛・異端作曲家」とか、一面的なレッテルを貼らず、彼の全音楽活動を見渡し、トータルな音楽家として、モリコーネを再評価すべき地点に来ているのではないでしょうか。


    1.   「カントーリ・モデルニ」の前身は、ドイツで弾き語りをしていたアレッサンドロ・アレッサンドローニがイタリアに戻って結成した4人組ポップ・グループ「フォー・カラヴェルズ (The Four Caravels) 」です。これは当時の人気グループ「フォー・フレッシュメン (The Four Freshmen) 」に影響されて作ったと言われ、メンバーの中にはアレッサンドローニの妻や、のち RCA のローマ・サウンドトラック部の部長となったグイド・チンチェレッリ (Guido Cincerelli) も含まれていました。
     モリコーネに『荒野の用心棒』の演奏を頼まれた時、「フォー・カラヴェルズ」に人数を補強したものが「カントーリ・モデルニ」となりました。

    2.   ドメニコ・モドゥーニョはジプシーの血を引く男性歌手で、1958年のサン・レモ音楽祭でグランプリを獲得した人気者。


    =モリコーネ映画音楽:名曲案内=
     鑑賞の手引きとして、筆者の主観でによる5段階評価を付けています。
     最高は★★★★★、最低は


    続・夕陽のガンマン/地獄の決斗Il buono, il brutto, il cattivo (1966)

    ★★★★★

     奇想天外で息もつけない面白さを見せたセルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウェスタン。『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』に続くクリント・イーストウッド主演のイタリア製西部劇第3弾だが、この路線での最高傑作だろう。

     まず、「続・夕陽のガンマン (メイン・タイトル)」からして聴く者の耳をそばだたせずにはおかない。オカリナ、エレキギター、口笛、ジューズ・ハープ(口琴)、人声など様々な楽器を駆使してここで作り出されている特異な音響は、「モリコーネ・サウンド」と呼ばれるようになるもので、既存のアメリカの西部劇の音楽とは異質の、マカロニ・ウェスタンの音楽のお手本となった。中間部では南北戦争の進軍ラッパが幻のように交錯する。
     また、北軍捕虜が南軍の楽しみのために演奏を強制される音楽が、場違いなほど美しく、いわゆる「異化効果」を発揮している。
     橋の爆破シーンでは、進軍ラッパのモティーフを用いた幻想曲に仕立てていて、見事。
     終盤近くでは、金の隠された墓石を求めてテュコ (イーライ・ウォラック) が広大な墓地を走り回るが、この場面の音楽「黄金の恍惚 (L'estasi dell'oro)」が、手に汗握る緊迫感をとてつもなくドラマティックに盛り上げ、思わず息が止まる。
     続くジョー (イーストウッド) 、セテンサ (リー・バン・クリーフ) 、テュコの3者対決のシーンの音楽「(Il triello)」も素晴らしい。


    ウェスタンC'era una volta il west (1968)

    ★★★★

     これもセルジオ・レオーネ監督との作品。
     バンジョー、ハーモニカなどを用い、音型の繰り返しに固執した特異なサウンド。
     また、「アメリカ女ジル」(ジルのテーマ)のように、モリコーネの音楽の気品の高い美しさが現れた曲もある。ここではお目見えして間もないエッダ・デロルソの素敵なヴォカリーズが聴ける。


    死刑台のメロディSacco e Vanzetti (1970)

    ★★★1/2

     ジュリアーノ・モンタルド監督のこの映画ではフォークの女王ジョーン・バエズが何曲かモリコーネのナンバーを歌った。

     特に「Here's to You」[3:07] はテーマ曲としてヒット。
     静かなオルガンで始まり、シンプルな音形が次第に積み重なって、覚えやすい主旋律がコーラスに現れる。ピアノ、エレキ・ベース、歌、コーラスなどが順次加わり、自由への讃歌を高らかに歌い上げていく。
     ジョーン・バエズの歌がないヴァージョンもあり、そちらではバロック風音型で対位的に絡むトランペットが爽やかだ。

     「Speranze di Liberta (自由への希望)」[2:28] は、オーボエ独奏が弦とハープシコードを伴奏に奏でる可憐な哀歌。


    夕陽のギャングたちGiù la testa (1970)

    ★★★★

     セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウェスタンだが、明るく爽やかな音楽が意表を突く。

     例えば、エッダのヴォカリーズが美しいメイン・タイトル「Giù la testa」[4:16] は、マカロニとは思えないほどしゃれた端正な作品。これは彼の全作品中でも最も人気のある曲の一つと言われる。
     他にも、しみじみとしたタッチの切ない「Mesa Verde」や、げっぷのような人声を使った奇妙でユーモラスな「乞食たちの行進曲 (Marcia Degli Accattoni)」[5:54]、それにフィナーレの「Dopo l'esplosione」等、モリコーネらしい創意工夫に満ちた傑作スコアである。


    1900年Novecento (1976)

    ★★★1/2

     1900年夏の同じ日に生まれた大地主の息子アルフレード (デ・ニーロ) と、小作人頭の息子オルモ (ドパルデュー) の友情、敵対、恋を、ファシズムと左翼の対立する激動のイタリア現代史を舞台に描くベルナルド・ベルトルッチ監督の超大作(316分!)。

     音楽は大変クラシック風の古典的な曲調で、ギター、チェンバロなどの響きにオーボエやフルートの歌が乗るという、モリコーネのオーソドックスな方法で作曲されている。
     冒頭の「ロマンツォ(1900年のテーマ) (Romanzo)」[4:05] で提示されるノスタルジックなメロディーが映画全体のメイン・テーマとなり、「父と娘 (Padre e figlia)」[1:27]、「狩猟の呼びかけ (Apertura della caccia) 」[5:44]、「第四身分 (Il quatro stato)」[1:33]、「1945年・春 (Primavera - 1945)」[2:06] といったキューに、変奏形で繰り返し現れる。
     一方、「1908年・夏 (Estate - 1908)」[5:01] には静かに美しい第2のテーマが登場し、最後の「オルモとアルフレード (Olmo e Alfredo)」[2:18] でも聴かれる。
     なお、「1922年・秋 (Autunno 1922)」[4:43] は、彼の若い頃の演奏会用作品「フレスコバルディの主題による変奏曲」の第5変奏を転用したもの。

    ミッションThe Mission (1986)

    ★★★★★

     モリコーネの代表的傑作の一つ。
     征服の先兵としての役を担わされたキリスト教伝道師と、アマゾン原住民との接触を描くこの映画でモリコーネは、18世紀ローマ・カトリック教会音楽の語法と、南米の森林に原住するグァラニー族の民族音楽とを融合させる試みを行った。
     モリコーネはこう語る。

     この映画の仕事を引き受けたのは、映画を観た時に一目惚れというか、まったく恋する状態になってしまっていたからだ。最初はあまりにも映像が素晴らしいので引き受けたくないくらいだった。これは音楽が必要ないと思うくらいの一目惚れだったのだ。
    [川原晶子氏による『ミッション』サントラ日本盤解説(東芝EMI, 1986年)より]
     モリコーネはオーソドックスな管弦楽に、南米の縦笛ケーナやボンゴ、マラカスといった土俗打楽器を導入し、南米の民族音楽との統合を図った。その最も効果が現れている曲は、「地上の楽園 (On Earth As It Is in Heaven)」[3:49] であろう。
     「地上の楽園」では、敬虔な祈りの合唱に、神父ガブリエルの吹く美しいオーボエが重なる。ほどなくエキゾチックな打楽器が野性的なリズムを打ち始め、合唱もリズミックになって南米のムードを醸し出す。
     私が最も誇れるスコアは『ミッション』だ。「地上の楽園」のオーボエは私が心の中に秘めていたものだ。
     作品は複合的な構造を持っている。曲は古風なスタイルで始まるが、これは次第に現代的な要素を強めていくためだ。古風な構造は背景で続くが、土俗的な打楽器のリズムに影響を及ぼすことはない。
     『ミッション』を語る時、私はそれを古風な語法で書かれた現代音楽と説明することにしている。

    [1989年、『Hollywood Reporter』誌の Giovanna Grassi との対談]
     『ミッション』のスコアはモリコーネ自身にとっても大きな意味を持っていた。
     『ミッション』の音楽は私という人間を非常によく表している。私がこういうタイプのスコアしか書かないというふうに限定しているのではない。その音楽が、私の仕事の興味の方向をとてもよく示しているということだ。
     私の音楽のいくつかの要素は、既に『ウェスタン』で示されていたものだが、ここへ来てずっとくっきりと浮かび上がっている。神秘主義はすでに私の他の映画スコアに見られたが、この特別な映画では、大変明快なやり方で現れている。それは私の音楽の今後の方向性も示しているのだ。

    [1987年、BAM誌の Jerry McCulley との対談で]
     なお、サウンドトラックでは、モリコーネ自身がロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、ロンドン・ヴォイセズ、バーネット児童合唱団、南米の小楽団、グループ・アンカンタシオンを指揮している。


    アンタッチャブルThe Untouchables (1987)

    ★★★★1/2

     巨匠ブライアン・デ・パルマ監督との初共作。

     監督との仕事はいつもスムーズにいったわけではない。
     ブライアン・デ・パルマ監督は愛国的で勝ち誇った音楽が警察のアクションに伴うべきだと考えていたが、私は別の意見を持っていた。

    [1989年、『Hollywood Reporter』誌の Giovanna Grassi との対談]
     結局モリコーネが折れたことは、音楽を聴けば明白。
     しかし、アンダースコアで12音技法を使うなどある程度の主張は通させてもらったようだ。

     「The Untouchables (End Title)」[3:10] は交響的な厚みと輝きを持った名曲。
     「アル・カポネ (Al Capone)」[2:55] はいつものモリコーネ節を彷彿とさせるが、音色が洗練されている。従来のあくの強さが薄まっているのは、ハリウッドのミュージシャンを使ったからか? 

    『ニュー・シネマ・パラダイス』 Nuovo cinema paradiso (1989)

    ★★★★

     敗戦後のシチリア島−−その小さな村の映画館「映画天国」座に通い詰める"トト"ことサルヴァトーレ少年 (サルヴァトーレ・カシオ) の青春、恋、人生、そして映画への熱い思いを、映写技師アルフレード (フィリップ・ノワレ) との友情を軸に描く名作。
     モリコーネのスコアは親密に映画に寄り添い、ピアノと弦楽合奏、それに木管を中心とした室内楽的な響きで、情感豊かな、ほのぼのとした雰囲気を与えている。  タイトル曲「ニュー・シネマ・パラダイス (Nuovo cinema paradiso)」[2:59] に示される憧れに満ちたメロディは、映画全体の第1主題と呼んでもいい。
     次の「成長 (Maturita)」で聴かれるのはトトとアルフレードの友情を表現する第2主題と言えるだろう。
     「過去と現在 (Infanzia e maturita)」[2:14] では3拍子の軽やかな第3主題に続き、第2主題が完全な形で展開される。どちらもアルフレードとの少年時代の楽しい思い出を象徴する。
     そして甘く切なく、憧れが膨れ上がるような「愛のテーマ (Tema d'amore)」となる。クラリネットで慎ましく始まり、大きく盛り上がるこのテーマは、1964年生まれエンニオ・モリコーネの息子アンドレア・モリコーネ (1964〜 ) の作曲。
     「廃墟の中で (Dopo il crollo)」[2:02] では第1主題が弦楽四重奏でやさしく現れる。
     「初恋 (Prima gioventu)」[2:15] では再び揺りかごのような心地よいリズムに乗って、まず第3主題が登場、情感溢れるサックスによる第2主題の展開へと繋がる。
     「ナタの愛のテーマ (Tema d'amore per nata)」[4:05] は「愛のテーマ」の変奏による長大な管弦楽スコアだが、これは映画ではラストシーンに流され、感動を大きく盛り上げる。
     「検閲 (Visita al cinema)」[2:22] は室内楽編成による第1主題を使ったスコア。
     「第4幕 (Quattro Interludi)」[1:56] はやはり第1主題を用いているが、即興で遊んでいるようなピアノと弦楽による短い曲で、実験的サウンドが垣間見られる。
     「家出、捜索、そして帰宅 (Fuga, ricerca e ritorno)」[2:06] は、「愛のテーマ」を中心に据えたドラマティックな音楽。
     「二人だけの映写会 (Proiezione a due)」[2:07] は第2主題を扱った心温まるキュー。
     そして、「セックス・アピール 〜 フェリーニの登場 (Dal Sex Appeal Americano Al Primo Fellini)」[3:26] では、リッチなオーケストレーションを施した第1主題の様々な変奏となる。トトとアルフレードの、いやトルナトーレとモリコーネの映画讃歌と言えよう。
     「トトとアルフレード (Toto e Alfredo)」[1:20] では弦楽合奏の伴奏に乗り、独奏ヴァイオリンが甘酸っぱい第3主題を弾き、アルフレードとの友情を表す。
     「エレナへ (Per Elena) 」[1:52] では「愛のテーマ」がエレジー風の弦楽四重奏にアレンジされ、愛するエレナへの別れの感情を描くのである。

     演奏しているローマ音楽家組合管弦楽団 (Unione Musicisti di Roma) は一流の演奏家を揃えているが、サックスにもう少しいい音色を望みたい。また、録音がややデッド。響きが乾いていると楽器から出る非楽音まで拾って興ざめとなりがちなので、録音はもう少しホール・エコーを拾うようにしてもらいたい。

    海の上のピアニストLa Leggenda del Pianista sull'Oceano (1998)

    ★★★★

     1900年に豪華客船ヴァージニアン号で生まれ、捨て子として置き去りにされ、「ナインティーン・ハンドレッド」と名付けられた男。彼は生涯一度も陸に降り立つことなく、船の上のみを世界とし、天才ピアニストとしての人生を過ごす……
     モリコーネは、ここで相変わらず優しい情感に溢れながら、シンフォニックなスケール感や実験的な手法にも満ち溢れた名スコアを書いた。

     監督ジュゼッペ・トルナトーレは『ニュー・シネマ・パラダイス』以来、全ての作品の音楽をモリコーネに頼んでいる。今回も脚本を書く前からモリコーネに相談している。
     モリコーネはすぐにアレッサンドロ・バリッコの原作を買って読み、相談を受けた翌朝の8時前にトルナトーレに電話をかけ、「じゃ、打ち合わせしよう」と言ってきた。そして、その日の午後にはもう、この映画のための音楽をトルナトーレにピアノで弾いて聴かせたという。
     トルナトーレは「私は映画の音楽を付け足しとは考えていない。むしろ、脚本を書く段階から作曲という創造行為と関わりたい。[何しろ]音楽は台詞の表現や演技に影響を与えるし、何よりカメラ・ワークに影響を及ぼすのだから」と言っている。
     実際、『ニュー・シネマ・パラダイス』で映写技師アルフレードを演じたフィリップ・ノワレに前もってモリコーネのテーマ曲を聴かせたら、あの名演を引き出せたのだという。

     モリコーネはこのスコアに関し、次のような声名を出している。

     私が、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の映画『海の上のピアニスト』のために作曲したこの音楽は、これまでに私がてがけた映画音楽にも見ることの出来ない特質を備えていると信じています。

     この映画は真の音楽映画であり、そのために私は心理学、歴史、言語学から音楽的技巧や名人芸 (この映画は、一人の音楽家、独学の偉大なピアニストに関する物語なのです) といったモティーフや、壮大で叙情的な音楽シーン、あるいは親密で安らぎのあるシーン、またあるいはエンターテインメントに満ち溢れた楽しいシーンや、そうすと思えば徹底したリアリズムのシーン、といった様々なテーマの音楽シーンを相手に奮闘しなければなりませんでした。
     これら全てのモティーフが見事に溶け合い、その結果この映画の特質を観客の皆様に充分に楽しんでもらうために、なくてはならない表現力が生み出されているのだと思います。

     私は、この映画とその音楽が、それらにふさわしい成功を収めることを願ってやみません。この映画音楽は、扱われているテーマの多様性からいっても、私のこれまでの作品の中で最も成功を収めた作品の一つに数えられることでしょう。

    [1999年9月、ローマにて。『ジャパン・タイムズ』の訳を一部改編]
     声名で述べているように、このスコアではモーツァルトからラグタイム、ディキシーランド・ジャズ、そして原生的なフリー・ジャズまでが自在に扱われ、それがドラマと一体となって全体で劇的なシンフォニック・スコアを形成するという難事業が達成されている。そのためある部分では偶発的に多調性やポリリズムといった現代音楽の手法にも踏み込んでいる。

     映画との関連で言えば、ナインティーン・ハンドレッドがピアノ演奏をレコードに吹き込む際、船室の窓越しに突然現われた少女(メラニー・ティエリー)に心を奪われ、彼女のテーマを知らず知らずのうちに即興で弾きはじめる場面があるが (「愛を奏でて (Playing Love)」) 、ここで生まれた主題が映画全体のメイン・テーマ「1900 (ナインティーン・ハンドレッド) のテーマ」になる。

     ただやはり、録音がオン・マイク過ぎてホールのエコーを拾っていない。音が生々し過ぎで、演奏の粗も目立ち、夢見るような幻想の伝説に浸り切れない。「アカデミア・ムジカーレ・イタリアーナ (イタリア音楽アカデミア)」の演奏は超一級とは言えないまでも悪くはないのだが。


    =エンニオ・モリコーネ 純音楽作品 概説=

     モリコーネの演奏会用作品は1999年現在、公式リストで94を数えます。これ以外にサンタ・チェチーリア音楽院在学中の習作的な作品等も含めると、モリコーネのクラシック系作品は膨大な数にのぼります。
     それをすべてここに掲載することは、このページの意図を超えることになりますので、ここではモリコーネのキャリアの上で重要な作品、あるいは映画音楽と関連が深い作品のみを、必要に応じてコメントを加えながら、年代順に取り上げていきます。






    =エンニオ・モリコーネ 映画音楽リスト=

    凡例: <VD> =劇場未公開/ビデオ・タイトル
        <TV> =劇場未公開/テレビ放映時タイトル


    =モリコーネ年譜=

     以下は、セルジオ・ミチェリ (Sergio Miceli) 著『Ennio Morricone: La musica, il cinema』 (リコルディ=ムッキ社刊、ミラノ、1994年)に基づき Martin Nadeau が編訳したものによっています。

    1928年11月10日
     ローマに生まれる。父 Mario Morricone はトランペット奏者。母 Libera Ridolfi は専業主婦。エンニオは長男で、のちにアドリアーナ (Adriana)、アルド (Aldo)、マリア (Maria)、フランカ (Franca) という弟妹たちも生まれる。

    1938年
     サンタ・チェチーリア音楽院に入学、ウンベルト・セムプローニ (Umberto Semproni) のトランペットの講義を受ける。

    1941年
     カルロ・ゼッキ (Carlo Zecchi) が指揮する歌劇場管弦楽団に参加する学生の一人に選ばれ、ヴェネツィア方面の演奏旅行に参加。

    1943年
     補講の和声学の教師ロベルト・カッギャーノ (Roberto Caggiano) はモリコーネの才能を認め、彼を和声学の本教室に送る。モリコーネはそこで6ヶ月かけて和声学を修める。そして作曲を専攻するよう勧められる。

    1944年
     作曲法初級の教室に入り、カルロ・ジョルジオ・ガロファロ (Carlo Giorgio Garofalo) とアントニオ・フェルディナンディ (Antonio Ferdinandi) に学ぶ。
     また同じ頃、アルベルト・フラミニ (Alberto Flamini) が率いるバンドで、第2トランペットを吹く(首席奏者はモリコーネの父)。フラミニの楽団は、ローマのホテル「地中海 (Mediterraneo) 」と「マッシモ・ダゼリョ (Massimo d'Azeglio) 」に宿泊している米軍とカナダ軍の部隊のために演奏した。

    1946年
     10月11日、トランペット楽科の卒業証書を受け取る。成績は10点満点の7点。
     モリコーネは「7人の青春リーダー」という創作グループに入っており、この年にはそのグループの指導者フッコ (Fukuko) の歌詞による声とピアノのための「朝 (Il Mattino) 」という歌曲を書いた。
     またこの年、レヴュー劇場から初めてアレンジと楽器配置の仕事をもらう。

    1947年
     ジャコモ・レオパルディ (Giacomo Leopardi) の歌詞による声とピアノのための「模倣 (Imitazione) 」を作曲。
     またオリント・ディニ (Olinto Dini) の歌詞による声とピアノのための「親密さ (Intimita) 」を書く。
     この年、本格的な劇場からの初めて作曲の依頼を受ける。

    1950年
     モリコーネは未来の伴侶マリア・トラヴィア (Maria Travia) と出会う。
     この年はカトリックの「聖年 (Anno Santo)」であり、モリコーネは放送用に良く知られた様々な祈りの歌を編曲。

    1951年
    音楽院で合唱音楽の講義の3年目、合唱指揮コースの最終年の授業を受ける。しかし卒業前に脱落。

    1952年
     7月14日、10点満点中7点の成績を取って吹奏楽楽器法 (ファンファーレなど) で修了。
     ピアノのための「葬送舟歌 (Barcarola Funebre) 」、「題名のない物語のための前奏曲 (Preludio a una Novella senza Titolo) 」を書く。
     最初のラジオ劇の伴奏音楽を書く。

    1953年
     ラニエリ・ニョリ (Ranieri Gnoli) の歌詞による声とピアノのための「Distacco I e Distacco II」、チェザーレ・パヴェセ (Cesare Pavese) の歌詞によるアルト独唱とピアノのための「死という真実 (Verrá la Morte) 」、サルヴァトーレ・カシモド (Salvatore Quasimodo) の歌詞によるバリトン独唱と5つの楽器のための「Oboe Sommerso」を作曲。
     夕方のラジオ・ショーのための一連の長いアレンジを始める。
     金管、ティンパニ、ピアノのための「ソナタ」を完成。これが彼の“作品目録”に載る最初の曲となる。

    1954年7月6日
     ゴッフレード・ペトラッシから10点満点中9.5点の成績をもらい、作曲法の勉強を修了。

    1955年
    映画音楽の仕事を始める。最初は有名映画作曲家のスコアを編曲したり、彼らの名で曲を書いたり (ゴーストライティング) した。
     兵役に服する。そこで彼は様々な作曲家の多くの作品を編曲する機会を得た。

    1956年10月13日
     マリア・トラヴィアと結婚。

    1957年
     長男マルコ (Marco) 誕生。

    1958年
     RAIの音楽アシスタントの職を得ることに成功。しかし仕事の最初の日に辞職し、ダルムシュタットへ行って、ジョン・ケージのセミナーを受ける。そしてノーノの「ディドーネの合唱」初演に行く。

    1960年
     ヴェネツィアのフェニーチェ劇場で、彼の「管弦楽のための協奏曲」が初演される。
     様々なテレビ・ショーで編曲者としての仕事を始める。

    1961年
     長女アレッサンドラ誕生(二人目の子供)。
     最初のオリジナル・スコア『Il Federale』を書く。

    1964年
     次男アンドレア誕生(三人目の子供)。
     セルジオ・レオーネ監督及びベルナルド・ベルトリッチ監督との仕事が始まる。
     数年前から増えていたRCAでのアレンジャーとしての仕事は、この年がピークとなる。

    1965年
     『荒野の用心棒』で「Nastro d'Argento」賞を受賞。
     フランコ・エヴァンジェリスティに現代音楽集団「ヌオーヴァ・コンソナンツァ (Associazione Nuova Consonanza) 」へ誘われ、「即興国際集団 (International Group of Improvisation) 」の活動にも参加するようになる。

    1966年
     三男ジョヴァンニ誕生。
     ピエル・パオロ・パゾリーニ監督やジッロ・ポンテコルヴォ (Gillo Pontecorvo) 監督とのコラボレーションが始まる。

    1967年
     マウロ・ボロニーニ監督との共同作業開始。
     第20回カンヌ国際映画祭の審査員を依頼される。

    1968年
     アレンジャーとしての仕事をぐっと減らし、映画音楽に集中する。この1年で20本もの映画音楽を書く。
     エリオ・ペトリ (Elio Petri) 監督との共同作業開始。

    1969年
     「スポレト映画賞」受賞。
     ジュリアーノ・モンタルド (Giuliano Montaldo) 監督との共作開始。

    1970年
     フロシノーネ市 (Frosinone) に新設された市立音楽学校「リニチオ・レフィーチェ (Linicio Refice) 」で作曲を教える。生徒にはシルヴァーノ・アウレリ (Silvano Aureli) 、ルイージ・デ・カストリス (Luigi De Castris) 、ルイージ・ディ・ステファーノ (Luigi Di Stefano) 、アントニオ・ポーチェ (Antonio Poce) 、リッカルド・ゼナドッキオ (Riccardo Zenadocchio) らがいた。この職は1972年まで続ける。
     『Metti, una Sera a Cena』 (1969) で「Nastro d'Argento」賞を受賞。

    1971年
     『死刑台のメロディ』で「Nastro d'Argento」賞を受賞。

    1972年
     ローマの「電子音楽スタジオ R7」と協力。
     『La Califfa』 (1970) は「Cork Film International」賞を受賞。

    1974年
     父マリオ死す。

    1979年
     『天国の日々』 (1978) 、アカデミー賞ノミネート。

    1981年
     『Il Prato』 (1979) は「レコード批評家賞 (critica discographia) 」を受賞。

    1983年
     現代音楽集団「Nuova Consonanza」の運営委員 (the board of administration) に選ばれる (1985年まで)。
     映画音楽の仕事をぐっと減らす。

    1984年
    ザガローロ (Zagarolo) でゴッフレード・ペトラッシの80歳を祝う記念式典があり、モリコーネがオープニング・スピーチを行う。
     パオロ・ベルナルディ (Paola Bernardi) 、エギスト・マッキ (Egisto Macchi) 、カルロ・マリネッリ (Carlo Marinelli) と共に、「I.R.TE.M. (Istituto di Ricerca per il Teatro Musicale)(=音楽劇場調査研究協会)」を設立。

    1985年
     『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』 (1984) で「Nastro d'Argento」賞と、BAFTA (The British Academy of Film & Television Arts、英国映画テレビ芸術アカデミー) 賞を受賞。

    1986年
    『ミッション』 (1986) がオスカーにノミネートされ、BAFTA賞とゴールデン・グローブ賞を受賞。

    1988年
     ローマの「音楽研究実験集団 (Gruppo di Ricerca e Sperimentazione Musicale) 」は、エギスト・マッキとエンコオ・モリコーネの60歳の誕生日を記念して、聖ミケーレ聖堂コンプレックスの音楽ホール「エクス・ステンディトイオ (ex Stenditoio) 」で、彼らの室内楽による演奏会を開催。
     『アンタッチャブル』 (1987) で「Nastro d'Argento」賞、BAFTA賞、グラミー賞を受賞し、オスカーのノミネートを受ける。
     『フェラーラ物語/「金縁の眼鏡」より (Gli Occhiali d'Oro) 』 (1987) が「David di Donatello」賞を受賞。

    1989年
     ローマ演奏大学協会 (Istituzione Universitaria dei Concerti di Roma) はその室内楽の第44シーズンに、「英知 (La Sapienza) 」大学の「大ホール (Aula Magna) 」で、モリコーネの作品ばかりで構成される演奏会を開いた。この映像は後に国営RAI第3放送で放映された。
     また、リエージュ王立音楽院はモリコーネ自身が指揮するオール・モリコーネ・プログラムによる管弦楽演奏会を催した。
     第15回ポンティーノ (Pontino) 音楽祭も「セルモネタ (Sermoneta) 」でのコンサートをモリコーネに捧げた。このコンサートにはペトラッシも出席。
     フロシノーネの音楽集団「900」は彼の作品だけで室内楽コンサートを開く。
     『ニュー・シネマ・パラダイス』 (1988) の音楽で「David di Donatello」賞受賞。
     『戦慄の黙示録』 (1987) の音楽で第9回年間エース・ウィナー賞 (Annual Ace Winner) 受賞。
     ロカルノ映画祭は長年の功績に対し「Pardo d'Oro」を贈る。
     父方の両親が生まれたアルピノ市から名誉市民とされる。

    1990年
     サンタ・チェチーリア音楽院の管弦楽団「アカデミア・ナツィオナーレ (Accademia Nazionale) 」は、1989/90年の定期演奏会で、モリコーネの「ヨーロッパのためのカンタータ (Cantata per l'Europa) 」を演奏。
     「イタリア現代音楽アカデミー (Accademia Italiana di Musica Contemporanea) 」はギオーネ (Ghione) 劇場でモリコーネの作品を集めた室内楽の夕べを開催。
     「ヌオーヴァ・コンソナンツァ」第27回フェスティヴァルでは現代芸術国立美術館 (Galleria Nazionale d'Arte Moderna) でモリコーネの作品に絞った室内楽コンサートを開く。
     バーリ・ニーノ・ロータ音楽ホール交響楽団を自ら振って映画音楽コンサートを開く。
     『ニュー・シネマ・パラダイス』 (1988) の音楽で「David di Donatello」賞受賞。
     BAFTA賞、第43回カンヌ映画祭のSacem基金賞、「David di Donatello」を受賞。
     シエナのチギアナ音楽アカデミー財団 (Fondazione Accademia Musicale Chigiana) が開いた「音楽と映画についての国際会議 (Convegno Internazionale Musica & Cinema) 」に出席。

    1991年
     ルチアーノ・アルベルティ (Luciano Alberti) の要望で、チギアナ音楽アカデミー (Accademia Chigiana) はモリコーネとセルジオ・ミチェリ (Sergio Miceli) を招いて映画音楽に関する夏期講習を再建。
     第60回チギアナ音楽財団 (The 60th "Estate Musicale Chigiana) は、ギラルディ (Ghirardi) 、ドナトーニ (Donatoni) 、モリコーネの作品を集めたコンサートを主催。
     『みんな元気』 (1990) の音楽で「David di Donatello」を受賞。
     イギリスの音楽学者フィリップ・タッグ (Philip Tagg) はゲーテベルク (Goeteberg) 大学の名誉博士号をモリコーネに贈るよう提案。

    1992年
     バーゼルの「映画製作国際セミナー (International Seminaire fuer Filmgestaltung) 」がハンスイェルグ・パウリ (Hansjoerg Pauli) とセルジオ・ミチェリを招いて行った映画音楽に関する講習会で、パーゼル市音楽アカデミー (Musik Akademie der Stadt Basel) は室内楽コンサートをモリコーネに捧げた(プログラムを彼の作品で構成)。
     ローマ演奏協会大学 (Istituzione Universitaria dei Concerti di Roma) の芸術委員会のメンバーに推薦される。
     『バグジー』 (1991) がオスカーにノミネートされる。
     オスナブリュック (Osnabrueck) 大学とその音楽院が、音楽学者ハンス=クリスティアン・シュミット (Hans-Christian Schmidt) の先導でモリコーネ作品による室内楽演奏会を開催。
     モリコーネは第49回ヴェネツィア国際映画祭の審査員をつとめる。
     フランスの文化大臣ジャック・ラン (Jack Lang) がモリコーネに「Officier de l'Ordre des Arts et des Lettres (芸術文学勲章受勲者)」の称号を与える。
     モリコーネの業績に「Saint Vincent la Grolla d'Oro」賞が与えられる。

    1993年
     フェルモ (Fermo) の名誉市民に列せられる。
     『鯨の中のジョナ』 (1993) に対し、「David di Donatello」「Efebo d'Argento」両賞が与えられる。
     第50回シエナ音楽週間 (Settimana Musicale Senese) で、モリコーネの「Epitaffi Sparsi」を場面の形式で上演。
     オランダのマーストリヒト (Maastricht) で、モリコーネの「十字架の道行き (Una Via Crucis) 」が完全な形で上演される。
     劇場産業連盟 (Ente dello Spettacolo) から「Colonna Sonora」賞を受ける。

    1994年
     ペトラッシにミケランジェロ賞が授与された際、短いスピーチを行う。
     アメリカの映画音楽保存協会 (Society for Preservation of Film Music) (SPFM) から功績賞 (the career achievement award) を贈られる。この賞がアメリカ人以外に贈られるのは初めてのこと。
     アメリカ作曲家・作家・出版社協会 (American Society of Composers, Authors & Publisher) (ASCAP) からゴールデン・サウンドトラック賞を贈られる。
     母が88歳で亡くなる。
     3番目の子供アンドレア (次男) が作曲の勉強を終える。

    1995年
     イタリア音楽家自治委員会 (Comitato Autonomo Musicisti Italiani) (CAMI) がローマ歌劇場 ("Teatro dell'Opera" of Rome) で開催した会議に出席。テーマは音楽に於ける政治・経済問題で、他の出席者はミケーレ・カンパネッラ (Michele Campanella) 、ウト・ウーギ (Uto Ughi) 、ヴィットリオ・アントネッリーニ (Vittorio Antonellini) だった。
     内閣諮問委員会議長ランベルト・ディニの提案により、イタリア共和国大統領オスカル・ルイージ・スカルファノはモリコーネに「Commendatore dell'Ordine」「Al Merito della Repubblica Italiana」を授与。
     息子のアンドレアは管弦楽指揮で卒業証書を得る。
     リヴァプール大学でポピュラー音楽を教えるフィリップ・タッグはモリコーネに音楽での名誉博士号を勧める。
     第52回ヴェネツィア映画祭 (the 52nd "Biennale del Cinema" in Venice) で、その業績に対し金獅子賞 (Leone d'Oro) が贈られた。
     CAM出版社と『ヴァラエティ (Variety) 』誌が新たに創設した「ロータ賞」を受賞。


    ■モリコーネ・リンク■

    A Fistful of Soundtracks
     今日本で最も大規模で信頼できるモリコーネ情報 (ディスコグラフィーを含む) と言えば、ここ! (ウェブ・マスター:SEANさん) 他にもフランシス・レイなどヨーロッパの映画音楽が紹介されており、ヨーロッパ映画音楽ファンが集う掲示板も盛況。

    The Ennio Morricone Fan Page
     オランダのファンが運営している英語サイト。その情報量は膨大で、経歴や演奏会用作品に関する資料も充実。本ページ作成にもずいぶん参考にさせて頂きました。

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    ©2001-03 早崎隆志 All rights reserved.
    更新日:2001/04/01; 7/14; 2003/4/19

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