ニーノ・ロータ
Nino Rota   1911〜1979
早崎 隆志

モリコーネと並ぶ、イタリア最大の映画音楽作曲家。フェリーニ作品と『ゴッドファーザー』シリーズで有名だが、150本以上の映画に音楽を付けている。音楽的基礎がしっかりしているだけでなく、泣かせるメロディも書けるので、大衆的人気も集めた。その流麗な旋律美とペーソスは比類がない。
 ミラノ音楽院でピッツェッティに学んだのち、ローマのサンタ・チェチーリア音楽院でカセッラに師事。ストラヴィンスキーとも親交を持ち、現代のさまざまな技法をイタリア的感性と結合させた新鮮な作風を確立した。
 ロータ自身は、本業はあくまでクラシックの作曲であり、映画音楽は趣味にすぎないと言っていたが、彼の名は映画音楽の分野で永久に残るだろうし、最近は純音楽作品も脚光を浴び始めた。

=Contents=

  • =ロータと映画音楽=
  • =ロータ:歩みと作品=
  • =ロータ映画音楽:名曲案内=
  • =ロータ純音楽作品 概説==
  • =ロータ映画音楽リスト=

     ニーノ・ロータの音楽は不思議な魅力を持っています。
     目新しい実験をしているわけも、人目を引く派手な仕掛があるわけでもありません。地味で、どうってことのない音楽とも言えます。
     でも、その何気ない仕草こそが心に強く訴えかけるのです。情感豊かで人なつっこい彼の音楽は、得も言われぬペーソス (哀愁) に富み、泣かせてくれるかと思えば、時には痛烈な皮肉という薬味も含んでいます。

     ロータの音楽の最大の魅力がメロディにあること、これは間違いありません。旋律 (歌謡性) の魅力は、イタリア音楽の伝統的な特徴でもあります。
     しかし、同じ哀感たっぷりのひなびたメロディーでも、例えばニコラ・ピオヴァーニなどと違うのは、ロータがクラシック作曲家としてのしっかりした音楽的素養を持っている点です。メロディの魅力を、ハーモニーや対位法、管弦楽法 (オーケストレーション) を凝らして、何倍にも押し広げることが出来るのです。
     その観点からは、ロータの純音楽作品にも目を向けてみる必要があります。最近は彼のクラシック作品も次々とCD化され、彼の演奏会用・劇場用作品を耳にすることが出来るようになってきました。

     そこで以下では、単なる「映画音楽作曲家」ではなく、クラシック音楽でのキャリアも含めた、「作曲家」としてのロータの全体像を追ってみようと思います。彼の全創作活動を鳥瞰することで、彼にとって映画音楽がどのような位置を占めていたかを知ることもできるでしょう。


    =ロータと映画音楽=

     ロータの本職はクラシックの作曲家でした。その点ではコルンゴルトウォルトンオネゲルショスタコーヴィチといった人々と同じ様な立場にありました。
     にも関わらず、ロータの場合は「映画音楽専門の作曲家」というイメージが強いのは、ロータがクラシックの作曲法にこだわらず、映画によってがらりとスタイルを変えて、莫大な量下記リストでは148本) の映画音楽を生産し続けたからでしょう。
     実際、『ゴッドファーザー』『ロメオとジュリエット』『戦争と平和』のようなシンフォニック・スタイルを予想して他の作品を聴くと、大抵は裏切られます。1950〜60年代のイタリア映画では予算の制約で小さなバンドしか使えず、それに合わせてロータも軽音楽風のスコアを無数に書いているからです。
     それでも驚くのは、ジャズでもラテンでもブギウギでも、監督の意図に沿っていくらでも自由に音楽のスタイルを変え、各映画にぴったり合わせてしまうその手腕です。この才能のためにロータは重宝がられ、レナート・カステッラーニ、マリオ・モニチェッリ、キング・ヴィダー、ルネ・クレマン、エドワード・ドミトリク、デ・フィリッポ、エドウアルドら数多くの監督から音楽を頼まれました。
     しかし、本当にロータが才能を発揮したのは、真に優れた監督と仕事をした時だけでした。フェリーニ、ヴィスコンティ、ゼフィレッリ、コッポラなどとの作品には、高度な芸術作品にしか見られない希有のきらめきが宿っています。
     「天才は天才を知る」ということなのでしょうか。

     ロータ自身は「私の本職はクラシックの作曲家だ。映画音楽は楽しみで書いている。お金儲けにもなり、一石二鳥だ」と言っています。
     彼が自らサウンドトラックを振ることはなく、もっぱら友人のカルロ・サヴィーナ、フランコ・フェッラーラなど、映画音楽専門の音楽家に任せています。


    =ロータ:歩みと作品=

    天才少年の日々

     ニーノ・ロータは1911年12月3日、北イタリアのミラノで生まれました。
     母エルネスティーナ (Ernestina) は優れたピアニストであり、母方の祖父ジョヴァンニ・リナルディ (Giovanni Rinaldi, 1840〜1895) はレッジォ・エミーリア (Reggio Emilia) の薫陶を受けたピアノ奏者かつ作曲家でした。おまけに祖母ジョコンダ・アンフォッシ (Gioconda Anfossi) もピアノ弾きだったというから、彼の家は相当な音楽一家だったわけです。
     こういう環境に生まれ育ったニーノは、当然早くから母にピアノを習い、幼い頃から音楽的才能を発揮しました。

     最初に曲を書いたのは1919年、7歳の時と、かなり早熟です。
     1923年、11歳の年には最初のオラトリオ「洗礼者ヨハネの幼年時代 (L'infanzia di San Giovanni Battista) 」を書きました。これはミラノとパリで演奏され、彼の名は「天才児」としてイタリアとフランス中に響き渡りました。
     同じ1923年、ロータはミラノ音楽院に入学し、ジャコモ・オレフィーチェ (Giacomo Orefice) に作曲を習い、Delachi、Bas にも付きました。
     しかし、もっと重要だったのは、音楽院卒業後に著名な作曲家イルデブランド・ピッツェッティ (1880〜1968) から教えを受けたことです。ロータの音楽のきちっとした古典的な骨組みは、ピッツェッティから得たものでしょう。
     その成果は早くも、1926年、14歳で書き上げたアンデルセン童話による叙情喜歌劇「Il Principe Porcaro」に認められます。

     その一方で、「天才少年 (enfant prodige) 」の名声はますます高まり、少年作曲家兼少年指揮者としてもてはやされました。
     間もなくローマに出たロータは、今度はサンタ・チェチーリア音楽院に入り、アルフレード・カセッラに学びます。
     カセッラは、常にイタリア音楽に刺激を与え続けた指導的作曲家でした。この頃は彼の中期に当たり、その簡潔明瞭な線的書法は、ロータに多大な影響を与えました。
     1929年、ロータは17歳で音楽院を修了します。

     当時ロータはこの他に、やはりイタリアを代表する作曲家マリピエロから影響を受けたり、ストラヴィンスキーと個人的に知り合って長時間一緒に過ごしたりしました。但し、彼らの影響がロータの作風を大きく左右するようなことはなかったようです。

     ロータは音楽院卒業後、奨学金を得てアメリカに留学します。1930〜1932年のことです。
     彼はフィラデルフィアのカーティス音楽院で、ロザリオ・スカレロ (Rosario Scalero) (1)から作曲法、大指揮者フリッツ・ライナーからは指揮法を学びました。
     フィラデルフィアでの勉学の日々の合間、週末になるとニューヨークに出て、同じイタリア出身の大先輩、偉大な指揮者トスカニーニと過ごして、熱心に彼のアドヴァイスを求めました。
     また他にも、バーバー、ヴォーン・ウィリアムズ、コープランドといった当時の大作曲家と知り合い、アメリカ/黒人民謡、トーキー映画などにも夢中になりました。

     アメリカ留学を終え、イタリアに戻ると、ラファエロ・マタラッツォ監督の短編映画3本に音楽を書きます。これがロータ最初の映画音楽ということになりますが、資料が乏しく、詳しいことは分かりません。恐らく学生仲間で試しに作った映画ではなかったのでしょうか。

     その後すぐにミラノ大学芸術科に入って文学を専攻します。並行して哲学も修め、卒論では、ルネサンス時代のヴェネツィアの作曲家・音楽理論家ジョゼッフォ・ザルリーノ (Giosaffo Zarlino, 1517-1590) の音楽美学に関する論文を書いています。
     勉強好きだったのですね。

     さて、ここで当時のイタリアという国の様子を見ておきましょう。
     この国はすでにファシズム独裁の下にありました。
     ムッソリーニは1922年の「ローマ進軍」で政権を奪取して以来、15年間もイタリアに君臨していました。1928年には彼の率いるファシスタ党による一党独裁体制が強められ、同党の最高機関「ファシスト大評議会」がそのまま国家の最高機関となりました。
     1930年以降、世界的な経済恐慌がイタリアをも襲いますが、その解決方法としてムッソリーニが取った手段は、他国の侵略です。
     彼は1935年10月にエティオピアへ侵略を開始し、翌1936年5月に併合します。
     当然、国際的非難が集中しました。そこでムッソリーニはドイツのヒトラーに接近し、同1936年10月に「ベルリン=ローマ枢軸」を結びます。元来ムッソリーニは、1933年に登場したヒトラー政権を嫌っていましたが、他に選択肢はありませんでした。
     この同盟は、イタリアをさらに国際的孤立に追い込みました。当時ヒトラーは、7月にスペインで左翼系政府に対して反乱を起こしたファシズム政党指導者フランコ将軍を軍事援助していました。ナチス・ドイツの非人道的な猛爆撃に抗議して、スペインの世界的画家ピカソが『ゲルニカ』を描いたことは有名です。ドイツと組んだイタリアも、フランコ側を支援することとなったのです。
     その結果、1937年にイタリアは国際連盟を脱退することとなります (日本、ドイツはすでに1933年に脱退)。

     このような状況に対し、イタリアの作曲家は特に反対の立場を表明したわけではありません。ムッソリーニは芸術に対しては弾圧を加えることが少なかったからです。
     ムッソリーニは芸術の保護者を自認していました。ヴェネツィア国際映画祭を創設し、ここに映画撮影所チネ・チッタ (映画の都) を設立したのも彼でした。
     当時イタリアの作曲界には保守的な傾向が広まり、1932年12月にはピッツェッティ、レスピーギらが無調などの現代音楽を非難する馬鹿げた宣言を新聞紙上に掲げましたが、ムッソリーニは、この反動的な宣言を認めませんでした。
     こうしたムッソリーニのパフォーマンスにだまされ、多くの音楽家たちが彼をすぐれた指導者だと勘違いしました。カセッラはエティオピア戦争の勝利を祝う歌劇「征服された砂漠」 Op.60 (1936-37) を書き、ムッソリーニに献呈までしています。
     しかし間もなく、彼らはその間違いを思い知らされることになるのです。

    1937〜1940年代---新進作曲家としての多才な活動

     1937年、ミラノ大学を卒業した26歳のロータは、最初の仕事として、音楽教師の仕事を選びます---しかも、誰も欲しなかった僻地の南イタリア、タラントでの。
     タラントに赴くにあたり、彼は書きかけの楽譜を抱えていきました。その楽譜の冒頭にはこう書いてありました---「交響曲 第1番 ニーノ・ロータ作曲」……

     この当時、彼はすでに本格的な作曲を開始していました。1935年には「7つの楽器のためのカンツォーナ」 (1935) を書き、1937年にはフルートとハープのためのソナタを仕上げています。
     しかし器楽形式の最高峰とも言える交響曲を書くのには慎重でした。交響曲第1番は1935年から着手していましたが、1年かけて1楽章を書くゆっくりしたペースで作曲を進めていきました。
     従って、ロータがタラントの音楽学校「リチェオ・ムジカーレ (Liceo Musicale) 」に着任した頃はまだ半分しかできていませんでした。
     しかし、タラントの田園風景は、ロータの新たな作曲意欲を刺激しました。彼はタラントへ移ったその年=1937年、交響曲第2番を書き始めるのです。それは「タランティーナ (Tarantina)」という副題を付けられました。
     つまり彼は2つの交響曲を並行して書きながら、音楽学校の仕事をしていたわけです。

     タラントでの契約は1938年で終わり、1939年からはバーリ音楽院 (the Bari Conservatoire) で和声と作曲を教えるようになります。
     同じ1939年、宿願の交響曲第1番 ト長調 (1935-39) がようやく完成しました。

     曲はなかなか新鮮で魅力的です。抒情的・ロマン的で素直な音楽で、当時盛んだった前衛的な手法は微塵も見られません。
     第1楽章は緑あふれる郊外の空気のような香しさを持っています。穏やかに始まりますが、次第に活気づき、劇的なクライマックスを築きます。特殊な和音も使って意欲的な書き方をしています。オネゲルの田園調を思わせるところもあり。
     第2楽章「Andante」は絵のように美しい緩徐楽章です。テューバとトロンボーンが重く下がっていくのに対し、弦は天へと昇って行きます。
     第3楽章「Scherzo」は泡のように軽く、子供のように無垢で、陽気にスキップするかのようです。子供の遊びと大人の羽目を外した馬鹿騒ぎが同居しています。
     第4楽章「Finale」は正義と悪の宿命的な闘いを描くかのような劇的なフィナーレで、ロータも頑張ったなあ、という感じの終曲です。

     交響曲第1番は、カセッラの弟子の作曲家・指揮者ゴッフレート・ペトラッシによってヴェネツィアで初演され、喝采を浴びました。
     好評だったため、曲はフィレンツェ、ローマでも演奏されました。

     一方、交響曲第2番 ヘ長調 「タランティーナ」 (1937-39-41) の方も、取りあえず1939年に完成しましたが、その後も手を加え、最終稿は1941年に完成しました。

     交響曲第1番よりも技法的に円熟してきました。メロディーはより簡潔になり、リズムに工夫が診られます。穏やかで激しない曲調ですが、代わりにアイロニーを感じさせる部分があります。
     第1楽章は、第1交響曲冒頭に似て、落ち着いたイタリアの田園の朝を思わせて始まります。しかし間もなく緊張が高まり、クライマックスに達します。
     第2楽章は愉快なタランテラ (Allegro molto vivace)。陽気でありながらどこか抑制が効いているように聴こえるのは、基本的に冷静で覚めているロータの音楽の特質から来る印象でしょうか?
     副次主題は優しい上行旋律で、しばしばタランテラ主題と同時に演奏されます。楽章後半では副次主題が大きく高潮し、気高いクライマックスを作ります。ここにフルートが絡まる時、それが後年の映画音楽『山猫』の愛のテーマを思わすのには、思わずニヤリとさせられます。
     第3楽章「Andante con moto」はグレゴリオ聖歌を基にした敬虔な緩徐楽章。途中子供の童歌を思わせる単純なメロディーが出てきて、リズミカルな展開へ進みます。
     第4楽章「Finale」の Allegro vivace は陽気な村祭り。ただ乱痴気騒ぎにまでは発展せず、ややお行儀がいいかな?

     この交響曲第2番ヘ長調の初演はなかなか行われず、結局最晩年の1975年まで持ち越されたのでした。

     ロータの交響曲を2曲聴いたところで、ロータという作曲家が誰からどのような影響を受けたのか、考えておきましょう。
     古典的な構成を好み、気品ある凛とした表情を崩さないところは、彼の個人的な師ピッツェッティの影響が大です。但し、メロディを徹底的に重視する姿勢は、恐らくカセッラから学んだものでしょう。単純な旋律線を強調する姿勢は、カセッラ中期の新古典的な作品と共通しています。
     また、部分的にはマリピエロの影響も見られるし、親しみやすさではカステルヌオーヴォ・テデスコを思わせる部分もありますが、レスピーギのように大管弦楽のパレットに強烈な色彩を描き込むことはしませんでしたし、実験的・前衛的な手法を試みることもほとんどありませんでした。宗教音楽では12音のペトラッシの手法に近付くことがありますが、室内楽、オペラ、映画音楽などでは、「現代音楽」風の響きは皆無と言っていいでしょう。
     このように、多くの先人たちの影響を消化しつつも、ロータは新鮮で懐かしい彼独自の音楽を築いていったのです。

     この頃イタリアでも国際関係の緊張に伴い、ファシズムの狂信的な活動が始まりました。
     ムッソリーニは1938年、ナチにならって反ユダヤ・キャンペーンを開始し、翌1939年には反ユダヤ法を制定しました。これにより、多くのユダヤ系イタリア人が国外亡命を余儀なくされています。
     例えば、ピッツェッティの高弟で、ギター奏者セゴビアの依頼で素晴らしいギター協奏曲第1番ニ長調 Op.99 などを書いていたカステルヌオーヴォ=テデスコ (1895〜1968)も、この年にアメリカに亡命します。
     ロサンジェルスに移り住んだ彼は映画音楽を書いて生活しました。同時にヘンリー・マンシーニ、ジェリー・ゴールドスミス、ジョン・ウィリアムズなども教え、現在のハリウッドの中心的な作曲家を育成しました。

     1940年代以降、ロータは様々な分野の音楽に積極的に挑戦していきます。中でも、オペラと映画音楽を手掛けるようになったのは重要です。なぜならこの二つのジャンルは、後にロータの創作の二つの柱になったからです。

     映画音楽に本格的に取り組むようになったのは、1942年以降のことです。
     当時はファシズム政権の戦時下にありましたが、ジュゼッペ・デ・サンティス監督の仲介で、レナート・カステラーニやアルベルト・ラットゥアーダといった時流に流されない監督と知り合い、宣伝色の少ない映画のスコアを書きました。

     しかし、この頃ロータの頭の中を占めていたのはオペラの方でした。
     イタリア人にとってオペラは特別な存在です。ドイツでは交響曲を最高の音楽形式としますが、イタリア人は何よりオペラを愛します。
     それに、「カヴァレリア・ルスティカーナ」の作曲者マスカーニ (1863〜1945) をはじめ、「アドリアーナ・ルクヴルール」のチレーア (1866〜1950)、「アンドレア・シェニエ」のジョルダーノ (1867〜1948) などは当時まだ健在でした。プッチーニが最後の名作歌劇「トゥーランドット」を書いたのも、ロータがすでにミラノ音楽院に在学していた1926年のことです。
     このように、ロータにとってオペラの栄光の時代は決して過去のことではないのです。彼がオペラに夢中になるのも当然のことでした。
     彼は1942年に歌劇「アリアドネ (Ariodante)」をパルマで初演し、翌1943年に歌劇「トルケマダ (Torquemada)」を書き上げるなど、オペラ作曲家としての道を快調に進んでいきます。なお同じ1943年には尊敬する先輩作曲家に捧げる管楽五重奏曲「カセッラを讃えて」を作曲しています。

     この間イタリアは戦争と政治の大激動に揉まれます。
     1943年7月10日、連合軍は遂にイタリア南端シチリア島に上陸、19日にはローマが初の空襲を受け、8月16日にはミラノのスカラ座が米軍の爆撃で破壊されます。
     ムッソリーニは、このような事態を招いた責任で、ファシスト大評議会と国王により首相職を解任され、イタリアは9月18日、連合国に無条件降伏しました。そして10月13日には逆にドイツに宣戦布告します。
     ところがドイツ軍は監禁されていたムッソリーニを救出、北イタリアに「イタリア社会共和国」を建て、イタリア及び連合国と戦うこととなります。イタリアは分断され、ドイツと連合軍の戦闘の舞台となり、徹底的に破壊されました。

     1945年4月、ムッソリーニはパルティザンの手により捕らえられ、惨殺されます。北イタリアのドイツ傀儡政権は崩壊し、5月にはナチス・ドイツも無条件降伏して、5年半続いたヨーロッパでの戦争に終止符が打たれました。
     食糧・燃料の不足や難民の帰還などで、イタリアの苦難は終戦後も長く続きます。しかし取りあえず平和がやってきたのです。
     翌1946年には5月11日にはミラノのスカラ座が再建され、トスカニーニの指揮でこけら落としの演奏会が行われました。

     ロータも戦争が終わった頃、いよいよ、歌劇「フィレンツェの麦わら帽子」の作曲を開始しました。これはロータの代表作とされるオペラの名作です。Eugene Labiche と Marc Michel のヴォードヴィル「Un chapeau de paille d'Italie(イタリアの麦わら帽子)」をもとに、ロータと母エルネスティーナが共同で台本を書きました。
     オペラは1946年に完成します。しかし初演の目途が立たず、せっかくの新作オペラもたなざらしとなりました。

     ロータは気落ちせず、1947年には新しい交響曲のスケッチ (下書) を開始します。これはのちに「ある愛の歌による交響曲 」として完成されます。
     1949年にはハープ独奏のための「サラバンドとトッカータ」を作曲しました。

     こうした彼の活動は次第に認められ、社会からも尊敬を集めるようになります。
     その結果、ロータは1950年に南イタリアのバーリ市にあるピッツィンニ音楽院の院長に就任することとなりました。彼はここで後進の育成に努め、死の2年前1977年まで院長の職を全うするのです。
     また、彼の歌劇「I due timidi」がイタリア国営放送 RAI で放送初演されました。
     RAIは日本のNHKのような存在で、1950年代にはイタリア国民の文化水準の向上に努めた放送局でした。内外の作曲家に新作を委嘱し、権威ある「イタリア賞 (Premio Italia)」を創設して作曲コンクールを開催したりしました。

     そんな、地味ながら充実したロータの毎日を、がらりと変えてしまったのが、フェリーニ監督との出会いでした。

    1950〜60年代---オペラと映画音楽での成功

     1951年、ロータはフェデリコ・フェリーニという新進映画監督と会い、彼の『白い酋長 (Lo Sceicco bianco)』(1951) に曲を付けます。
     これでフェリーニはいっぺんでロータの音楽に参ってしまい、自分の作品の音楽はロータでないと気が済まなくなりました。実際、フェリーニの映画は、『白い酋長』から『オーケストラ・リハーサル (Prova d'orchestra)』(1979)に至るまで、時間の関係で担当できなかった数本を除き、全部ロータが曲を付けているのです。これほど長く、実りある協力関係は、世界の映画界の中でも異例です。

     『白い酋長』(1951)、『青春群像 (I Vitelloni)』(1953)と立て続けにヒット作を生んだフェリーニ=ロータのコンビは、1954年の『 (La Strada)』(1954) で空前絶後の大成功を収めます。美しくも哀しいトランペットの「ジェルソミーナのテーマ」を聴いて涙した人々はどれほどいたことでしょう。

     一方、オペラ街道も順調でした。
     1953年には歌劇「I due timidi」がロンドンで初演されます。
     そして1955年には、パレルモのマッシモ歌劇場から新作歌劇の依頼がありました。これに応えてロータが持ち出したのが、あの、歌劇「フィレンツェの麦わら帽子」 (1946) でした。
     彼はこのオペラにオーケストレーションを施し、1955年4月21日にパレルモで初演しました。結果は大成功。その後もヴェネツィア、バーリ、カールスルーエ(独語)と続々と再演が続きます。

     名声が高まるに連れ、フェリーニ以外の映画監督からの依頼も増えてきます。
     1956年の大作『戦争と平和』(1956) ではハリウッドの名匠キング・ヴィダー監督と組み、1957年の『白夜』ではルキノ・ヴィスコンティ監督と初めて一緒に仕事をしました。
     この他、特にイギリス映画の仕事が目立つのも、ロータの国際的名声を示すものでしょう。
    = ロータ-ムーティ・コネクション =

     クラシック界の大指揮者、リッカルド・ムーティはしばしばニーノ・ロータの純音楽作品をレコーディングして、クラシック・ファンを驚かせています。
     しかし、ムーティが実はロータの生徒だったと知れば、それほど意外なことではないでしょう。

     1941年に南イタリアのナポリで生まれたムーティは、地元の高校からバーリ音楽学校へ入りましたが、この時校長をしていたのが、ニーノ・ロータだったのです。
     ムーティはその後、1959年にナポリ音楽院に入り、1962年にはミラノのジュゼッペ・ヴェルディ音楽院で勉強を続け、1970年代前半からイタリアきっての若手指揮者として輝かしい活躍を始めるのですが、指揮の先生にもフランコ・フェラーラというイタリア映画音楽界の巨人がいます。
     フェラーラ (フェッラーラ) と言えば、ロータの大部分の作品をはじめ、カルロ・ルスティケリ、エンニオ・モリコーネなど、イタリアの代表的な映画音楽作曲家の数多くのサウンドトラックを演奏している指揮です。変わったところでは、黛敏郎の『天地創造』(1966)のサントラも振っています。
     ムーティが映画音楽に偏見を持たず、クラシカルな作品の一つとして取り上げるのも、こういう経歴と無縁ではないかも知れませんね。

     純音楽の分野でも次々と成果を上げていきます。
     1957年にはバレー音楽「La rappresentazione di Adamo ed Eva」がペルージアで初演され、1958年5月29日には、歌劇「フィレンツェの麦わら帽子」がミラノ・スカラ座で上演され、希に見る大成功を収めました。遂にロータは、世界的歌劇場をも制したのでした。
     続いて1959年には1幕もの歌劇「神経衰弱患者の夜 (La notte di un neurastenico)」を書きます。現代的な緊迫感にあふれた一種の音楽喜劇で、1959年11月19日、トリノのRAI音楽ホールで現代音楽作曲家ブルーノ・マデルナの指揮により放送初演され、1959年度の「イタリア賞」を受賞しました。

     同じ1959年にはフェリーニ監督『甘い生活 (La Dolce Vita)』(1959) の音楽も書かれました。これは次の『8 1/2』と並び、映画も音楽も、フェリーニ=ロータ・コンビの最高傑作をなすものです。
     フェリーニとロータの共作は、

    という三つの時期に分けられますが、この年から1960年代半ばまで続く中期は、内容・形式ともに最も充実した、素晴らしい仕事を残しています。
     特に『甘い生活』の中盤、ナイト・クラブで道化が哀調に満ちたトランペットを吹く場面の画面と音楽は、フェリーニ=ロータ芸術の頂点として多くの人が称賛を送っています。
     1960年には、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』が書かれます。但しロータ自身はこの音楽が嫌いでした。また同年、ヴィスコンティの『若者のすべて』にも音楽を付けています。

     クラシックの分野では、1960年2月8日に歌劇「神経衰弱患者の夜」がスカラ座で舞台初演されています。
     また1961年にはピアノ協奏曲ハ長調「夕べの協奏曲」(1961) が書かれ、1962年には「ロータの最高傑作」と言われる畢生の大作のオラトリオ「秘蹟」が作曲されます。

     1963年、この年はロータの映画音楽にとって当たり年でした。

     まず、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』の音楽が書かれます。
     ヴィスコンティは、物語にふさわしいドラマティックな交響曲を映画で使おうと思い、ロータの手を借りてながらあらゆる交響曲を聴きましたが、なかなかぴったり来る曲が見つからずにいました。
     そんなある日、ロータがピアノで弾いた曲がヴィスコンティの耳にとまりました。
     「それは何という曲だい?」
     ヴィスコンティが尋ねると、それは、ロータが若い頃に書いた未完の交響曲「青春の主題による変奏曲」の一楽章でした。下書の段階で放棄され、オーケストレーションも施されずに捨て置かれたものです。
     ヴィスコンティはさっそくこれを採用しました。自分の純音楽作品が映画で使うために完成することになるとは、ロータも思いもしなかったでしょう。
     この映画後半では長大な舞踏会のシーンが繰り広げられますが、当初の構想ではそれは45分以上も続く予定でした。そのためにヴィスコンティは、知り合いから贈られたヴェルディの未出版のワルツをロータに渡し、管弦楽編曲してもらい、その他にもワルツ、ポルカ、ギャロップなど6曲の舞曲を書き下ろしてもらいました。
     その後ヴィスコンティが舞踏会のシーンを短くした (それでも充分長い!) ので、ロータの曲の多く映画では使用されませんでした。

     1963年に書かれたもう一つの傑作は、フェリーニ監督の『8 1/2』のための音楽です。空想と現実を巧みに混在させたフェリーニ芸術の極致とも言うべきこの映画には、感嘆に値する瞬間が満載されています。その多くは画面と一緒でないと効果が発揮されないものも多く、ロータがいかにフェリーニの映画言語を知り尽くしていたかが分かりますが、独立した音楽としても優れているもの少なくありません。
     その中ではやはり、ラスト・シーンの陽気かつメランコリックな不思議な行進曲を挙げるべきでしょう。映画全体の総括とも言うべきこのシーンは、この音楽があるからこそ意味を持ってくるのです。
     フェリーニとロータの共同作業は、ここに一つの頂点を迎えた観があります。

     その後、1964年はほとんど映画の仕事をせず、クラシック作品の創作に集中しました。この期間に生み出されたものに、ピアノのための「15の前奏曲」(1964)、弦楽のための協奏曲 (1964-65)、オルガン・ソナタ(1965)、それにバレエ音楽「道」があります。
     弦楽のための協奏曲は、ロータとしては「ややモダン路線へ冒険してみました」という感じの弦楽合奏曲です。全体はショスタコーヴィチ似で、所々バルトーク風の薬味を効かせている、といった感触。1967年にナポリのアレッサンドロ・スカルラッティ管弦楽団で初演されてからも時々手を加え、最後の改訂は1977年でした。
     バレエ音楽「道」の方は、言うまでもなく映画音楽『道』をバレー音楽に作り直したもので、ミラノのスカラ座の依頼で書かれたものです。音楽は『道』だけでなく、『若者のすべて』など他の映画音楽からも取られています。
     初演は1966年9月2日に行われました。聴衆からは好評で、今日に至るまでスカラ座の演目となっています。
     しかし、専門家からの反応は賛否相半ばするものでした。確かに第4曲は「春の祭典」、第5曲は「火の鳥」の中の「魔王カスチェイの凶暴な踊り」を手本にしたことがばればれです。
     たぶんこの頃はショスタコーヴィチやストラヴィンスキーといった、やや近代的な語法への接近を模索していたのでしょう。 しかしロータは、ロータにしか書けない彼自身の音楽を追求するべきなのです。

     彼がそれを悟り、迷いを絶った時、さらに新しい地平が開けました---


    1960年代後半以降---高まる名声

     映画の仕事を減らしている時、ロータは舞台の仕事で演出家フランコ・ゼフィレッリと知り合いました。彼とはシェークスピアの「じゃじゃ馬ならし」で一緒に仕事をしました。
     1967年、ゼフィレッリは、「じゃじゃ馬ならし」を映画化するに当たり、ロータを呼んで、彼が書いた舞台音楽を映画用にアレンジしてくれるように頼みました。これがゼフィレッリ監督との最初の共同作『じゃじゃ馬ならし』(1967) です。
     この映画が好評だったので、ゼフィレッリは次回作にさらに有名なシェークスピアの戯曲を選び、再びロータに音楽を依頼しました。
     『ロミオとジュリエット』(1968) の音楽は、こうして生まれたのです。

     同じ1968年にはトロンボーン協奏曲、オルガンと4本の金管楽器のためのソナタが生み出され、歌劇「アラディンと魔法のランプ」がナポリで初演されるなど、純音楽の領域でも充実した年でした。
     1968年から翌1969年にかけては、「ディヴェルティメント・コンチェルタンテ (協奏的ディヴェルティメント)」も書かれています。

     フェリーニとの関係も続いていました。『サテリコン』(1969)、『フェリーニの道化師』 (1971)、『フェリーニのローマ』 (1972)、『フェリーニのアマルコルド』 (1974)などの一層軽妙な作品群が生み出されることとなります。
     この中で『サテリコン』は、古代ローマ時代に残された楽譜の断片を研究して書かれた異色のスコアです。

     1970〜71年には再び映画の仕事を絞り、クラシック作品の作曲に精を出します。
     その成果が歌劇「素晴らしき訪問」とオラトリオ「マリアの生涯」 (1970)です。
     特に1970年にパレルモで初演された歌劇「素晴らしき訪問」は、ロータがオペラ、オラトリオ、映画音楽などで培ったテクニックを総合した大作で、「フィレンツェの麦わら帽子」と並ぶ大成功を収めました。  1971年にはバレー音楽「アチとガラテア」をローマで初演しました。

     クラシックでも映画音楽でもすでに押しも押されぬ大家の地位を築いたロータですが、今度は彼のもとにハリウッドの監督フランシス・コッポラから依頼が行きます。
     この結果書かれたのが『ゴッドファーザー』 (1972) でした。
    =『ゴッドファーザー』がアカデミー賞を取れなかった本当の理由=

     ロータの『ゴッドファーザー』 (1972) の「愛のテーマ」ほど人々に愛された映画音楽もありません。
     ところが、これほどのヒットにも関わらず、『ゴッドファーザー』の音楽は、アカデミー作曲賞も、アカデミー主題歌賞も取っていません。それどころか、この両部門にノミネートすらされていないのです。
     いえ、正確にはいったんは作曲賞の最有力候補に挙げられたのです。しかし奇妙なことに、その後ノミネートを取り消されているのです。
     一体何が起きたというのでしょう?

     実は、「愛のテーマ」は以前に書いた自作の映画音楽からの転用だったのです。
     この映画はジュリエッタ・マシーナ主演の『Fortunella』 (1957) で、そのテーマ曲が、正に「ミ-ラ-ド-シ-ラ-ド-ラ-シ-ラ-ファ-ソ-ミ」という、『ゴッドファーザー』愛のテーマそのものの音の動きをしているのです。
     但し原曲は、酒場のバンドがアップ・テンポで弾くコミカルなタッチで書かれており、聴いた印象は全く異なります。ロータは、この曲のテンポを落とし、哀感あふれる編曲を施すことで、『ゴッドファーザー』用の「愛のテーマ」を作り出していました。
     こうした転用は、映画音楽の現場ではよくあることです。
     しかし、パラマウント社が『ゴッドファーザー』のスコアを作曲賞候補にノミネートした直後、ロータの成功を妬むイタリア人作曲家グループが、アカデミー賞の選考委員会に匿名電報を打ったため、調査が始まりました。

     パラマウント側はロータに電話し、「愛のテーマ」が別の映画音楽の転用であることを確認しましたが、依然としてオリジナル作曲賞の候補に残ると考えました。
     「愛のテーマ」は、1時間以上かかる『ゴッドファーザー』全スコアのうちわずか3カ所、計7分間を占めるだけで、それ以外は完全にオリジナルだからです。
     しかしアカデミー側の回答は、「『ゴッドファーザー』という映画では、『愛のテーマ』が最も印象的な曲と考えられるので、このスコアは受賞の対象とはならない」というものでした。
     その後もパラマウントは粘りましたが、翌日の投票で委員会は『ゴッドファーザー』のスコアを対象からはずすことを決定したのです。

     この映画のための「愛のテーマ」は世界的なヒットとなりました。但し米国アカデミー委員会の規定に引っかかり、アカデミー音楽賞を得ることが出来ず、不本意な結果に終わってしまいましたが。
     しかし同じ1972年、ロータはカンタータ「Roma Capomunni」でイタリア賞を受賞しています。彼にとってはアカデミー賞よりも意味のある受賞だったかも知れません。

     1973年には「ある愛の歌による交響曲」が完成。1947年にスケッチされ、『水晶の山 (La Montagna di cristallo) 』 (1943) や『山猫』 (1963) などに楽想を転用しながら、肝心の本体の作曲はちっとも進まず、ようやくこの年に完成、オーケストレーションを終えたのです。これは事実上の第4交響曲に当たります。

     1974年、『ゴッドファーザー PART II』 (1974) の音楽を書き、文句なしのアカデミー作曲賞をかっさらいました。

     1975年、今度は別の巨匠スタンリー・キューブリック監督から、『バリー・リンドン』(1975) の音楽を担当してほしいという要請が来ます。
     ところが、この『2001年宇宙の旅』の監督は、ロータに既成クラシック曲を使うよう強制しました。このため、オリジナル音楽を主張するロータと対立、遂に彼らは決裂しました。
     結局『バリー・リンドン』の音楽は、『エデンの東』『ミクロの決死圏』のレナード・ローゼンマンに任され、ヘンデルなど既成クラシック曲のデフォルメして使われました。
     同じ1975年、ロータは若き日の思い出の作、交響曲第2番 (1937-39-41)を改訂して、自らようやく初演しました。

     1976年には来日を果たしました。
     日本人は『太陽がいっぱい』以来、大のロータ好きになっていましたが、ロータはこの頃心臓を悪くしていて、母親から飛行機を禁止されていました。
     しかしこの年、医者に秘密でこっそり来日し、自作ばかりの演奏会を振りました。
     京都に滞在していた最中、悲報が舞い込みました。親友の映画監督ヴィスコンティ死去のニュースでした。

     その後、1976年にバレー音楽「Le Moli*e imaginaire」をパリとブリュッセルで初演、1977年に歌劇「ナポリの億万長者」をスポレト音楽祭で初演し、カンタータ「Rabelaisiana」を作曲。1978年にはバレー音楽「詩人の恋」をブリュッセルで初演……というふうに、多忙な毎日を送っていました。
     映画音楽の分野では毎年数本程度の余裕ある仕事を続け、1978年には主な仕事は『ナイル殺人事件』 (1978) と『オーケストラ・リハーサル』 (1979)だけでした。
     そして、この『オーケストラ・リハーサル』が、フェリーニとの最後の作品でした。

     ロータは1979年4月10日、ローマで心臓発作により亡くなりました。
     背が低く痩身で、生涯独身を通しました。享年68歳。

     死後16年経った1995年2月、ヴェネツィアの映画財団がニーノ・ロータ財団を結成しました。
     ロータは自筆譜を全て捨てずにとって置きました。その膨大なメモ類は、ずっと未整理でしたが、相続人によりヴェネツィアの映画財団に寄付されたので、これから次第にロータの、特に映画音楽に於ける業績の全貌が、明らかとなってゆくことでしょう。


    1.   ちなみにアメリカの有名な現代オペラ作曲家メノッティも同じ時期 (1928〜33年) 、スカレロについて勉強していました。だから、ロータとメノッティは同級生だったわけです。しかもメノッティはミラノ音楽院で学んだイタリア人でしたから、ロータと多くの接点があったはずです。
     ところが、メノッティと親しく交友したという話は出てきません。メノッティの方が、オペラ・ブッファ「アメリア舞踏会へ行く」 (1937)、ラジオ歌劇「泥棒とオールドミス」 (1939)などでロータより一足早く人気者になったので、ロータが対抗意識を燃やしたのかも知れません。




    =ロータ映画音楽:名曲案内=


    (La Strada) 』 (1954)

     F.フェリーニ監督の作品で、知恵遅れの女ジェルソミーナと粗野な大道芸人ザンパノの交流を悲しく描いていました。映像と音楽が密接に絡み、相乗効果をあげていたのもこの映画の特徴の一つです。
     聴き所の一つは言うまでもなくトランペットの吹く哀愁切々たる「ジェルソミーナのテーマ」でしょう。いつ聴いても胸の熱くなるテーマです。
     ロータによれば、

     別の音楽を付けたが、「ジェルソミーナ」のモティーフが浮かび、フェリーニがこっちの方がいいと言うので作り直した。
    のだそうです。
     なお、この主題が、ドヴォルザークの弦楽セレナーデの緩徐楽章の主題と似ていることは以前から指摘されており、ロータもそれを気にしていました。


    甘い生活 (La Dolce Vita) 』 (1959)

    甘い生活
    La Dolce Vita
    製作年度:1960年 (但し音楽は1959年に作曲完了)
    製 作 国:伊=仏合作
    上映時間:白黒/185分
    日本での公開:1960年及び1997年に劇場公開
    製作■ジュゼッペ・アマート/アンジェロ・リッツォーリ
    監督■フェデリコ・フェリーニ
    原案■フェデリコ・フェリーニ
    脚本■フェデリコ・フェリーニ/エンニオ・フライアーノ/トゥリオ・ピネッリ/ブルネッロ・ロンディ
    撮影■オテッロ・マルテッリ
    サウンドトラック演奏■フランコ・フェッラーラ (Franco Ferrara) 指揮
    出演■マルチェロ・マストロヤンニ/アヌーク・エーメ/アニタ・エクバーグ/イヴォンヌ・フルノー/バーバラ・スティール/ナディア・グレイ/ラウラ・ベッティ/マガリ・ノエル
    ★カンヌ映画祭グランプリ受賞★
     音楽全体は、ソース・ミュージック (現実音) としての軽音楽が主。
     アタックの強いブギウギも面白いのですが、何と言っても印象的なのは、主人公のゴシップ記者マルチェロとその父、それに同僚のカメラマン、パパラッツォの3人が、ナイト・クラブ「チャ・チャ・チャ」で、背の低い道化師の芸を観る場面でしょう。
     人生の悲哀を一身に背負ったような、うらぶれたピエロが、ロータの哀愁を帯びたメロディ (半音階の多いもの)をトランペットで吹く時、ドラマは一つの頂点を迎えるのです。そして、ラッパを吹き終わった道化師が、すごすごと足を引きずるように退場して姿を消す間際、ふと思い出して振り返り、床に散った風船たちに「おい、行こうぜ」と首を振って合図すると、風船たちもするすると後を付いて行く……その哀感!

     劇中のアンダースコア (バックグラウンド音楽) の方は、メイン・タイトルで聴かれるメイン・テーマが、ほぼ唯一の材料です。これは点描するような寂しげな旋律で、フェリーニがこれから語る大都会ローマの物語が、決して見かけほど華やかなものではないことを暗示します。半音階進行する内声ハーモニーがペーソスを強めています。
     このメイン・テーマは、暗示的なラスト・シーン---浜辺で怪魚の腐り果てるさまを凝視したマルチェロは、彼方で可憐な少女が呼んでいるのに気付くが、波音に消されて彼女の言うことが聞き取れない---でも流れます。メイン・テーマはここではテンポを落とし、クレッシェンドして映画を締めくくります。

     この作品について、ロータはこう言っています。

     あの時代のヒット曲で構成するはずが、フェリーニの希望で私の曲が増え、大部分を占める結果になった。


    太陽がいっぱい (Plein soleil) 』 (1960)

     ルネ・クレマンの監督作品で、アラン・ドロンの出世作でした。ロータは映画を観ずに作曲し、監督は音楽に合わせて撮影を続けたと言われます。
     感傷的なテーマ曲は日本では大ヒットし、一挙に彼の名前を有名にしました。ところが、この作はヨーロッパではほとんど注目されず、ロータ自身も「自作の中で最も嫌いなものの一つ」だと言っています。
     つまり、『太陽がいっぱい』は、日本だけで大ヒットした珍しい映画音楽なのです。
     NHKなどでやる「永遠の映画音楽」などという企画のベスト・スリーは相変わらず『エデンの東』(L.ローゼンマン)、『ロミオとジュリエット』、そして『太陽がいっぱい』というのが定番で、そのうちの2作はロータの曲ですから、彼のウェットな音楽が、1960年代の日本人の心情にいかにぴったりフィットしたか、ということですね。


    山猫 (Il Gattopardo) 』 (1960)

    山猫
    Il Gattopardo
    製作年度:1963年
    製 作 国:伊=仏合作
    配  給:フォックス
    上映時間:カラー/161分
    日本での公開:1964年に劇場公開
    製作■ゴッフリード・ロンバルド
    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    脚本■スーゾ・チェッキ・ダミーコ/パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ/エンリコ・メディオーリ/マッシモ・フランチオーザ/ルキノ・ヴィスコンティ
    撮影■ジュゼッペ・ロトゥンノ
    サウンドトラック演奏■フランコ・フェッラーラ (Franco Ferrara) 指揮 サンタ・チェチーリア交響楽団 (Orchestra Sinfonica di Santa Cecilia)
    出演■バート・ランカスター/アラン・ドロン/クラウディア・カルディナーレ/リナ・モレリ/パオロ・ストッパ/ジュリアーノ・ジェンマ/オッタヴィア・ピッコロ
     山猫を紋章に持つシチリア島の誇り高き貴族ファブリッツォ公爵家の没落を重厚に描く作品。監督のヴィスコンティ自身、ミラノの没落貴族でした。
     ロータのスコアは、クラシック音楽のような格調の高い音楽です。ダイナミックでスケールが大きく、本当に素晴らしい!
     それもそのはず、これはロータの未完成の交響曲「青春の主題による変奏曲」の楽想を転用したものだからです。ロータにとってこれは、ヴィスコンティの台本に付けられたオペラないしはシンフォニーだったのです。
     ロータもこう言っています。

     ヴィスコンティの要請で、私の初期の交響曲「青春の主題による変奏曲」を使った。彼の映画自体が交響曲の構成をとっている。彼は天才ゆえに孤独で、孤高の人だ。
     「メイン・タイトル (Titoli) 」では、まずファブリッツォ公爵家の主題が壮大に、しかし悲劇的に現れます。続いて優美な愛のテーマが現れます。
     この愛のテーマは、ドラマの展開に応じ、映画の中でさまざまに変奏されて現れます。
     例えば、一族がイタリア統一運動を進めるサルディーニャ王国軍を逃れて山越えをする場面では、激しく荒れ狂う嵐のような音楽となり、タンクレディとアンジェリカの愛の場面では、この上なく可憐に演奏されます。愛が燃え上がると、テーマはドラマティックに高鳴ります。

     但し映画後半、舞踏会のシーンになると、音楽は途端に生彩を無くします。ここでは音楽は単なるソース・ミュージック (現実音) となり、ドラマや登場人物の心理を彩るという機能を失うからです。
     舞踏会シーンのためにヴィスコンティは秘蔵のヴェルディの未出版のワルツを持ち出し、ロータにオーケストレーションをしてもらいました。
     「ヴェルディの未出版のワルツ」などという国宝級のものを映画のために無造作に持ってくるとは、さすが元貴族!
     その他、追加のワルツ、ポルカ、ギャロップといった舞曲6曲をロータに書いてもらいましたが、舞踏会の場面が短縮されたため、その多くは映画では使われていません。


    8 1/2』 (1963)

    8 1/2
    8 1/2
    製作年度:1963年
    製 作 国:イタリア
    上映時間:白黒/140分
    日本での公開:1965年と1996年に東和=ATG系で劇場公開
    製作■アンジェロ・リッツォーリ
    監督■フェデリコ・フェリーニ
    原案■フェデリコ・フェリーニ
    脚本■フェデリコ・フェリーニ/トゥリオ・ピネッリ/エンニオ・フライアーノ/ブルネッロ・ロンディ
    撮影■ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
    サウンドトラック演奏■フランコ・フェッラーラ (Franco Ferrara) 指揮
    出演■マルチェロ・マストロヤンニ/クラウディア・カルディナーレ/サンドラ・ミーロ/アヌーク・エーメ/バーバラ・スティール
    ★1963年度アカデミー外国語映画賞受賞★
     F・フェリーニ監督の自伝的な作品であり、代表的傑作です。
     意識と幻想、現実と虚構、現在と過去の垣根を取り払い、観ている者をいつの間にか映画世界の中に引き込むという、極めて斬新な手法で作られていますが、最後には深い感動を与えられます。
     極めて錯綜した作法の映画にも関わらず、ロータは監督の意図を充分に生かした音楽を書いています。

     メイン・タイトルはただタイトルが表示されるだけで、音楽もありません。(「8 1/2」というタイトルにも意味はないのです。)
     映画監督のグイド (マルチェロ・マストロヤンニ) はある日、自分の体が空中を落下する夢を見ます。現実生活の日常から来る精神的・肉体的な疲れを癒すため、温泉へ療養に出掛けますが、そこでも仕事や生活のしがらみから逃れられず、次第に現実と虚構が混然となっていきます……。
     音楽は、温泉で鉱泉水をもらうところで初めて聞こえてきますが、これはワーグナーの「ヴァルキューレの騎行」や、ロッシーニ「セヴィリアの理髪師」序曲といった既成クラシック曲の引用です。
     そこにグイドの心の中に住む理想の女性像クラウディア (クラウディア・カルディナーレ) が姿を現します。ここで音楽はようやくロータのオリジナルの「8 1/2」テーマが聴こえてきます。やはり哀愁を含んだ木管のメロディです。
     続くシーンではまたクラシックが使われます。友人が若い恋人グロリアを紹介する時にはチャイコフスキー「くるみ割り人形」より「葦笛の踊り」。俳優たちが保養地に集いパーティーを催すシーンでは、ショパンの変ホ長調の夜想曲がピアノと弦楽四重奏の合奏に編曲されて……。
     グイドの愛人カルラ(サンドラ・ミーロ)が現れると、『甘い生活』でも使われたブギウギ風音楽がバンドにアレンジされたものが聴こえてきます。
     パーティーの夜、余興で心を読む女(妻の友人)が登場すると、テーマ曲の変奏が現れます。また、幼年時代の回想シーンではテーマ曲が乳母の歌う子守歌として聴こえるなど、テーマ曲のヴァリエーションが場面場面を横糸のようにつなぎます。
     浜辺のでぶ女サラギーナが子どもたちから金をもらってルンバを踊る場面では、アコーディオン主体のルンバがポリフォニックな旋律線を聴かせます。
     泥風呂マッサージの場面では、管弦楽を使ったドラマティックなスコアが聴けて面白いです(テーマ曲とは直接のつながりはありません)。
     保養地に呼び寄せた妻ルイザ(アヌーク・エーメ)との仲は、ロケット発射場のセットを見学した夜に険悪となります。その翌朝のシーンで、テーマ曲が「剣の舞」風な編曲で出てくるのが笑えます。
     そしていよいよ大詰めのシーン。
     新作映画の製作をあきらめたグイドは、現実の様々な混乱を取捨選択するのをやめ、あるがままに表現し、あるがままに受け入れ、全てを愛することに自分の道を見出します。そう心に決めた時、道化の楽隊がテーマ曲を吹きながら、誰もいないロケット発射台セットへ歩いてきます。セットの幕が落とされると、今までの全登場人物がセットの中から現れ、テーマ曲も大ブラスバンドに移り、賑やかに演奏されます。皆は手をつないで丸くなり、歩き続けます。
     やがて日が暮れ、人々の姿が見えなくなると、次第にバンドの数も減り、最後は少年の吹くフルート一本だけが残ります。
     そして、無音のエンド・クレジット。……
     何と印象的で感銘深い映像であり、音楽なのでしょう。

     なお、この最後のシークェンスは、撮影時にはチェコの作曲家フチークの「剣奴の行進曲」が使われていました。
     ロータの音楽はサーカス・バンドの行進曲のようですが、「桟橋を渡って」と名付けられており、フェリーニは「意気揚々としているが、憂愁を帯びている」と評しています。

     ロータ自身はこの映画と音楽について、

     フェリーニ自身の誠実な魂の告白であり、これはフェリーニ自身に関する音楽だ。
    と述べています。
     余談ですが、ロータはこの映画の中にちらりと顔を出しているそうです。どこだか分かりますか?


    じゃじゃ馬ならし (La Bisbetica domata) 』 (1967)

     ゼフィレッリ監督との最初の作で、彼らが製作した舞台を映画化したものです。
     次はロータの言葉です。

     ゼフィレッリとはシェークスピアのこの舞台音楽からの付き合いで、ロンドンの舞台音楽を再使用した。
     音楽は実に活気に満ちて楽しいものです。


    ロミオとジュリエット (Romeo and Juliet) 』 (1967)

     F.ゼフィレッリ監督のパラマウント映画ですが、音楽はもともとゼフィレッリ演出の舞台のために書いた音楽を転用したものです。ロータはこう言っています。

     ゼフィレッリの頭脳にはアイデアが充満しており、1日のある瞬間だけほとばしり出る。新たに作曲するにはその瞬間を待つ必要があるので時間がかかり、オーケストラを待たせていたので、ロンドンの舞台音楽を流用した。
     有名なメロディはメイン・テーマではなく、映画中でグレン・ウェストンの下手な歌で歌われる「青春とは何か (What is a Youth) 」という挿入歌です。


    ゴッドファーザー (The Godfather) 』 (1972)

     言わずと知れたF.コッポラ監督の、マフィアを描いた名作です。
     ロータによれば、

     コッポラの音楽的感覚は英知に満ち、彼の父カーマインが歌やワルツを、私がテーマと劇音楽を担当した。巨額の収入をもたらし、巨額の税金を支払う結果となった。
    ということですが、すぐれた音楽的は彼の担当個所にあります。
     中でも「ゴッドファーザー・ワルツ」と「愛のテーマ」が有名です。
     「愛のテーマ」は今ではロータの代名詞のように良く知られていますが、オリジナルの「愛の場面」自筆譜には、次のようなメモが残されています。
    「シチリアのロマンスかオペラに出てくるようなモティーフ」
    「マンドリンとギターの音は外で演奏されるべし」
     「愛のテーマ」に対し、ロータが本来はどんなイメージを持っていたかが分かりますね。
     但し、この「愛のテーマ」は、彼の映画音楽の旧作『Fortunella』 (1957) からの転用です。

     名曲は「ワルツ」「愛のテーマ」に限りません。タイトル曲なども、切なくて、鼻のツーンとしてきます。ロータの音楽がなかったら、『ゴッドファーザー』という映画もこれほどの名画の地位を確保できたかどうか分からないと思います。


    ゴッドファーザー PART II (The Godfather: Part II) 』 (1974)

     『ゴッドファーザー』 (1972) の続編で、多くの素材 (「愛のテーマ」を含む) を『ゴッドファーザー』から持ってきていますが、音楽としてはむしろこちらの方が出来がいいように思われます。
     アカデミー作曲賞を受賞。
     「メイン・タイトル/移民」は、トランペットがソロで吹く「ゴッドファーザー・ワルツ」の主題で始まり、オーボエが新たな哀切のメロディで訴えてきます。これは『ゴッドファーザー PART II』のメイン・テーマです。するとすぐにクラリネットが「ゴッドファーザー・ワルツ」の変形で明るく行進を始めます。そして弦が大きく『PART II』メイン・テーマを取り上げ、管楽器が「ワルツ」主題の断片で絡みます。……
     このように音楽的にも充分に考えられ、しかも心に強く訴えて深い感動を呼び起こす素晴らしいスコアなのです。


    =ニーノ・ロータ 純音楽作品 概説=

    □歌劇□

    □バレー音楽□

    □ラジオのための音楽□

    □映画音楽□

     → ロータ映画音楽リスト

    □交響曲□
     全5曲。1939〜1975年の間に作曲。

    □管弦楽曲□
     多数存在。ヴィスコンティ、ゼフィレッリ、de Filippo らが演出した劇場演劇用の音楽も多数含む。
     第2次大戦前までは頻繁に演奏された。

    □協奏曲□

    □宗教音楽□
     オラトリオやカンタータは、歌劇と共にロータの創作を代表する分野。ミサ曲は3曲。

    □室内楽□

    □器楽曲□

    □歌曲□
     歌詞にした詩人はトンマセオ(Niccolo Tommaseo)、ペトラルカ、タゴールに至るほど幅広い。


    =ニーノ・ロータ 映画音楽リスト=

    凡例: <VD> =劇場未公開/ビデオ・タイトル
        <TV> =劇場未公開/テレビ放映時タイトル


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    ©2001 早崎隆志 All rights reserved.
    更新日:2001/01/04; 2002/6/9; 2003/4/16

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