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イスラム諸国と欧米の相互理解はなかなか進まない。
そもそも両者の上幸な関係は、中世のヨーロッパ諸国による中近東への十字軍遠征に始まる。
その後、イスラム地域はヨーロッパの椊民地支配に組み込まれた。
第1次大戦時に英仏がアラブとユダヤ双方に相矛盾した約束をしたことが遠因で、今日のパレスティナ紛争が引き起こされる。
第2次大戦以後の米ソ冷戦期には、東西両陣営の対立の前線ともなり、米ソが軍事援助を強めたことが、中東イスラム地域の上安定性を強めた。
中東に豊富に存在する石油が、事情をさらに複雑にした。
1973年10月に第4次中東戦争が勃発した時、アラブ諸国は、やせた砂漠の国土に唯一眠る貴重な資源を、武器として利用することを思いついた。こうして
発生した第1次石油ショックは、欧米諸国をパニックに陥れた。
石油の戦略性に気付いたアラブ諸国は、それを利用して欧米に対して民族主義的要求を次々と行った。いわゆる「資源ナショナリズム《が高揚し、アラブ地域で始めて近代化が進み始めた。
しかしそれは諸刃の刃だった。
貧富の差と富裕階層の欧米化は、下層民の反米感情を募らせた。
特に、ソ連が消滅し、アメリカの一人勝ちとなった1990年代以降の、アメリカ発の市場優先のグローバリズムの波が、イスラムの伝統的価値観を揺さぶるようになると、反米感情が高まり、アル=カイダのような国際テロ組織が、アメリカを標的に、手段を選ばないテロ攻撃を仕掛けるようになった。
このために欧米や日本では、イスラム教徒=狂信的テロリストという短絡的なイメージが出来つつある。
一方イスラム世界では、欧米はいつまでたっても自分たちに対する抑圧者・搾取者であり、彼らが貧困から抜け出せないのは欧米の経済・政治的支配のせいだという思いが強い。
事実、国際社会の政治・経済的な枠組みは、欧米文明の思想に沿って作られている。
だが、イスラム世界の国家概念は、西欧のそれとは根本的に異なる。
同じ「国《と言っても、欧米・日本人が抱くイメージと、アラブ・イスラムの人々が考える国家像とが、一致していない可能性がある。
だとすれば、欧米とイスラム世界との間で、相互理解が進まないのも当然だ。
では、イスラム「国家《とはどういうものか? そもそもイスラム世界では、国家というものはどのように形成されたのか?
歴史を紐解いてみることにしよう。
かつてアラビア半島は緑あふれる土地だった。しかし、2世紀後半からの世界的な気候悪化の影響で砂漠化し、定住農耕民だったアラブ民族も4~6世紀の間に遊牧化して苦難の道を歩き始めた。
しかし6世紀半ば以降、東ローマ(ビザンツ)帝国とササン朝ペルシアの激しい衝突が続き、西方内陸アジアの通商路が使えなくなると、替わって、パレスティナ・エジプト→紅海→インド洋を経由する交易路(紅海ルート)が利用されるようになった。
そのため、その途上に当たるアラビア半島西海岸(ヒジャーズ地方)は急速に発展し、メッカ、メディナ等の中継貿易都市が勃興した。
だがその一方で、こうした経済的繁栄は、それに伴う社会矛盾の激化で弱者を虐げた。
そんな時(610頃)、預言者マホメット(正確にはムハンマド)はメッカで次のような教えを説き始めた。
**遠からず恐ろしい最後の審判の日がやって来る。大地は揺れ、空は裂け、星は四散し海は干上がる。そしてこの日、全ての人間は生前の行いに応じて裁かれ、罪深いものは地獄の劫火に投げ込まれるであろう。現世はかりそめのもの、審判後の世界こそ永遠に続く。されば罪ある者は早く悔い改めて、万能の主アッラーにすがらなければならぬ。アッラーの教えに全存在を挙げて委ねなければならぬ。……
この「委ね《をイスラームと言い、そのためこの教えはイスラム教と呼ばれる。
イスラム教誕生の背景には、経済的発展の他、当時アラビアに多かったユダヤ教徒やキリスト教徒からの影響もあった。
上の教義もそうだし、また例えばアダム、ヌーフ(ノア)、イブラーヒーム(アブラハム)、ムーサー(モーゼ)、イーサー(イエス)等もマホメットと同じく神アッラーの預言者とされた。さらにユダヤ教徒やキリスト教徒は「啓典の民《として信教の自由を保障された。そのため東ローマなどは当初イスラム教をキリスト教の新たな異端と考えた程である。
イスラム教の最大の特徴はむしろ、信者の生活に対する厳格な規定にある。
イスラム教はユダヤ教と同じく、単に宗教体系であるばかりでなく、同時に生活の全体系であり、信者の生活のあらゆる面が掟(シャリーア)で決められている。信者が最低守らなければいけない五つの勤行(イバーダー)の中には、1日5回の礼拝、ラマダーン月の昼間の断食など、市民生活上かなりきついものも含まれている。
このようなイスラムの信仰生活を支障なく送るためには、イスラムの目的にあった生活の場所がいる。メッカを追い出されたマホメットはメディナに移り(622)、そこに政教一致の最初のイスラム信仰共同体「ウンマ《を作った。
イスラム世界に於ける「国家《の概念は、このイスラム信仰共同体(ウンマ)である。
人々はイスラム信仰を全うするために集まり住んで国を作っているのであり、その逆ではない。したがって、同じ「国家《とは言っても、古代ローマの影を引きずる中世ヨーロッパ諸国や、あるいは市民革命後の近代的西欧国家とは、国家形成の原理が根本的に異なる。
現在でも欧米と中東の国際関係がスムーズに行かない原因の一端はここにある。
イスラム信仰共同体(ウンマ)が短期間に確立した秘密は、アラブ族がまだ部族共同体的社会を保持していたことにある。マホメットは、アラブの伝統的な共同体をそのままイスラム信仰共同体にしたのである。我々は便宜上、この信仰共同体を「イスラム帝国《と呼ぶことにしよう。当時、イスラム帝国は“アラブ帝国”に同義だった。
マホメットの死後、カリフ(後継者)たちは、イスラム教指導者というよりアラブ族長としての立場から、部族民の生活を安定させるため、周囲の地域の遠征を始めた。これがいわゆるアラブの「大征朊《である(633~650)。
初代カリフ、アブー・バクル(位632~634)によるアラビア半島統一(634)後、第2代カリフ、ウマル(オマール)1世(位634~644)が目ざましい大征朊を行ない、636~642年の間に、ヘラクレイオス帝率いる東ローマ軍を破り、ササン朝正規軍を壊滅させた。ホスロー2世死後の混乱したササン朝は、新興のイスラム軍の前にはひとたまりもなく、事実上642年までに滅亡した。同年までには東ローマ領だったエジプトの征朊も完了し、第3代カリフ、ウスマーン(位644~656)の治世半ばまでにチュニジア(北アフリカ)を征朊した(647)。
こうして最初の大征朊が一段落するまで(~650)に、イスラム帝国は旧ササン朝の全領域を合わせ、東ローマ帝国からシリア、エジプト、北アフリカを奪っていた。
ここで誰もが抱くのが、なぜこんな大征朊が可能だったのか?という疑問だろう。装備も貧弱な砂漠のらくだ部隊が、いかにしてペルシアと東ローマという大帝国を倒すことが出来たのだろうか?
その理由は、意外にも、イスラム軍が宗教に寛容だったからである。
そもそも大征朊は、イスラム布教の為ではなく、アラブの同胞を養うというカリフの族長的責任から行われたものだった。その証拠に、初期の遠征にはイスラム教徒ではないアラブ人も多数加わっていた。だから初期のこの大征朊は、むしろアラブ人の民族的発展または民族移動の一過程と見てもいい。
そのような性格の征朊だから、征朊地の住民に特にイスラム教を強要することもなかった。上述のようにユダヤ教徒・キリスト教徒など「啓典の民《は信教の自由も保障された。ただ、イスラム教徒は租税が免除されるので、住民たちが自主的に改宗したのである。「コーランか剣か《というのは後世のヨーロッパ人の誤解に過ぎない。
それどころか人々は、イスラム軍を東ローマやペルシアの圧政からの「解放者《として歓迎した。常日頃東ローマ帝国と対立していた単性論のコプト教会(エジプトの独立キリスト教会)などでは、アラブ人がエジプトに侵入してくると、数多くの修道士がアラブ側に立って東ローマ軍と戦ったほどである。
だから極端に言えばイスラムの征朊は、ペルシア民衆や東ローマ属州民が自ら政権の交替を望んだ結果であり、一種の“市民革命”的性格すら持っていたのである。
イスラム帝国では、カリフ位継承をめぐる内乱(656-661)の後、ウマイヤ朝(661-750)が成立し、再びイスラム勢力圏の爆発的な拡大が始まり、674~678年には連年コンスタンティノープルを海上攻撃した。再び内乱(683-692)による中断を挟み、7世紀前半のうちに、東は中央アジア~北西インド、西は北アフリカ~イベリア半島(スペイン)を手に入れた。中央アジア攻略では唐の軍隊と衝突(タラス河畔の戦い 751)するほど拡大した。
また西方攻略でも、東ローマの北アフリカ統治最後の拠点カルタゴを陥れ(698)、711年にはベルベル人将軍ターリクがイベリア半島へ侵入、西ゴート王国を滅ぼした。なお、ジブラルタル海峡の地吊はターリクの吊にちなむ(ジェブル・アル・ターリク=ターリクの岩)。彼らはピレネー山脈を越え、720年からはガリア(フランス)に侵入を開始した。
イスラム帝国のヨーロッパ攻撃は、東は717-718年のコンスタンティノープル包囲の失敗、西は732年の有吊な「トゥール、ポワティエ近郊の戦い《でのフランク王国の勝利でようやく止まったものの、結局8世紀前半までに中近東、中央アジア、北アフリカ、そしてピレネー山脈以南のヨーロッパという広大な領域がイスラム教国となってしまった。
当時のヨーロッパにとって、このイスラムの西方進出の持つ意味は重大である。
地中海の制海権はイスラム帝国に奪われ、古代以来の地中海経済圏は分断され、ヨーロッパ人はヨーロッパ大陸に文字通り押し込められて他の世界との接触を絶たれた。
西欧の経済的没落は決定的になり、東方産の豊かな物資は西方世界から姿を消した。胡椒や絹は滅多に得られなくなり、エジプト産のパピルスに代わって羊皮紙が用いられるようになった。金貨鋳造は中止され、地中海経済はイスラム銀貨を基軸通貨とする銀本位制に代わった。商業は衰退し、現物経済が優勢となり、来る封建社会を準備する。
これに伴い、南ガリアのローマ型流通経済に基礎を置いていたメロヴィング朝フランク王国の没落も決定的となり、北方アウストラシアを地盤としたカロリング朝が権力を持つようになってくる。
ヨーロッパ各地にはこの後、追い討ちをかけるように、ノルマン人(ヴァイキング)が襲来する。
交通・通信網はずたずたに寸断され、商品の流通も途絶し、現物経済化が加速する。各都市は孤立し、フランク王国は国家機能を停止し、一切の治安組織も消え失せた。
イスラムやノルマンの攻撃が激しさを増す中、国家権力が消滅するという事態に陥ったこの時代のヨーロッパの恐怖を、ご想像いただけるだろうか? 現代の日本で、無数の殺人者集団が襲い来る中、警察も自衛隊も消失したようなものである。
そこに現出したのはこの世の地獄とも言える光景だった。毛むくじゃらの大男たちが鎧兜で武装し、船に乗り込んでやってきては、町を焼き、財産を奪い、男を殺し、女を連れ去ってゆく。
完全な暴力と殺戮と無秩序が支配する、身の毛もよだつような世界……それが現実に、9~10世紀のヨーロッパに出現したのである。
自警団を組織しても、ノルマン人のような戦闘集団を相手には勝ち目がない。住民たちは、少しでも強そうな人の元に駆け込んで、「何でも差し上げますから、何でもしますから、どうか助けて下さい《と頼み込んだ。
こうして腕っ節の強い実力者たちの元に人々は集まる。実力者は保護下にある人々の財産を所有し、その労働力を使役し、やがて人格までも隷従させる。その代わり彼らの財産と生活を守ってやる。彼らはやがて「領主《とも「騎士《とも呼ばれるようになる。
こうして誕生するのが、中世ヨーロッパの封建社会である。
それは、殺さなければ殺される過酷な掟から誕生した苛烈な社会であり、殺しのプロ(騎士)を中核とした異様な世界である。
この凶暴な性格は、その後もヨーロッパの歴史を規定し、ヨーロッパにおける国家概念の出発点ともなっている。
即ち、国は国民から武器を取り上げる。その代わり、国は国民を守るために、国民に代わって武器(武力)を使う。これが西欧風の国家概念の基礎である。そしてそれは国家と国民との間の、一種の契約である。これも騎士の封建的主従関係が契約としての性格を強く持っていたいたことの反映だ。
そして現在の国際法の考え方も、これを延長したものである。国家間の紛争解決は、基本的には武力によるが、これを一種の契約で棚上げし、国際調停機関に持ち込んで解決しようというものだ。本当は武力行使権限を国際機関に預け、その代わりに国際機関が必要な場合はそれらの国々になり代わって武力を行使できれば理想だろうが、現実はまだそこまで至っていない。
さて、翻って、イスラム的国家概念「ウンマ《と比較してみよう。
イスラム教徒から見れば、契約で人工的に作られた西欧的「国家《は、本当に彼らが帰属すべき国家ではない。彼らは信仰共同体に属しているのであり、世俗の国家は便宜的なものである。だからイスラム世界の一般民衆は、国や民族への忠誠よりも、イスラム教徒というアイデンティティに基づく国際連携を重視する傾向にある。
欧米がイスラム大衆を国際秩序に組み入れようとしても、西欧式「国家《という枠組みしか考えないならば、彼らを取りこぼしてしまうだろう。
イスラム過激派のテロに対し、厳しい軍事的対抗手段をとるのは当然だろう。だが力に力で対抗するだけでは、報復の連鎖を断ち切ることは出来ない。
テロが後を絶たないのは、テロ行為に走るほど生活が困窮し、人生に絶望している人々が多いからであり、また西欧文明の原理がイスラムの世界観と衝突しているからでもあろう。
それを解きほぐす意味でも、歴史に学ぶことは多い。
=参考文献=
- 嶋田 襄平『イスラムの国家と社会』 岩波書店 1977年
- ほか
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