港湾都市バンテンを中心に栄えた西ジャワ最初のイスラム教国。
正確には「バントゥン」と発音。
もとマジャパヒト王国の一土候国だが、イスラム勢力が王国を築くと、マタラーム王国と共にジャワ島を二分する大勢力となり、オランダ人の経営するバタヴィアに繁栄を奪われるまで、ヨーロッパにもその名は響きわたった。
- スマトラ島最北パサイ出身のイスラム教徒で、ジャワにイスラム教を伝えた9聖人ワリ・ソンゴの一人ファレテハン(ファタヒラー)は、メッカ巡礼後ドゥマクでイスラム布教に尽くし、国王の妹と結婚。
- 1526
- ファレテハンは、布教と貿易の拡大のため、西ジャワのヒンドゥー教国パジャジャランの主要港バンテンに赴いた。
彼は10月8日、ドゥマク国の支援でバンテン港の支配権を奪い、バンテン王スーナン・グヌンジャティ(位1526〜1552)を名乗った (死後ジャティ山に葬られたのでこの名がある) 。
- 1526〜1552 初代 スーナン・グヌンジャティ またはシャリフ・ヒダヤトゥラー
- 彼はドゥマク国の臣下だったので、当初バンテン王国はドゥマク国の属領だった。
- 1527
- スーナン・グヌンジャティ (ファレテハン) は胡椒積み出しの良港スンダ・クラパ(現ジャカルタ)をもパジャジャラン王国から奪取。
これで、スンダの胡椒をジャワ・イスラム勢力が独占したことになる。
- 1552
- ファレテハンはチレボン王国を建設して引退。
その子ハサヌッディン(ハサン・ウッディーン)が後を継ぐ。
- 1552〜1570 2代 マウラナ・ハサヌッディン
- 1556
- ハサヌッディンはドゥマク国から独立。
王都をバンテン・ギラン (セラン北東約1.5km、「上バンテン」の意) から13km北のバンテン港へ移し、「バンテン・イリル」 (「下バンテン」、現バンテン・ラーマ) と称した。
また胡椒の生産地であるスマトラ南部のランプンも占領、胡椒貿易で王国は繁栄の一途を辿った。
- 1570〜1580 3代 マウラナ・ユースフ(ユスプ)
- 王都バンテンを建設。
イスラム寺院ムスジッド・アグン・バンテン、スロソワン (Surosowan) 王宮、市場、港などの他、真水に乏しいバンテン王都に飲料水を供給するために郊外にタシク・アルディ人造湖 (Danau Tasik Ardi) をも建設。
ムスジッド・アグン・バンテン 古ジャワ様式のモスク。
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スロソワン宮殿
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タシク・アルディ人工池
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- 1579
- ユースフはパジャジャラン国を滅ぼす。
- 16世紀末
- 最盛期。バンテン王都は石の城壁に囲まれ、運河が張り巡らされて市内の交通路となった。
但しパレンバン遠征は失敗。
- 1580〜1596 4代 マウラナ・ムハマッド
- 1596〜1651 5代 スルタン・マフムッド・アブドゥルカディル
- 1596
- 6月23日、オランダ人の初来航。使節の一人コルネリス・デ・ヒョートマンは、「町はアムステルダムと同規模」と記録。
- 1603
- オランダ東インド会社 (VOC) がポルトガル人を追い払って商館を置く。
イギリスもこれに続き、両者の激しいつばぜり合いが繰り返された。
- 1619
- バンテン王国はイギリスと結び、クーン総督率いるVOC商館を攻撃したが、失敗。
これによりバンテンはジャカトラ(現ジャカルタ)に対する支配権を失う。
- 17世紀前半
- VOCバタヴィア政府の実力を認識して友好的態度に方針転換。
しかし港湾封鎖などを受け、次第にバタヴィアに繁栄と権力を奪われてゆく。
- 1651〜83 6代 スルタン・アブドゥルファター またはスルタン・アグン・ティルタヤサ(Sultan Ageng Tirtayasa)=ティルタヤサ大王
- 覇気に富んだ名君で、オランダ東インド会社(VOC)の圧迫に対抗し、積極的な通商政策を推進。
1650年代から多くの英仏、デンマーク、ポルトガル商人、アジア商人を招致して貿易復興を図り、バンテンは一時バタヴィアに匹敵する繁栄を取り戻した。
さらに、姻戚関係を持つバタヴィア東隣のチレボン王国を通じ、マタラーム王国のトゥルーノジョヨの反乱を支援して、VOCを困らせた。
王都には中国人及びヨーロッパ人居住区が出来、都市の拡大で運河と城壁の拡張が必要となった。
- 1680〜87 7代 スルタン・アブドゥルナサール・アブドゥル・カハール(Abdulnasar Abdul Kahar) またはスルタン・ハジ
- 1680〜83 アブドゥルファターとその王子スルタン・ハジによる内紛。
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- 1680
- 5月、王子スルタン・ハジによるクーデター。父王を廃し自ら即位。VOCは王子を支援。
- 親子は3年間争った挙げ句、父王アブドゥルファターは捕らえられ、オランダ側に引き渡された。
- 1684
- スルタン・ハジ、VOCによる援助の代償として、莫大な戦費、全商品の輸出入独占、チレボン王国への支配権の放棄などを約束させられる。
またオランダ人以外のヨーロッパ人も全員バンテン王国から追放された。
スピルウィク要塞 17世紀後半、オランダがバンテン市西北に建築。バンテン王国がすでに主権を失っていたことを示す。
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- 以後オランダの影響が強まり、王国は急速に衰える。
王都北西にはオランダが強固なスピルウィク (Speelwijk) 要塞を建設。
- 1687〜1690 8代 スルタン・ムハマッド・ヤフヤ
- 1690〜1733 9代 スルタン・ムハマッド・ザイヌルアビディン
- 1725頃
- バンテン港市の発展は限界を迎え、これ以降は縮小に転じる。
- 1733〜1748 10代 スルタン・ムハマッド・シャーフィー・ザイヌル・アリフィン
- 1748〜1753 内紛による空位時代
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- 1748
- ザイヌル・アルフィン王に発狂の兆しが見えたため、王妃の一人で実質的統治者ラトゥー・ファティマ (アラブ系イスラム教指導者の娘) は、VOC総督ファン・イムホフの了解を得て王を廃し、自分の女婿ラトゥー・サリフを即位させた。ファン・イムホフは正統な王位継承者パンゲラン(王子)・グスティをスリランカに島流しにした。
だが、民衆の同情はパンゲラン・グスティに集まった。農民は新王とファティマに背反し、イスラム導師キアイ・タパを指導者に蜂起。反乱はバンテン西部一帯に拡大し、スマトラ西岸ベンクールーのイギリス人と支援を得る動きも出てくる。
- 1750
- ファン・イムホフの死後あとを継いだ新総督モッセルは、ファティマと新王を追放し、バンテン王国と交渉を重ねる。
- 1751〜1753 スルタン代理 アリア・アディク・サンディカ
- 1752
- 内乱の収拾を巡り、バンテン王国はVOCの主権を認めてオランダの保護国になり、ランプンを割譲させられる。
- 1753
- モッセルはスリランカからパンゲラン・グスティを連れ戻し、9月にスルタンに即位させる。
- 1753〜1777 11代 スルタン・ムハマッド・アリフ・ザイヌル・アシキン (パンゲラン・グスティ)
- これ以降バンテンはバタヴィアの発展に押され、急速に衰退する。
- 1777〜1802 12代 スルタン・ムハマッド・アリウッディン1世
- 1795
- バンテン地区の人口は9万人と推定される(全ジャワ島は350万人)。
既にバンテン港市は地方都市の地位に転落、スロソワン王宮とカラガントゥ市場の間にはアラブ人地区が見られるものの、中国人地区の5分の4は空き家だったと言われる。
- 1802〜1805 13代 スルタン・ムハマッド・モヒッディン・ザイヌス・サリヒン
- 1805〜1808 14代 スルタン・ムハマッド・イスハック・ザイヌル・モッタキン
- 1808
- 反乱、と言うよりは紛争で、オランダ軍司令官と兵士が殺される。
オランダの東インド総督ダーンデルス(任1808-1811)はスルタンを追放。オランダ領に編入される。
- 1808〜1810 15代 スルタン・ムハマッド・アリウッディン2世
- 1808〜1809
- 大火災
- 1810〜1813 16代 スルタン・ムハマッド
- 1813
- イギリス東インド副総督ラッフルズは、名目的に残っていたスルタン制を撤廃。
カイボン離宮の城壁
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- 1815
- バンテン王都南方郊外に、ラフィウディン王 (Rafiudin) の母后の宮殿としてカイボン (Kaibon) 離宮が建てられる。
- 1843
- オランダ直轄領(バンタム理事州)になり、バンテン王国は滅亡。
- 1888 バンテン農民反乱
- 7月、バンタム理事州第2の町チレゴンで、イスラム教指導者に聖戦思想を吹き込まれた農民が武装蜂起、各地に広がった。オランダ人・インドネシア人官憲が殺され、租税関連文書が焼かれ、囚人が解放された。
オランダ植民地政庁の迅速な対応により、反乱はバンタム理事州の州都セランに至らず、約3週間で完全に鎮圧された。
- 1926 共産党蜂起
- 約4000人が参加、1ヶ月の間オランダ植民地政府と戦った。
《仮想歴史ツァー》
バンテン王国---栄華の日々
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