仏陀 (ブッダ) の創唱した世界宗教。
キリスト教、イスラム教とともに世界三大宗教の一つ。
仏陀の教えという意味で「仏法」、仏陀となるための修行を含む意味で「仏道」とも。
〔特徴〕 死後の世界を説くよりも、現世での生活規範を正すことにより輪廻転生の繰り返しを絶ち、涅槃を目指す。
〔神〕 (本来はなし)
〔聖典〕 種々の仏教経典
〔教義〕 煩悩の元は無常なものに対する執着心であり、「四諦 (したい) 」を学び、「八正道 (はっしょうどう) 」を実践することで涅槃に達することが出来る。
〔教祖〕 仏陀 (ブッダ) (ガウタマ・シッダールタ)
〔成立時期〕 前5世紀前半
〔宗派〕 上座部仏教 (小乗仏教) と大乗仏教に大別される。
紀元前5世紀頃の古代インドに発し、カースト制を否定して貴賤の別なく人間の平等を説き、しかも解脱に超人的な修行は不要とした仏教は、東南アジア〜中国・朝鮮・日本へと広がり、アジア諸民族の歴史に極めて大きな影響を与えた。
=Contents=
起源
教義
宗派
仏教用語集
歴史
中国仏教史
日本仏教史
= 起源 =
- c.528〜c.483 BC ? 仏陀の説教
- ネパール南部に住むシャカ (釈迦) 族の王子に生まれたガウタマ・シッダールタ (565〜486 BC?) は地位も名誉も捨てて出家、35歳で悟りを開いて仏陀 (正覚者) となり、これ以降主にガンジス川中流域で布教を続ける。
「無常」を自覚することで物への執着を無くし、人生の苦悩を取り除くその教えは、バラモン教の苦行やカースト制度を否定、全ての人間に平等に門戸を開いたため、急速に普及。
特に当時の支配階級 (クシャトリヤ) や商人階級が受け入れ。
= 教義 =
仏教の基本は仏陀の教えにある。
仏陀はまず、ヴェーダの祭式万能主義とバラモンの権威を否定、またカースト制度を超越して、「慈悲」*による人間の平等を唱えた。
* 仏教の根本的倫理観念の一つで、特定された相手だけでなく、すべての人に最高の友情を持ち、他人の苦しみを自らの苦しみとすること。
仏陀によれば、人間の価値は、現実の人間の存在と行為によってきまるのであり、人が欲望を越えて悟りを開くならば、誰でも永遠の世界 (涅槃) に達することが出来るのである。
このように、神と人間の関係を説くのではなく、人間自身の生き方を、人間自身に根ざして追求するところに、他の世界宗教には見られない仏教の最大の特色がある。
悟りに至る道は、
- 真理を発見し (縁起)、
- 真理に基づき人間苦を滅する道順を学び (四諦 (したい) )、
- 煩悩を克服する正しい方法を実践する (八正道 (はっしょうどう) )
ことにより示される。
〔縁起 (えんぎ) 〕
宇宙間の万物の生滅変化を貫く理法のこと。サンスクリット pratitya-samut pada の意訳で、「因縁生起 (いんねんしょうき) 」の略。
仏教の根本思想の一つで、法 (ダルマ) と同一視される。
〔四諦 (したい) 〕
仏教の実践的原理。「諦」はサンスクリットのサチヤ satya の訳で真理の意味。
釈迦の最初の説法に説かれたもので、次の四つから成る。
- 苦諦……この世は苦であるという真理。
- 集諦 (じったい) ……苦の原因は世の無常と人間の執着心にあるとする真理。
- 滅諦……無常の世を超越し,執着心を断てば,苦は滅するという悟り。
- 道諦……滅諦に至るための修行の方法として、八正道を知ること。
〔八正道 (はっしょうどう) 〕
涅槃 (ねはん) に至るための実践徳目。釈迦の最初の説法における四諦の中の道諦に当たり、その内容とされる。
次の8種から成る。
- 正見……正しい立場
- 正思……正しい思想
- 正語……正しい言論
- 正業 (ごう) ……正しい行為
- 正命……正しい生活
- 正精進 (しょうじん) ……正しい努力
- 正念……正しい精神
- 正定)……正しい三昧 (さんまい)
= 宗派 =
伝統的・保守的な部派仏教 (小乗仏教) と、改革的な大乗仏教、さらに異教的要素を取り入れた密教に大別できる。
これらの差は極めて大きく、それぞれ別の宗教と考えた方が正しい。部派仏教、大乗仏教、密教の差は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の差に等しいと言える。
〔部派仏教〕
伝統的な教義を守る一派。進歩的な大乗仏教からは「小乗 (しょうじょう) 仏教 (ヒーナヤーナ Hinayana) 」との蔑称で呼ばれる。
20部派に分かれ、いずれの部派も阿毘達磨 (あびだつま) を中心とする出家僧侶 (比丘 (びく) ) のみによる教団を組織している。彼らは戒律を遵守して自分の救済を目指し、仏教の教えや戒律を経典として編纂し、教学を樹立・発展させた。
有名なのは次の部派である。
- 上座部 (テーラーヴァーダ Theravada)……原始仏教教団時代からの主流派。仏陀入滅100年後、大衆部が分かれ、その後、説一切有部も分かれ、さらに8派に分かれた。
スリランカや東南アジアに伝わったのはこの派であり、そのため「南伝仏教」とも言われる。
- 大衆部 (だいしゅぶ) ……仏陀入滅100年後、上座部から分派。最も古い教義をくむ。教団の戒律に対して異議を唱えた革新的一派であり、人の心は清浄で、生死も涅槃も仮名 (けみょう) (現象)にすぎないとした。後の大乗仏教興起の萌芽とされる。
- 説一切有部 (せついっさいうぶ) ……単に「有部」とも。仏陀入滅後300年の頃、カタヤーヤニプトラを祖として上座部より分かれた。
自我は非実在、構成諸要素(諸法)は実在と見て、全宇宙を五つの範疇と75の構成要素 (五位七十五法) に分ける整然たる体系をつくり上げた。
『大毘婆沙論』『発智論』などが代表的著作であり、『倶舎論』はこの部派の主要な概説書。
この部派は大乗の主要な論敵とみられたため、その教義は盛んに研究された。大乗仏教国でも、戒律はこの部派の戒律によることが多い。
中国その他にはこの系統が残っている。
〔大乗仏教〕
1世紀後半〜2世紀のインドで、部派仏教の保守化・形骸化に対して興った革新的な仏教。
部派仏教が出家者の自己救済のみを目差したのを批判、衆生 (しゅじょう) 救済を約束し、菩薩道を説いた。「大乗 (マハーヤーナ)」とは衆生を乗せる大きな乗物を意味する。
自・他にとらわれぬ自由の境地(空 (くう) )を尊び、実践の徳目として六波羅蜜 (ろくはらみつ) を掲げ,その実践者を「菩薩 (ぼさつ) 」*と呼んだ。
* サンスクリット「ボーディサットバ Bodhisattva」の中国語音訳「菩提薩タ (ぼだいさった) 」の略。菩提を求め、衆生を救おうと願って六波羅蜜の行を修める人のこと。仏 (仏陀) に達する一歩手前の人と言える。
元来は釈迦が悟りを開くまでの前生を指したが、大乗仏教興起後は、大乗の教えを奉ずる人の通称となった。
大乗経典では、観音・弥勒・普賢 (ふげん) ・勢至・文殊 (もんじゅ) など多くの菩薩を立て、仏に次ぐものとしている。
このうち「弥勒 (みろく) 」はサンスクリット「マイトレーヤ Maitreya」で、釈迦ののちを補う未来の仏とされる。伝説では南インドのバラモンの出身で兜率天 (とそつてん) にのぼり(上生 (じょうしょう) )、釈迦滅後56億7000万年経ってこの世に下り(下生 (げしょう) )、衆生を救うという。
中国や日本で末法思想が流行すると、弥勒信仰は盛んとなり、広隆寺、興福寺などがすぐれた弥勒像を蔵する。
ところで、弥勒(マイトレーヤ)実在説がある。大乗仏教唯識派開祖のマイトレーヤがその人であり、弟子たちのアサンガ (無著 (むじゃく) )、ヴァスバンドゥ (世親 (せしん) )らが彼を理想の菩薩の一人に擬した、というものである。
ナーガールジュナ (竜樹) は空観を説いて大乗教学を大成。
大乗独自の経典として、『般若 (はんにゃ) 経』『法華経』『維摩 (ゆいま) 経』『華厳 (けごん) 経』等を生んだ。
のち中観派、次いで唯識派が発達したが、密教に吸収された。
中央アジアを経て中国・朝鮮・日本に伝わったので、「北伝仏教」と呼ばれる。
以下のいくつかの宗派・教派を含む。
〔密教〕
大乗仏教の教理を極限まで押し進めたものと言えなくもないが、実際には純粋な仏教ではなく、民間呪術やヒンドゥー教と混淆したもの。
「大日如来」を本仏とし、他の諸仏・諸菩薩はすべて大日如来に包容される。「曼荼羅 (まんだら) 」はその世界観を図示したもの。『大日経』『金剛頂経』の教えを守り、心に仏を観じ、口に仏の言語「真言」=「陀羅尼 (だらに) 」を唱え、手に印契 (いんげい) を結べば、仏・菩薩と感応し、即身成仏すると説く。
7世紀後半〜12世紀、北東インドのベンガル地方で栄えた。中国、ティベットには8世紀、日本には9世紀初めに伝来。中国、日本では「真言宗」と呼ばれ、チベット密教はラマ教の根幹となった。
= 仏教用語集 =
- 法……仏教の基本的概念の一つ。サンスクリット「ダルマ dharma」の訳。「達摩」「曇摩 (どんま) 」「曇無」とも音写される。原義は保つもの、支持者、転じて秩序、掟、慣習の意がある。
仏陀は旧来のバラモン教のもっていたリタ(天則)、ブラタ(法度)に代わって、ダルマを基礎とし、これに、
- 任持自性 (にんじじしょう) =それ自体の変わらない本性
- 軌生物解 (きしょうもつげ) =人をして事物の理解を生ぜしめる軌範
という意味を付与。
仏教の発展とともにダルマに対する解釈も多岐にわたり、「法則」「性質」「基準」「原因」「教」「聖典」「最高真理」などの意味が生じた。さらに「諸法実相」のように、ダルマによって支えられる一切の事物をも意味するようになった。
- 業 (ごう) ……仏教の基本的概念の一つ。サンスクリット karmanの訳。本来は行為の意味。
業は因果思想と結合し、その善悪に応じて果報を与える。死後も消えず、代々伝えられると考えられる。「ウパニシャッド」にもその思想は現れ、輪廻思想、業感縁起の基礎となる。宿業思想に発展し一種の運命論となった。
- 輪廻 (りんね) ……サンスクリットの「サンサーラ samsara」の訳。「流転 (るてん) 」「転生 (てんしょう) 」とも。
インド思想の根本概念の一つで、生き物はそのカルマ(業)の応報によって永遠に生まれ変わり続けるとする考えで、輪廻の環から解放されることが「解脱」。
ウパニシャッドの哲学において明確となり、以後インドの伝統的思想となった。
仏教では三界(欲界・色界・無色界)と六道の間で生死を繰り返すこと。
- 解脱 (げだつ) ……本能に基づく迷いに心を縛られた状態(煩悩 (ぼんのう) )から脱して自由になること。「涅槃」と同一視され、仏教実践道の究極の境地とされる。
- 涅槃 (ねはん) ……サンスクリットの「ニルバーナ nirvana」の訳。原義は吹き消すこと、また消えた状態。転じて煩悩の火が消え、智慧が完成する悟りの境地をいう。仏教の最終目的。
- 般若 (はんにゃ) ……パーリ語「パンニャpanna」の音写。八正道、波羅蜜 (はらみつ) などを修めることによって現れてくる真実の智慧。
事象を分析・判断する「識」から出発し、識を超越して存在のすべてを全体的に把握できる智慧であり、般若によって仏陀となることができる。
- 般若経……大乗仏教の経典。般若経には多くの種類があるが、いずれも般若は実体をもたない空 (くう) なるものであることを明らかにする。
紀元前後から約100年間、個々に成立したと考えられ、
- 大品 (だいぼん) 般若
- 道行(小品)般若
- 文殊般若
- 金剛般若
- 実相般若(理趣経)
などがある。
これらを集大成したものが『大般若波羅蜜多経』 (玄奘 (げんじょう) 訳、600巻)で、最も代表的なものが『摩訶 (まか) 般若波羅蜜経』(大品般若、クマーラジーヴァ訳、27巻)である。『大智度論 (だいちどろん) 』は大品般若の注釈書。
- 三宝 (さんぼう) ……仏教で信仰の対象となるもの。・・の三つ。仏は,法は,僧はをいう。
- 仏……釈迦 (仏陀)。
- 法……仏陀の説いた経典・教説。
- 僧……教えを守る和合衆。
本質は一つと説かれ、末世には仏像・経巻・出家をいう。
- 三蔵 (さんぞう) ……サンスクリット Tri-pi9aka の訳。ピタカは容器の意。仏教の基本経典『大蔵経』の中国での別称。
- 三学……仏教徒の修むべき基本的修行。
- 戒……身を正しく保つ。
- 定 (じょう) ……心を静める。
- 慧 (え) ……迷いを破り真実を知る。
三蔵の律・経・論にあてられ、互いに不即不離にあると説かれる。
- 五戒 (ごかい) ……仏教で在家信者が守らねばならない戒。
- 不殺生 (ふせっしょう)
- 不偸盗 (ふちゅうとう)
- 不邪淫 (ふじゃいん)
- 不妄語 (ふもうご)
- 不飲酒 (ふおんじゅ)
- 八戒 (はっかい) ……八斎戒とも。仏教で在家の男女が一日だけ守る戒。出家生活の清浄を体験するために設けられたもので、一日戒とも。
五戒に、
- 装身具・化粧をやめ歌舞を視聴しない
- 高く広い寝台に寝ない
- 昼食以後食事をしない
の三戒を加える。
- 沙弥十戒 (しゃみじっかい) ……沙弥、沙弥尼 (出家して比丘 (びく) となるまでの修行中の男女僧)が守るべき十戒。
在家信者と同じ五戒に加えて、
- 離高広大牀 (しょう) 戒……大きな家に住まない
- 離華鬘 (けまん) 等戒……身を飾らない
- 離歌舞等戒
- 離金宝物戒
- 離非食時戒……食事時以外に物を食べない
の五つの戒がある。
- 優婆塞 (うばそく) ……サンスクリット upasakaの音写。「清信士 (しょうしんじ) 」「近事男 (ごんじなん) 」などと訳す。
三宝に帰依し、五戒を受けた仏教の在家信者の男子 (女子は「優婆夷 (うばい) 」)。
日本の特に奈良時代には民間の宗教者を指していた。
= 歴史 =
|
仏教の拡散
仏教は近隣諸国から東は日本まで伝わり、各地でそれぞれ独自の発展を遂げた。
- スリランカは部派仏教、特に上座仏教の牙城となる。
- シルクロードの群小国では大乗系の西域仏教が行われ、五胡十六国時代の中国に入り大発展。→朝鮮、日本へ。
- カンボディア、ジャワ、スマトラ、カリマンタンなどには大乗仏教が伝来。
- ヴェトナムには禅宗系、のち浄土教系の仏教が伝わった。
- 7〜12世紀のベンガルでは密教が栄え、中国→日本へ伝わる。ティベットへも伝わり、ラマ教として発展、モンゴル高原へも広まって最盛期を現出。
- 11〜12世紀にはスリランカの上座部仏教が、ミャンマーやカンボディアに伝わる。
〔上座部仏教〕 スリランカ → ミャンマー → カンボディア(以前は大乗仏教)
〔大乗仏教〕
- 西域 → 中国 → 日本
- カンボディア(のち上座仏教) → ジャワ、スマトラ、カリマンタン
〔密教〕
- ベンガル → 中国 → 日本
- ベンガル → ティベット (ラマ教)
〔禅宗系〕 中国 → 日本、ヴェトナム(のち浄土教系)
〔浄土教系〕 中国 → 日本、ヴェトナム(以前は禅宗系)
|
- c.528〜c.483 BC ?
- 仏陀の説法。
仏陀を中心として僧の集団が構成され、そこに優婆塞 (うばそく) (男の在家信者) ・優婆夷 (うばい) (女の在家信者) を加えて教線は広がっていく。
- c.480 BC ? 仏陀入滅直後 第1回結集 (けつじゅう)
- 教団内部に意見の相違が現れたため、その是非を判定するため、有能な弟子500人がマガダ王国首都ラージャグリハに集まり、仏陀口伝の教法を整理し、仏典の編纂会議を開いた。
これを「結集 (けつじゅう) 」 (サンスクリットではサムギーティ samgiti) と呼ぶ。
- c.383 BC ? 仏滅100年後 第2回結集
- ヴァイシャリーで開催。
この頃 (仏滅100年後) 、進歩派の大天比丘 (だいてんびく) が唱えた5ヵ条の教義、特に貨幣による布施の是非を巡り、教団は保守派の上座部と進歩派の大衆 (だいしゅ) 部に分裂。
- 前4世紀〜
- 部派仏教では、人間の幸不幸・社会生活における成否のすべてを、人間の行為=業 (ごう) (カルマ)の結果と考えるようになった。これを「業感 (ごうかん) 縁起」と呼び、仏教の「縁起」では最も基本的要素となった。
- 前3世紀後半
- マウリヤ朝第3代アショーカ王による仏教保護。
王はまた、パータリプトラで第3回結集を行い、パーリ語で編纂(1)。これはスリランカを経由して上座部仏教の基礎となったと言われる。
- 前3世紀後半
- アショーカ王の王子マヒンダがスリランカに仏教を伝え、デーヴァーナンピヤ・ティッサ王は上座部仏教に帰依。
アヌラーダプラにマハー・ヴィハーラ (大寺) を建て、初期シンハラ人の言語パーリ語で数多くの仏教教典が書かれる。
スリランカは南伝の上座部仏教の中心地に。
- マウリヤ朝時代も教団の分派は続き、20分派に達した。
- c.183 BC ? 仏滅300年後
- カタヤーヤニプトラ率いる説一切有部 (せついっさいうぶ) 、上座部から分かれる。
- 紀元前後
- 部派仏教の形式化、保守化が進行し、上座部系の部派は個人救済のみを追求、凡夫は生きている間は仏陀にはなれないと決めつけ、大衆を見捨てた。
これに対し、北西インドに浸透してヘレニズム〜ペルシア文化の影響を受けた仏教は多神教的になり、「菩薩」という仲介者を作り出し、菩薩による衆生の救済を教義に組み込み始める。
- 67
- 後漢の明帝の永平10年、中国へ仏教が公式に伝来。
- 後1世紀後半〜2世紀 大乗の改革運動
- 部派仏教に対し、北西インドの大衆部は、在家人を主とした衆生の救済を訴え、全ての人の救済を約束する菩薩道を説いた。
この時期、
- 『般若 (はんにゃ) 経』
- 『華厳 (けごん) 経』
- 『維摩 (ゆいま) 経』
- 『法華 (ほっけ) 経』
- 『大無量寿経』
- 『浄土経類』
等の大乗仏教の基本経典が成立。
- c.100〜150 説一切有部、『大毘婆沙論』を編纂
- 大乗仏教の台頭に対し、部派仏教側も理論武装する必要に迫られ、説一切有部がインドのカシミール地方で『大毘婆沙論 (だいびばしゃろん) 』 (正式名『阿毘達磨 (あびだつま) 大毘婆沙論』) 全200巻を編集、部派仏教の教理を集大成する。
部派仏教の根本教典たる『発智 (ほっち) 論』の注釈の形を取り、説一切有部の教義を確立。
漢訳には、浮陀跋摩 (ふだばつま) ・道泰らの旧訳と、玄奘 (げんじょう) による新訳とがある。
- 2世紀半ば
- クシャーナ朝カニシカ1世による仏教保護。
第4回結集が行われる。
数次に渡る結集の結果、仏教の基本経典である「三蔵 (大蔵経) 」=『経蔵』『律蔵』『論蔵』が成立し、日常読誦できるようになる。
- 2世紀末
- ナーガールジュナ (竜樹 (りゅうじゅ) ) がアーンドラ王国で「中道」による仏教の統一を主張。
従来の「有 (う) 」の観念を破棄し、万物は流転を重ねる「空 (くう) 」から成ると説き (般若の空観) 、有か無かという両極端を避けて『中論 (ちゅうろん) 』を著し、大乗教学を樹立。
これにより大乗仏教は理論的に大成。
- 3世紀 中観派成立
- ナーガールジュナの大乗教説は弟子たちにより発展。
- 3世紀
- 「中観派」中国に伝わり、「三論宗 さんろんしゅう 」となる。
三論宗は、以下の「三論」、即ち
- ナーガールジュナの『中論』4巻
- ナーガールジュナの『十二門論』1巻
- ナーガールジュナの弟子・提婆 (だいば) の『百論』2巻
を基礎とし、般若の「空」を教理の根幹として「八不中道」を説く。
- 3世紀後半
- 「中観派」大乗仏教は北西インドに伝わり、クシャーナ朝などで発達。
- 4世紀初
- 中北インドでマイトレーヤ (弥勒 (みろく) )が唯識派を開く。
- 4世紀前半 ブダチンガの布教
- 西域出身の仏僧ブダチンガ (仏図澄 (ぶっとちょう) )、五胡十六国時代の戦乱の洛陽で布教。
- 4世紀後半 クマーラジーヴァの活動
- 西域出身の仏僧クマーラジーヴァ (鳩摩羅什 (くまらじゅう) )
(344〜413) は、8年間に大乗経典35部294巻を訳し、ナーガールジュナの般若の「空」も伝えて、中国仏教発展の基礎を築いた。
- 4世紀末〜5世紀 唯識派の発展
- ガンダーラ地方の中心都市プルシャプラ出身のアサンガ (無著 (むじゃく) )、ヴァスバンドゥ (世親 (せしん) )兄弟の「唯識論」が広まり、ナーガールジュナの系譜を引く中観派に代わって、インド大乗仏教の主流となる。
唯識派教学によって大乗仏教は完成。
また、ヴァスバンドゥは『無量寿経』の注釈で阿弥陀信仰を説き、阿弥陀仏を信じて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば西方極楽浄土に生まれることができるとする「浄土思想」を広め、中国仏教に与えた影響は大きい。
- 5世紀前半
- グプタ朝を中心として大乗仏教最盛期。
ナーランダ伽藍建設。
- 5世紀後半〜6世紀
- 北魏で仏教が国家保護を受け、繁栄。雲岡石窟や竜門石窟などの仏教石窟寺院が掘られる。
- 6世紀初頭
- インド僧・達磨 (だるま) が海路南中国に入り、禅宗を開く。
- 7世紀頃
- スリランカの上座部仏教に宗派対立が発生。
- マハーヴィハーラ派……伝統的・保守的。
- アバヤギリヴィハーラ派……開明的でインドの大乗仏教の影響を受ける。
- 7世紀以降
- インドではヒンドゥー民族文化復興の流れには逆らえず、大乗仏教はヒンドゥー教に押されて衰退し、ベンガルなどで栄えた密教に吸収される。
部派仏教もインド亜大陸では滅び、僅かにスリランカでのみ維持される。
- 7世紀後半〜12世紀以降
- ベンガルのパーラ朝で密教が栄える。
- 1057
- ミャンマーでパガン朝の開祖アノーヤター王が下ビルマのタトゥンを征服、モン族から南方上座部仏教とパーリ語仏典を導入。→ インドシナに伝わる。
- 12世紀後半
- スリランカのパラークラマ・バーフ1世が国家を再興。また、マハーヴィーラ派を正統と認めることで上座部仏教の教団を統一。これにより今後マハーヴィーラ派の上座部仏教が精力的に東南アジア各地に伝道されることとなる。
- 12世紀末
- カンボディア、アンコール朝のジャヤヴァルマン7世は、スリランカから上座部仏教を移入。
- 13世紀
- イスラム教徒が南部ビハールを占領し、パーラ朝が滅ぶと、ベンガルの密教も姿を消し、インドから仏教はほぼ消滅。
= 中国仏教史 =
- 紀元前
- シルクロードを通じて仏教の流入があったと考えられる。
- 67
- 後漢の明帝の永平10年、中国へ仏教が公式に伝来。
- 後漢末〜魏晋時代
- インド、西域から入朝する僧も多く、般若の空が講じられ、老荘思想の無との類似が自覚されて、中国化した「格義仏教」を生む。
- 4世紀前半 ブダチンガの布教
- 西域クチャ (亀茲 (きじ) ) 出身の仏僧ブダチンガ (仏図澄 (ぶっとちょう) ) (?〜348) 、五胡十六国時代の戦乱の洛陽で310年、布教開始。
修行で神変呪術を身に付けたとされ、羯 (けつ) 族の建てた「後趙」の君主に「宝」として招かれ、40年間に893寺を建て、門下生1万に達したといわれる。
彼の弟子・道安は中国仏教の基礎を築き、この時代の中国仏教の隆盛を導く。
- 4世紀後半 クマーラジーヴァの活動
- インド貴族とクチャ国王妹の間に生まれた仏僧クマーラジーヴァ (鳩摩羅什 (くまらじゅう) )
(344〜413) は、384年クチャを破った前秦の苻堅 (ふけん) の遠征軍に連れられて涼州に至った。前秦の滅亡後、後継の後秦が後涼を征服した後、401年、その王姚興 (ようこう) に国師として迎えられて長安に移り、布教に従事した。
門弟3000人といわれ、僧肇(そうじょう)・僧叡・道生 (どうしょう) ・道融・慧観 (えかん) が輩出し、「三論宗」、「成実 (じょうじつ) 宗」を形成した。
また、ナーガールジュナの「空観」を伝え、「三論宗 さんろんしゅう 」の基礎を与えた。
「三論宗」は以下の「三論」、即ち
- ナーガールジュナの『中論』4巻
- ナーガールジュナの『十二門論』1巻
- ナーガールジュナの弟子・提婆 (だいば) の『百論』2巻
を基礎とし、般若の「空」を教理の根幹として「八不中道」を説く。
また、仏典の翻訳作業も名高い。国家事業として8年間にサンスクリットの大乗経典35部294巻を翻訳し、「格義仏教」を正すと同時に、中国独自の仏教の発展に寄与した。
この訳経家に刺激され、中国仏教は発展を始める。
- 5世紀〜6世紀後半
- 中国仏教の揺籃期。クマーラジーヴァらの影響を吸収し、大きく発展。北魏では大乗仏教保護政策が取られる。
また経典の翻訳が進み、中国的思考で読解され、隋代には独自の思想を生む。
- 5世紀初
- ヴァスバンドゥ (世親 (せしん) )が『無量寿経』の注釈で、阿弥陀仏を信じて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば西方極楽浄土に生まれることができるとする「浄土思想」を説く。 → 中国仏教に大きな影響を与える。
- 5世紀初
- 東晋の仏僧・慧遠 (えおん) (334〜416) は、浄土教系の観想念仏を修し、江西省北部の廬山 (ろざん) の東林寺に住み、402年、白蓮 (びゃくれん) 社という念仏結社を作って、浄土宗の祖師と称される。
東晋の権力者・桓玄 (かんげん) に宗教信仰の自主性を説いて対立。
- 5世紀前半
- 東晋時代の山西の求法僧・法顕 (ほっけん) (337?〜422?) は、中国の律蔵の不完全さを嘆き、志を同じくする者4人とインド目指して399年長安を発し、中央アジアを経てインドに入った。滞留10余年、413年海路帰国。その旅行記が『仏国記』。
- 446
- 北魏の第3代太武帝による廃仏毀釈令。
- 5世紀後半〜6世紀
- 北魏で仏教が国家保護を受け、繁栄。雲岡石窟や竜門石窟などの仏教石窟寺院が掘られる。
- 470〜6世紀初頭
- インドの仏僧・達磨 (だるま) (菩提 ((ぼだい)) 達磨 Bodhidharma) は禅宗を編みだし、470年頃 (別説6世紀初頭)、海路南中国の広州に入り、嵩山 (すうざん) 少林寺で面壁9年、法 (教え) を弟子の慧可 (えか) に伝えた。
- 6世紀前半
- 中国南朝、梁 (502〜557) の武帝 (位502〜549) は豪華な着物を着て自らを寺の奴隷として寄付してしまうので、臣下は何回も莫大な金額で皇帝を買い戻した。こうすることで寺院に多額の寄付が行われた。
また、名僧・達磨 (だるま) と仏教談義を交わした。
- 6世紀前半
- 浄土教は念仏結社によって多くの信奉者を獲得。曇鸞 (どんらん) (476〜542) は教理を明確化。
- 6世紀後半〜8世紀半ば
- 中国仏教の独立発展。智ギが『法華経』を中心に「天台宗」を開いて仏教を完全に中国化し、道シャクの「浄土教」は唐初期の善導によって中国仏教として大成する。
- 陳〜隋代
- 智ギ (ちぎ) (538〜597) (天台大師) が『法華経』に基づいて天台宗を開く。
576年天台山に入り、のち隋の煬帝 (ようだい) に請われて菩薩戒を授け、故郷の荊 (けい) 州に玉泉 (ぎょくせん) 寺を開創。
その後、灌頂 (かんぢょう) が継ぐが、以後不振に陥る。
- 隋末
- 吉蔵 (きちぞう) 、「三論宗」を大成。
- 625
- 吉蔵の弟子、高麗僧・慧灌 (えかん) が三論宗を日本に伝え、元興寺で講じた。法孫智蔵は入唐後、法隆寺で弘通 (ぐつう) に努めた。
- 7世紀前半
- 律宗 (りっしゅう) の成立。
唐初に恵光 (えこう) が開く。3宗派のうち南山宗が有力。
また、道綽 (どうしゃく) (562〜645) は浄土教を体系化。
- 629〜645
- 唐代の僧・玄奘 (げんじょう) (602〜664) (三蔵法師) がインドに旅行。
629年長安を出発、西域を経由してインド、マガダ国のナーランダー僧院へ至り、シーラバドラ(戒賢)に学ぶ。広くインド国内の学者を訪ね、多数の経典を得て、645年帰国。旅行記『大唐西域記』は小説『西遊記』の素材ともなった。
以後訳経に従い、20年間に訳出した経論は『大般若波羅密多経』など75部1235巻に達した。これを基礎として唯識宗(法相宗)を開いた。
- 7世紀半ば
- 善導 (ぜんどう) (613〜681) が浄土教を大成。
- 7〜8世紀
- インド留学僧・玄奘がもたらしたインド大乗仏教の新潮流「唯識仏教」は、一世を風靡するようになった。
この影響下、唐初には律宗、華厳宗が、少し遅れて禅宗、真言宗が起こり、これら諸宗は玄宗の治世に最も隆盛となり、教理においても、ほとんど密教に吸収されかかっていたインド仏教を凌ぎ、中国独特の仏教として栄える。
- 7世紀後半
- 華厳宗 (けごんしゅう) の成立。
華厳経を根本とする大乗仏教の宗派で、唐初、法順が立て、法蔵 (643〜712) が組織づけた。
- 7世紀末
- 禅宗の分裂。
弘忍 (ぐにん) まで受け継がれた達磨の法は、慧能の南宗禅と、神秀の北宗禅に分かれる。
- 8世紀前半
- 密教の流行。
中国の仏僧・善無畏 (ぜんむい) (637〜735)、金剛智 (671〜741) 、不空 (705〜774) によってベンガルから伝えられ、「真言宗 (しんごんしゅう) 」として確立。
- 8世紀
- 天台宗が六祖湛然 (たんねん) によって復興され、その弟子道邃 (どうずい) ・行満が受け継ぐ。
しかしこの頃すでに天台の教えにも密教が混ざっており、道邃・行満に学んだ最澄が806年に比叡山で開宗した日本の天台宗は、禅・密教・菩薩戒などを含んでいる。
- 740
- 華厳宗が日本に伝わる。
- 754
- 律宗の南山宗が鑑真 (がんじん) によって日本に伝えられる。
- 806
- 空海 (774〜835) が日本へ密教 (真言宗) を持ち帰る。
- 9世紀
- 密教は早くも衰退。
- 9〜12世紀
- 中国仏教は、実生活に結びついた生活宗教化。
貴族階級では禅宗が、庶民階級では念仏宗が栄える。
- 9世紀後半
- 南宗禅の下から臨済 (?〜866/867) が臨済宗を、良价 (りょうかい) (807〜869) が曹洞宗を開く。
- 宋代 (960〜1279)
- 儒仏道三教の合一を目的とする儒教思想の発達に伴い、仏教は民衆信仰の中にとどまるようになる。
- 11世紀
- 律宗のうち南山宗が元照 (がんじょう) (1048〜1116) の改革で復興。
- 12世紀〜
- 南宋頃から単なる継承の時期に入り、衰える。
- 清代
- 仏教の精神面での力は、ほとんど失われた。
= 日本仏教史 =
- 538
- 日本への仏教伝来(『元興寺縁起』などによる)。但し『日本書紀』では欽明天皇13年(552年)。
- 仏教の受容をめぐって蘇我氏と物部氏の争いがあり、用明天皇の代に崇仏の方針が定まった。
- 用明天皇の息子、聖徳太子 (574?〜622) は仏教を基本とする国政で、諸氏族間の統一を図る。
飛鳥〜奈良時代の仏教は、鎮護国家を目的とした学問仏教。
- 625
- 吉蔵の弟子、高麗僧・慧灌 (えかん) が三論宗を日本に伝え、元興寺で講じた。法孫智蔵は入唐後、法隆寺で弘通 (ぐつう) に努めた。
以後、三論宗は大安寺、西大寺、東大寺南院を中心に栄え、「南都六宗」に数えられた。
江戸時代までは法相宗の一部に命脈を保っていたが、現在は衰滅。
= 奈良仏教と平安仏教 =
大ざっぱに言えば、奈良仏教は上座部系仏教であり、それは国家宗教として保護された。それゆえ権力と癒着して腐敗し、人心は離れた。
そこで平安仏教は大乗仏教や密教を導入、衆生救済を前面に出すと共に、国家権力とは距離を置いた。
|
- 奈良時代 (710〜784)
- 国営の寺院が多く営まれ、『金光明経』などの護国経典が尊重され、大規模な写経が行われた。
東大寺を初めとして、国家安穏の祈願をする国分寺・国分尼寺が各国に建立された。寺院は国家や貴族の庇護を受け、奈良中期には、公認された6派の国家仏教 (いわゆる「南都六宗(2)」=@法相(ほっそう)宗、A華厳宗、B倶舎(くしゃ)宗、C三論宗、D成実(じょうじつ)宗、E律宗)が成立、官寺を中心に天平文化が花ひらいた。
一方、僧尼令 (そうにりょう) によって僧尼を厳しく統制、民間への不法な布教や私度を禁じた。
- 740
- 唐僧・道セン (どうせん) により華厳宗が伝わる。また、法蔵の弟子、新羅の審祥 (しんじょう) が同年、東大寺で華厳経を講じたのをもって始祖とするとも。
審祥に華厳を学んだ良弁 (ろうべん) (689〜773) は日本の華厳宗の祖とされ、745年聖武天皇の勅願により別当となり、総国分寺として東大寺を創建。以後、華厳宗総本山の東大寺は、日本三戒壇の一つとして重きをなし、平安時代を通じて興福寺と並び日本仏教界の指導的位置に立つ。
- 754
- 唐僧・鑑真 (がんじん) が律宗の南山宗を伝え、唐招提 (とうしょうだい) 寺を建立。
- 禅宗も伝わったが、奈良時代には宗勢振るわなかった。
- 平安時代 (794〜1192)
- 学問仏教から山岳仏教へ転じ、唐から最澄・空海によって天台・真言が伝えられ、比叡山、高野山などが開かれた。
山岳仏教は、奈良末期の山林仏教を土壌とし、都市の中で世俗化した奈良仏教への批判から形成された。
奈良仏教と同じく鎮護国家を標榜するが、比叡山・高野山などの山岳に寺院を建立し、国家とは一定の距離を置きながら、密教修法による祈B宗教的色彩を強めた。
山林修行僧の持つ験力に期待する貴族層に応えて、現世利益 (げんせりやく) の密教修法や浄土教が発達。
奈良仏教の官大寺では諸宗が並存したが、平安仏教では宗派の純一化が進み、教団として巨大化。教団を離脱して民衆教化に努める市聖 (いちのひじり) のもとに念仏集団が形成される。
また山岳修行を重視した修験道が確立、修験道下で本地垂迹 (ほんじすいじゃく) (=神仏習合) 思想が説かれるようになった。
= 最澄と空海 =
最澄は日本に大乗仏教を根付かせようとしたが、ライバル空海は密教を持ち込んだ。
最澄の天台宗は桓武天皇の支持を得るが、それが旧仏教勢力を敵に回すこととなる。一方、空海の真言密教は、その神秘な教説が受けて、天台を上回る勢いで一般に広まった。
|
- 806
- 唐の道邃・行満に学んだ最澄、比叡山で天台宗を開宗。中国天台と異なり、法華円教のほかに禅・密教・菩薩戒などを含んでおり、密教と融合。真言宗の「東密」に対し「台密」と呼ばれ、発展。
天台宗の統率者は天台座主 (ざす) と呼ばれ、中世以後は皇族が多くこの地位についた。
- 806
- 804年入唐し、長安で青竜寺の恵果 (けいか) に密教 (真言宗) を3年間学んだ日本の仏僧・空海 (774〜835) が、この年帰国。
- 816
- 空海は高野山に金剛峯寺 (こんごうぶじ) を開創。この頃密教を宗派として確立、日本の「真言宗」を開く。
彼は金剛峯寺と高野山・東寺 (教王護国寺) を密教の根本道場とし、各地を巡歴し、中国密教を日本に伝え広める。
のち東大寺別当を兼ね、828年頃には京都に私立学校「綜芸 (しゅげい) 種智院」を創設。
- 真言宗は、同じ頃日本に伝えられた天台宗系の密教=「台密」に対し、「東密」と呼ばれ、平安時代を通じて教勢は振るい、教理、儀式、仏教芸術上での各方面への影響は大きかった。
- 10世紀後半
- 第18代天台座主 (ざす) ・良源の弟子の源信 (942〜1017) は、天台宗の観心念仏と善導の称名念仏を合わせ、日本浄土教の祖とされる(『往生要集』)。
- 993
- 天台宗の分裂。
座主 (ざす) の座を巡り、円仁 (えんにん) と円珍 (えんちん) の衆徒の間で確執を生じ、円珍の末徒千余人は比叡山を下って園城寺に入り、以後、円仁の末徒との間に数百年にわたって抗争が続いた。
- 円珍派……寺門派(園城寺 (おんじょうじ) )
- 円仁派……山門派(延暦寺 (えんりゃくじ) )
- 11世紀
- 平安末期になると、その時代的風潮は末法 (まっぽう) 思想の流行を生み、浄土思想が普及し、源信、法然による念仏が民間に浸透。
平安貴族の間では、1052年(永承7年)から末法の世に入るとの説が広まり、時あたかも古代貴族政治崩壊期と重なり、末法の危機感は世を風靡した。
法然・親鸞・日蓮らは末法の克服をめざして新仏教を創始した。
- 1140
- 真言宗の金剛峯寺座主 (ざす) の覚鑁 (かくばん) は、「自性加持身説」を唱えて高野山・東寺側と対立した挙げ句、金剛峯寺の衆徒 (しゅと) に襲われ、根来 (ねごろ) 山に移って、「新義真言宗」を始める。
- 鎌倉時代 (1185〜1333)
- 親鸞、道元、栄西、日蓮、一遍などが輩出して、真に民衆的な新仏教が興起。
平安末期以来、末法思想の克服を願った仏教思想の動向の中から、鎌倉中期頃までに新仏教や南都仏教の復興がおこった。
特に念仏を唱えて衆生救済を訴える浄土思想が流行。
- =新仏教=
- 浄土教系 → 庶民
- 法然 (ほうねん) (1133〜1212) の浄土宗
- 親鸞 (しんらん) (1173〜1262) の浄土真宗
- 一遍 (いっぺん) (1239〜1289) の時宗
- 日蓮 (にちれん) の日蓮宗 (法華宗) → 庶民
- 禅宗系 → 武士層
- 栄西 (えいさい) の臨済(りんざい)宗……宋から黄竜派の臨済禅を伝える。おもに貴族・武士階級に尊ばれ、五山文学,東山文化など文芸・美術の上で大きな影響を及ぼす。
- 道元 (どうげん) の曹洞(そうとう)宗……宋から伝えられ、義介 (ぎかい) 、瑩山 (けいざん) に受け継がれ、次第に普及。
- =南都仏教の復興=
- 華厳宗の高弁 (こうべん)
- 律宗の俊ジョウ (しゅんじょう) ……泉涌(せんにゅう)寺を復興。
- 叡尊 (えいぞん) ……非人・癩者の救済事業を起こす。
- 忍性 (にんしょう) ……(同上)
- 天台宗の衰微。
台密は13流に分かれ、口伝 (くでん) 法門に堕して、教義は衰微。
法然 (ほうねん) 、親鸞 (しんらん) 、栄西 (えいさい) 、道元、日蓮らは天台宗を見捨て、民衆や武家の間に飛び込み、新仏教を唱えた。
- 律宗の復興。
俊ジョウ (しゅんじょう) (1166〜1227) の北京 (ほっきょう) 律、叡尊 (えいぞん) (1201〜1290) の西大寺流が立つ。
- 華厳宗の分裂。
2派に分かれ、明恵 (みょうえ) (1173〜1232) が禅を極めて実践面で、凝然 (ぎょうねん) (1240〜1321) が律宗・華厳・浄土などを修めて理論面で、華厳教学の復興を図った。
- 13世紀
- インドの密教、ほぼ滅ぶ。
これ以降、純粋な形の密教は、日本でのみ残ることとなった。
- 室町時代 (1336〜1573)
- 精神的清新さは失ったものの、五山を中心とする禅僧の独特の美術、文学を生む。
- 安土桃山時代 (1568〜1600)
- 織田信長の徹底した破壊を受けた大寺院が多い。
特に天台宗は多くの僧兵を擁して政治的武力抗争に介入し、戦国末期に織田信長の焼打を受け、ほとんど壊滅した。
- 江戸時代 (1603〜1867)
- 初期には各寺院とも復興したが、キリシタン禁圧に従って戸籍をつかさどり、次第に「葬式仏教」化し、信仰・精神面での力を失っていった。
- 17世紀前半
- 天台宗僧侶・天海 (1536〜1643) は徳川家康に仕えて信厚く、家康死去に際しては葬儀の導師をつとめ日光山を再興。また1624年には江戸上野に東叡山(寛永寺)を開山。
その後も秀忠、家光を補佐して幕政に参与、1637年から寛永寺に経局を設け、以心崇伝と並ぶ江戸幕府宗教行政の中心人物となった。
天海により天台宗は復興し、日光山、東叡山は比叡山と合わせて「天台三山」と呼ばれる。
- 1654
- 中国福建の僧・隠元が渡来、黄檗宗 (おうばくしゅう) を開く。
黄檗宗は臨済宗の一派だが、明代の念仏禅を交え、日本の禅宗の3大宗派の一つに数えられる。
1661年、山城 (やましろ) 国宇治 (うじ) に黄檗山万福 (まんぷく) 寺を創建。
- 律宗の復興。
真言律、天台の安楽律、浄土律などが復興。
- 明治時代〜
- 明治維新直後の復古思想による廃仏毀釈を経て、仏教の革新も行われ、戦後は多くの新興宗教を生んだ。
律宗では雲照によって真言律が復興。現在、唐招提寺を本山とする律宗と、西大寺を本山とする真言律宗とがある。
註
1. 但し第3回結集のエピソードはスリランカにしか伝わっておらず、その歴史性には疑問があるとされる。
2. 「宗」とは学僧の集団を意味し、宗派ではない。当時は一つの寺が様々な「宗」=学説を研学した。
|