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古代末期の中央アジアに君臨した騎馬民族。
「エフタル」とは王または王家の名だと言われ、中国史料には「[口扁+「厭」] [口扁+「達」] (えんたつ) 」と書かれる。
インドでは「シュヴェータ・フーナ (白いフン)」と呼ばれ、ビザンツ史料でも「白いフン族」として記録される。
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普通の民族は「〜人」 「〜族」と呼ばれるが、エフタルだけはなぜか「エフタル」と呼び捨てにする。
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=Contents=
起源
歴史
= 起源 =
- トルコ系 (モンゴル系) 説……元来トルコ系またはモンゴル系で、天山・アルタイ山脈方面から興り、ソグディアナ・バクトリア地方へ南下。
- イラン系説……クシャン族と類縁のイラン系で、アム・ダリヤ上流のバダフシャン東方またはヒンドゥークシュ山脈方面から現れた。
- 高車説……中国文献は大月氏または高車の一種で、金山(アルタイ山脈?)から南下しアム・ダリヤ上流に建国したと伝える。
いずれが正しいか、定説はないが、遺跡調査などからはイラン系説が有利。
= 歴史 =
- 5世紀前半
- アム・ダリヤ上流を中心に急速に四方に発展、クシャーナ朝を圧迫。
- 456-457
- 独立国として北魏に使いを出す。
- 5世紀後半
- アフガニスタンに侵入、キダーラ (クシャン族後継王朝) 、キオン政権を征服、ガンダーラ、ガズニ地方も征服。
- エフタルはサーサーン朝にとっても大きな脅威となった。彼らはサーサーン朝と争い、内紛を利用して内政干渉も行った。
- サーサーン朝の国王ペーローズ (位459-484)
- エフタルに敗れて捕まり、ローマ皇帝ゼノンに救援を求め、その出資で釈放された。
そしてエフタルから多額の歳幣を要求され、増税して国民の恨みを買い、再度エフタルを攻めて敗死。
- 以後4代、半世紀以上にわたりエフタルが事実上サーサーン朝の支配者となった。
その統治は極めて攻撃的・強圧的だった。
- 北西インド方面に侵入したエフタルは、カシュミール、ガンダーラ、さらにパンジャーブ地方にまで進出、シャーカラに都し、グプタ朝と戦った。
- 5世紀後半
- グプタ朝のクマーラグプタ1世とその子スカンダグプタは、インダス川以東に進出しようとしたエフタルの撃退に成功するが、国内は混乱。
スカンダグプタの死後、エフタルの侵入は激化の一途をたどる。
- 5世紀末〜6世紀前半
- エフタルの王トラマーナ (位490-512頃) とその子ミヒラクラ (位512-528頃) の北西インド支配。
ガンダーラ〜パンジャーブ〜カシュミール〜マールワーまでを支配、ミヒラクラは仏教を弾圧し、人民を迫害し、暴政の限りを尽くしたと言う。
この2王はエフタルではなくインド=パルティアだという説もある。
- 6世紀初頭
- 天山山脈北部、タリム盆地、パミール高原まで支配下に入れる。
- エフタルの統治機構はクシャーナ朝やサーサーン朝の制度を受け継いでおり、整っている。
この頃最大版図。
北: ソグディアナ、天山山脈北部の鉄勒まで
西: メルヴ(マリ)方面でペルシアのサーサーン朝と争う
東: パミール高原を越え、東トルキスタン諸国を押さえホータンに達す
南: 南アフガニスタンのガズニ地方
このように、ヒンドゥークシュ山系一帯を支配、東西交通の要衝を握ったため、シルクロード諸国、さらに天山南北路の遊牧民族をも制した。
- 520
- 中国の仏僧、宋雲は、インドへ入る前にバダフシャン付近でエフタル王に謁見。
彼らの生活はまだ遊牧民的だった(『洛陽伽藍記』)。
- 553
- マールワー王ヤショーダルマン、エフタル王ミヒラクラを破る。
ミヒラクラはカシュミールに逃亡、不名誉な余生を送ったと言われる。
- ミヒラクラの敗北後、インド方面のエフタルは衰える。
- 558-562
- サーサーン朝は、中央アジアに勢力を伸ばしてきた突厥 (とっけつ) と手を組み、エフタルを挟撃し、滅ぼす。
旧エフタル領は次のように二分された。
- ソグディアナ → 突厥
- アム・ダリヤ以南 → サーサーン朝 (563-567のみ領有)
実際にエフタルを撃滅したのは突厥だったため、597年までにはアム・ダリヤ以南の土地も突厥のものとなる。
エフタルは、国家滅亡後も民族として8世紀頃まで存続した。
エフタルの残した、いわゆる「エフタル文字」は、ギリシア語の草書体と言える。
バクトリア地方ではイスラム勢力の侵入までギリシア文字が使用された。
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