ルネサンス時代に栄えたイタリア中部の都市及びその領域国家。
「フェッラーラ」「フェルラーラ」とも。
ポー川下流域 (現・エミリア・ロマーニャ州) の要衝に位置。
フィレンツェとヴェネツィアという2大国に挟まれた文化国家という特徴を持つ。
芸術好きなエステ家の歴代君主が支配したため学芸保護に熱心で、詩人アリオスト、タッソらが活躍し、フェラーラ派絵画が花開き、16世紀イタリア音楽文化の中心地の一つともなった。
16世紀のイタリア宮廷文化 (後期ルネサンス) のお手本であった。
- 12世紀後半
- ドイツ出身のエステ家の居城の地に。
エステ家は10世紀の開祖オトベルトまで遡る名家で、11世紀末にドイツ系の分家とイタリア系の本家に別れた。
- 13世紀末
- イタリア系本家エステ家は、フェラーラを中心に、北イタリアに勢力を拡大。
- 15世紀前半
- フェラーラ侯ニコロ3世の統治。
エステ家はモデナ公国をも領有。
ニコロ3世は大作曲家ギヨーム・デュファイと親交を持つ。
- 15世紀前半
- イタリア中部エミリア・ロマーニャ州の都市国家レッジョ (レッジョ・ネレミリア) がエステ家の支配下に。
- 1471
- フェラーラ侯ボルソ、公位を授けられ、フェラーラは「公国」となる。
だが同年死去。
- 1471〜1505 エルコーレ1世
- 周辺諸国の力の均衡を背景に、専制君主として勢力伸張を図り、興隆。
事実上の初代公爵として「フェラーラ公国」確立。
同時に、音楽と演劇と絵画が大好きで、宮廷には著名な文化人が集まった。古代ローマ時代の古典喜劇の上演に力を尽くし、音楽入りの演劇上演を盛んに行って、後のオペラへの道筋を付ける。
美しい二人の娘、イサベラとベアトリーチェもまた、父親譲りの芸術愛好家で、特に姉イサベラ・デステ (1474〜1539) はマニアとも言うべき凝りようだった。彼女は1490年、隣国マントヴァへお嫁に行ったが、そこを華麗な芸術の都に改造してしまう。
- 1487
- 北ブラバント出身のフランドル楽派の大物作曲家オブレヒト (1450〜1505) を招く。
- 1502
- ルクレツィア・ボルジアの嫁入り。
この年、御曹子アルフォンソの下に絶世の美女が嫁入りしてきた。彼女の名はルクレツィア・ボルジア (1480〜1519) 。ルネサンス教皇として悪名高きアレクサンデル6世の娘で、泣く子も黙る冷酷無比な兄チェーザレ・ボルジアにさんざん政略結婚で利用された果ての嫁入りだった。
婚礼は盛大に行われ、新郎の姉マントヴァ公妃イサベラ・デステお気に入りのフロットーラ作曲家トロンボンチーノも、この婚礼に作品を寄せた。
- 1503
- ジョスカン・デ・プレの招聘。
父公エルコーレ1世の音楽熱は留まるところを知らず、大金を積んで、遂にあのジョスカン・デ・プレを招くことに成功する。
ジョスカンはフェラーラで宮廷礼拝堂の聖歌隊長としてフェラーラで活動しながら、モテトゥス「ミゼレーレ」等いくつかの名曲を生む。
その一つ、ミサ曲「フェラーラ公エルコーレ (ミサ・エルクレス・ドゥクス・フェラリエ) 」は、公の名前 Hercules Dux Ferrarie(の母音)をドレミ音階で読み換えた re-ut-re-ut-re-fa-mi-re (レ-ド-レ-ド-レ-ファ-ミ-レ)を定旋律としている。
ところが間もなく、ペストが流行ったため、ジョスカンは1504年、わずか11ヶ月にして去ってゆく。
そこでエルコーレ1世は、再びオブレヒトを宮廷楽長として招いたが、彼は翌1505年2月、ペストに倒れてしまう。
それどころか、同じ1505年、エルコーレ1世自身までもが没してしまう。
息子アルフォンソがフェラーラ公位を継いだ。
- 1505〜1534 アルフォンソ1世
- 教皇と争って破門され、一時領土を失うが、1527年独帝カール5世によって復権。
彼もまた、大の芸術愛好家で、詩人では、武勇恋愛詩『荒れ狂うオルランド』 (1516) で有名なアリオスト (1474〜1533) 、音楽家では、フランドル楽派のブリュメル (1460頃〜1515頃) や、ヴィラールト (1490頃〜1562) などを宮廷に呼び寄せた。
フェラーラはこの頃の宮廷文化の中心となる。
なお、放浪好きで、敵であるはずのヴェネツィアの船長と意気投合して海賊退治に精を出したというエピソードも。
- 1522〜1525
- ヴィラールトがアルフォンソ公に仕える。
その後彼はヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の楽長となる (1527年12月)。
- 1526
- アルフォンソ公は、メディチ家出身の教皇クレメンス7世と争って、ドイツ皇帝カール5世と同盟したため、カール5世と仏王フランソワ1世とのイタリアを巡る因縁の対決−−イタリア戦争に巻き込まれる。
教皇クレメンス7世は仏王フランソワ1世と同盟し、アルフォンソを破門して領土を取り上げ、ローマに幽閉してしまった。
文化国家フェラーラの命運は、正に風前の灯火だった。
- 1527
- 皇帝カールの軍隊がローマに侵入 (ローマ劫掠)。
ローマは徹底的に荒らされ、フェラーラ公アルフォンソ1世は救出され、逆に教皇クレメンス7世が捕虜となった(のち釈放)。
- 1534〜1559 エルコーレ2世
- 弟のイッポリトと共に文芸の保護者として有名に。
彼も芸術のパトロンとなったことは言うまでもないが、変わっているのは、彼の宮廷がものすごい前衛音楽の巣窟となったことだ。
その張本人たちは次の二人のヴィラールトの弟子だ。
- ニコラ・ヴィチェンティーノ (1511〜1576頃) ……この男は特に過激で、古代ギリシアの音階の再現を目指し、1534年頃より古代ギリシアの半音階、四分音階の研究に凝った。1540年代頃からフェラーラとローマで活動し、実験的な半音階マドリガーレをいくつも作った。1550年代には微分音階理論を巡って教皇庁歌手と大喧嘩し、その勢いで分厚い理論書を書き上げた。そこには、1オクターヴを31に分割した微分音階を演奏できる「アルキチェンバロ」、「アルキオルガーノ」の作り方も載っている。
- チプリアーノ・デ・ローレ (1515/16〜1565) ……1546〜1559年の間、宮廷楽長。ヴィチェンティーノの影響を受け、大胆な不協和音や半音階的表現を取り入れた。言葉と不可分な音楽形式であるマドリガーレでは、先鋭的な技法の方が効果を上げる場合が多かったらだ。歌詞も、優美な古典詩よりも、感情起伏の激しい劇的な詩 (アリオストの『狂乱のオルランド』等) が用いられるようになった。
ローレの劇的な半音階作曲法はフェラーラ宮廷音楽の伝統となり、多くの作曲家たちに強い影響を与えた。
後輩のフェラーラ宮廷音楽家ルッツァスコ・ルッツァスキ (1545頃〜1607) はこれを継承し、劇的効果をさらに強めた。
ジャッヒェス・デ・ヴェルト (1535〜1596) も若い頃ローレに学んでいる。そして、ローレが踏み出した道は、モンテヴェルディに通ずるのである。
1559年にエルコーレ2世が亡くなると、ローレはフェラーラを去り、間もなくヴィラールトの後任としてヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の楽長に就く(1563-1564)。
- 1554
- 音楽演劇「アブラハムの犠牲」 (台本:アゴスティーノ・ベッカリ、音楽:アルフォンソ・デッラ・ヴィオラ) が上演。
これはパストラーレ (牧歌劇) というジャンルの本格的流行の第一歩となった。
- 1559〜1597 アルフォンソ2世
- 歴代のフェラーラ公の中でも、最も芸術に溺れた君主。
- 16世紀後半、ルネサンス文化は極度に技巧的・退廃的な方向へ向かった。これは美術史上「マニエリスモ(マンネリズム)」と呼ばれるルネサンスの末期的形式で、17世紀のバロック様式の母胎ともなるのだが、音楽史上、「マニエリスム」の中心となったのは、疑いなくアルフォンソ2世の宮廷だろう。
そこで奏でられたのは、前代のエルコーレ2世以来の実験的な音楽であって、ローレの弟子ルッツァスコ・ルッツァスキらが大胆な転調や不協和音を用いたドラマチックなマドリガーレを書いていた。
また、「パストラーレ(牧歌劇)」が最も盛んに演じられたのも、このアルフォンソ2世の宮廷だ。タッソーの『解放されたイェルサレム』 (1575) や、グァリーニの『忠実な羊飼い』 (1581) などパストラーレの代表作はみなここで書かれている。
- 1572
- 天才詩人トルクァート・タッソー (1544〜1595) がフェラーラ宮廷にやってくる。
早くも翌1573年、牧歌劇『アミンタ』を上演して大好評を博し、1575年には史劇『解放されたイェルサレム』で不動の地位を獲得。
その頃タッソーはアルフォンソ2世の妹レオノーラに恋をし、彼女に多くの詩を捧げた。しかしアルフォンソ公はこの恋を許さず、タッソーに異端の疑い有りとして城内の獄に監禁してしまった (1577)。
愛や信仰、文学などの苦悩が重なり、タッソーは心の病にかかる。彼は獄を逃亡し、羊飼いに変装してレオノーラに会いに来るが、1579年捕らえられ、精神病院へ入れられてしまった。
詩人ジョヴァンニ・バッティスタ・グァリーニ(1538〜1612)が『忠実な羊飼い』 (上演:1581〜1590) を発表し、パストラーレ作者としてタッソーに代わる名声を得るのは、タッソー幽閉後の話だ。
- 1579
- アルフォンソ2世、マントヴァのゴンザーガ家出身のマルゲリータと結婚。
- 1580
- アルフォンソ2世、女声アンサンブル「コンチェルト・デッレ・ドンネ」結成さす。
- 1579年、アルフォンソ2世は3回目の結婚をした。相手はマントヴァのゴンザーガ家出身のマルゲリータだ。
45歳のアルフォンソ公は、音楽を愛する15歳の花嫁を喜ばすため、翌1580年、3人の優れたソプラノ歌手を新妻の侍女に加えて歌を歌わせた。やがて、やはり優れたソプラノ、タルクィニア・モルツァも参加して、素晴らしい女声アンサンブル「コンチェルト・デッレ・ドンネ (御婦人がたのコンサート) 」が生まれたのだった。
そのメンバーは次の通りであった。
- ラウラ・パヴェラーラ
- アンナ・グァリーニ
- リヴィア・ダルコ
- タルクィニア・モルツァ
これはアルフォンソ公の門外不出の極秘女性声楽アンサンブルとなった。アルフォンソ公は彼女たちをことのほか気に入り、国宝のように扱い、宮廷深くかくまって人前に出さず、彼女たちの演奏を非公開にした。
ルッツァスキが彼女たちの指導に当たり、前衛的な超絶技巧マドリガーレを書いたが、ルッツァスキが作曲した彼女たちのレパートリーも、アルフォンソ存命中は出版することは許されなかった。
- アルフォンソ公は、外部の作曲家もしばしば招いた。
ヴェネツィアのヴィラールトは公に作品を献呈している。
ローマ在住のマレンツィオも、エステ家出身の枢機卿ルイジ・デステ (1538〜1586) (アルフォンソ2世の弟) に仕えた関係で、1580〜1581年にフェラーラ宮廷を訪れた。
アルフォンソ2世はじめ、公女ルクレツィアやその妹レオノーラ、詩人タッソー、グァリーニなど、宮廷の人々は皆マレンツィオの大ファンで、彼の作品は例の極秘女性声楽アンサンブルによって演奏された。マレンツィオも「コンチェルト・デッレ・ドンネ」のためにマドリガーレ集を作り、アルフォンソ公に献呈した。
アルフォンソはまた、お隣さんマントヴァの音楽家をしばしばフェラーラへ招いた。
その中にはモンテヴェルディもいた。マドリガーレ集第4巻に含まれる「とても甘美に歌うあの小鳥は (Quel augellin che canta) 」もそうした折に、「コンチェルト・デッレ・ドンネ」又はそれに類したアンサンブルのために書かれたものと言われる。
しかし間もなく「コンチェルト・デッレ・ドンネ」の一人、タルクィニア・モルツァが、マントヴァの宮廷楽長ジャッヒェス・デ・ヴェルトと道ならぬ恋に落ち、大騒ぎとなり、二人は別れさせられる。
- 1586
- タッソーが精神病院を脱走し、悲惨な流浪生活を送る。
教皇クレメンス8世 (位1592〜1605) はこれを知り、栄誉ある詩人として月桂冠を与えるべく、タッソーをローマに招くが、時すでに遅く、その恵まれない生涯を閉じる (1595)。
- 1593
- ジェズアルドがアルフォンソ公の従妹エレオノーレと再婚、フェラーラに移る。
晩年のアルフォンソ2世の宮廷へころがりこんだ最大の変わり種は、なんと言ってもカルロ・ジェズアルド (1561頃〜1613) だ。
妻の殺害 (1590) 後、実家ジェズアルド城で2年ほど謹慎を続けた彼は、アルフォンソ公の従妹エレオノーレと再婚した。彼女はタッソーの悲恋の相手レオノーラの娘(妹?)である。
この結婚も幸せなものではなかったが、少なくともジェズアルドにとっては、作曲家ルッツァスキや詩人グァリーニらと知り合うことができた。
1596年初めにフェラーラを去る。
- 1597
- アルフォンソ2世が永眠。
彼には男系の子孫がなく、エレオノーラの兄チェーザレ・デステがフェラーラ公を継いだが、間もなく教皇庁の策動で公位を奪われ、フェラーラは教皇クレメンス8世により、教皇領に組み入れられてしまう。
エステ家はモデナ公国の領主としてモデナ市へ移り、フェラーラは教皇の代官としてフェラーラに送り込まれた枢機卿に治められた。
作曲家ルッツァスキはエステ家断絶後もフェラーラに留まり、枢機卿に仕えた。
- 1796
- エステ家断絶。
- 1860
- サルデーニャ王国 (イタリア王国) に統合された。
- 19世紀末
- 灌漑によってテンサイの栽培が始まり、食品加工、農業機械、化学肥料、石油精製などの工業が発展。
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