16世紀前半にイタリアの支配権を巡り、ヴァロワ朝フランスと、ハプスブルク朝ドイツ&スペインの間で繰り広げられた戦争。
背景には、イタリアの経済的・文化的繁栄と、それに不釣り合いなくらいの政治的分裂があった。外国君主の目には、イタリアほど魅力的な獲物はなかった。
ここにローマ教皇やイタリア諸国、それに宗教改革で登場したドイツのルター派諸侯が加わり、物事をとんでもなく複雑にした。
結果的にフランスのヴァロワ家は敗退し、スペインのハプスブルク家がイタリアを手中に収めた。いずれにせよ、イタリアの没落と分裂はこれで決定付けられた。
戦争は次の3期に分けられる。
- 1494〜1516 フランスのイタリア侵略
- 1521〜1544 イタリアを巡るカール5世 (独) とフランソワ1世 (仏) の戦い ……北イタリアを舞台に前後4回に渡る戦闘が繰り返された。これを狭義の「イタリア戦争」とも呼ぶ。
- 1556〜1559 イタリアを巡るフェリペ2世 (スペイン) とアンリ2世 (仏) の戦い
= 読み物風 =
ちょっとおつむの足りないフランス王シャルル8世 (位1483〜1498) は、何を思ったか突然南伊ナポリ王国の征服を思い立ち、1494年、大軍を率いてイタリアに侵入した。
四分五裂していたイタリア諸国はパニックに陥り、フランス軍は抵抗らしい抵抗も受けずに「バターを針で突き刺すように」イタリア半島を一直線に南下して行った。フィレンツェではこれをきっかけに政変が起こり、サヴォナローラによる神権政治が打ち立てられた。
これが「イタリア戦争」 (1498〜1559) の始まりである。この時はこれで終わったように思われたが、実はこれは長い長い戦いの序曲に過ぎなかった。
1516年、独ハプスブルク家のカール (ブルゴーニュとネーデルラントの支配者) はスペイン王になった。当時のスペインは、南伊ナポリ王国や「新大陸」アメリカをも支配する大国だ。
次いで1519年には、神聖ローマ皇帝にも選出され、カール5世(位1519〜1556)として帝冠を受けた。カールはスペインとドイツ、南イタリア、新大陸の王となったわけだ。
そして、このような情勢は、フランス王 (ヴァロワ朝) フランソワ1世 (位1515〜1547) にとっては最悪の事態だった。にっくき宿敵であるハプスブルク家に、西(スペイン)も東(ドイツ)も南(ナポリ)も包囲されてしまったのだ。
フランソワ1世にとって、残された手段は、まだカールの勢力が伸びていない北イタリアを奪って、活路を見いだすことだけだった。
こうして、16世紀前半、仏ヴァロワ王家と独ハプスブルク家の間で、イタリア支配権を巡る死闘が展開される。「イタリア戦争」である。イタリアはその戦場となり、混乱と荒廃の中に叩き込まれるのである。
フランソワ1世は1515年マリニャーノの戦いに勝利し、ミラノ公国を占領した。作曲家ジャヌカン (c.1485〜1558) の有名なシャンソン「戦争 (La guerre) 」は、この戦いを描いたものだ。ミラノの支配者スフォルツァー家は追放され、彼らに仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチ (1452〜1519) は翌1516年、フランソワ1世に伴われてフランスへ移り (この時有名な『モナ・リザ』の絵も持参した)、そこで生涯を終える。
この時以来フランソワ1世はすっかりイタリアのルネサンス文化に狂ってしまった。各地に建てた豪華な宮殿の内部は、イタリア画を真似たヌード画で一杯になり、ジャヌカンやセルミジ (c.1490〜1562) 、セルトン (?〜1572) らの小意気でエッチなシャンソンが好まれた。
フランソワ1世はパヴィアの戦い (1525) でドイツ皇帝カール5世に破れ、捕虜となってしまうが、釈放後、性懲りもなく戦争を再開し、メディチ家出身の教皇クレメンス7世 (位1523〜1534) と同盟する。
フェラーラ公国フェラーラ公アルフォンソ1世は当時カール5世と組んでいた。そこで教皇クレメンスはアルフォンソを破門し、領土を取り上げてローマに幽閉してしまった。文化国家フェラーラ公国は風前の灯火となる。
しかし1527年、皇帝カールの軍隊がローマに侵入した (ローマ劫掠 [サッコ・ディ・ローマ] )。ローマは徹底的に荒らされ、ルネサンス文化の花は跡形もなく踏みにじられた。フェラーラ公国公アルフォンソ1世は救出され、逆に教皇クレメンス7世が捕虜となってしまった。
クレメンスは釈放後もカール5世におびえた。イギリス王ヘンリー8世 (位1509〜1547) が王妃キャサリンとの離婚を申請したときも、キャサリンが皇帝カールの叔母だったため、カールの御機嫌を損ねるのが恐くて許可しなかった。この対応がヘンリー8世を怒らせ、結局イギリスの教会をローマ・カトリックから独立させてしまう結果となる。
(1534年にヘンリー8世は「首長令」を発布、イギリスの教会をローマ教皇の手からもぎ取り、自ら組織した国教会[アングリカン・チャーチ]の管理下に置いた。)
フランソワ1世の方は、カール5世に対抗するためには手段を選ばなかった。ルター派諸侯を援助してドイツの宗教内乱を助長したり、オスマン・トルコのスルタン、スレイマーン1世(大帝) (位1520〜1566) をそそのかしてウィーンを包囲させたり (1529) している。
だが戦争はおおむねドイツ側の有利に終わり、フランスは北フランスから勢力を一掃されてしまう。しかもフランスが全てを失ってイタリアから戻ってきた直後、フランス国内で激しい宗教戦争である「ユグノー戦争」が勃発し、国内は滅茶苦茶になってしまい、ヴァロワ朝の血統もその混乱の中で絶えてしまうのである。
= 年表式記載 =
= イタリア戦争と梅毒 =
フランス軍がイタリアに侵入した1494年、おりしもナポリ王国では新大陸から伝わった梅毒が大流行していた。
ここをフランス軍が占領し、すぐさま撤退していったからたまらない。フランス兵を経由して、梅毒は全ヨーロッパへ瞬く間に広まっていった。
そのためにフランス人はこの病気を「ナポリ病」と呼んだが、一方のイタリア人は「フランス病」と呼んだ。
いずれにせよ、梅毒の流行により、かつてはヨーロッパ中の都市に多くあった風呂屋が激減した。爾来、ヨーロッパでは体臭を香水でごまかす風習が定着するのである。
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- 1494
- フランス王シャルル8世 (位1483〜1498) のイタリア侵入。
シャルルはミラノ公ロドヴィコ・スフォルツァー・イル・モロ (1480〜1508) と組んで、南イタリアのナポリ王国を制圧。
その大義名分は、
- アンジュー家より引き継いだナポリ支配権
- オルレアン公家から引き継いだミラノ公位継承権
であり、シャルルはビザンツ帝国再興というアンジュー家の宿願を夢想したらしい。
しかし、ドイツ皇帝マクシミリアン1世が、
- イタリアに対する皇帝の宗主権
- スペインのナポリ支配権
を主張して、ローマ教皇アレクサンデル6世、スペイン、ヴェネツィア、ミラノ公、イギリスなどを含む反仏大同盟「神聖同盟 (レガ・サンティ)」が結成したため、フランス軍は翌1495年に撤退。
- 1500
- フランス王ルイ12世 (位1498〜1515) は、スイスの援助でミラノ公国を攻撃、ノヴァラの戦いに勝利してミラノを占領。
- 1504
- ナポリがスペイン (ハプスブルク家) の領土となる。
- 1511
- ドイツ皇帝マクシミリアン1世=イングランド王ヘンリー8世=ローマ教皇ユリウス2世=スペイン=ヴェネツィア=スイスなどが対仏「神聖同盟」を再結成 (「イタリア解放神聖同盟」)。
- 1513
- フランス王ルイ12世、「神聖同盟」に敗れ、ミラノ放棄を余儀なくされる。
- 1515 マリニャーノの戦い
- フランスの新王フランソワ1世 (位1515〜1547) は、教皇ユリウス2世の死に乗じ、北イタリアに進出、スイス誓約同盟を破り、ミラノを奪還。
ミラノの支配者スフォルツァー家は追放される。
- 1516
- フランスはスペインにミラノ領有を認めさせようとしたが、ハプスブルク家出身の新国王カルロス1世 (カール) が拒否。
- 1519
- ドイツ (神聖ローマ) 皇帝選挙。
フッガー家から多額の援助を得たカールはフランソワ1世を破り、「カール5世」としてドイツに君臨。
スペインとドイツにまたがる大勢力となったハプスブルク家のカール5世は、仏ヴァロワ家のフランソワ1世と激しく衝突する。
- 1521〜1526 北イタリアを巡る第1次仏独戦争
- カールが教皇レオ10世と結んでミラノ奪回の兵を挙げる。
- 1525 パヴィアの戦い
- フランス軍がスペイン=ドイツ傭兵軍に敗北。
仏国王フランソワ1世は捕虜となる。
- 1526 マドリード和約
- 国王釈放のため、フランスにとって屈辱的な条約を強制された。
フランスは、以下の領土を失う。
- 1526〜1529 北イタリアを巡る第2次仏独戦争
- 釈放されたフランソワ1世は、即座にマドリード和約を破棄し、メディチ家出身の教皇クレメンス7世 (位1523〜1534) と同盟して、フランス=教皇庁=ミラノ=フィレンツェ=ジェノヴァの間でコニャック「神聖同盟」を築き上げ、ドイツに対抗。
- 1527 ローマ劫掠 (サッコ・ディ・ローマ)
- ドイツ皇帝カール5世の軍がローマに侵入。ローマを徹底的に荒らし、教皇クレメンス7世を逮捕。ルター派傭兵は囚われの教皇を嘲笑。
カールの意図は、自分たちの陣営を裏切ったローマ教皇に対する懲らしめと脅しにあった。
- 1529 トルコ軍による第1次ウィーン包囲
- 一方仏王フランソワ1世は、独帝カール5世の力を弱めるため、ドイツ国内のルター派新教諸侯を援助して宗教紛争を拡大させ、またオスマン朝トルコ帝国のスレイマン1世 (大帝) (位1520〜1566) に接近して、ウィーンを包囲させた。
- 1529 カンブレー和約
- トルコの進出にあわてた独帝カール5世は、仏王フランソワ1世と休戦協定を結ぶ。
- 1536〜1538 北イタリアを巡る第3次仏独戦争
- 仏王フランソワ1世はオスマン・トルコのスレイマン大帝と同盟を結び、戦争再開。
- 1538 プレヴェザの戦い
- 提督バルバロス・ハイレッディン率いるトルコ艦隊が、ギリシア西岸アルタ湾口のプレヴェザ攻囲中のスペイン=ヴェネツィア=教皇の連合艦隊を撃破。トルコは全地中海の制海権を得る。
- 1538 ニース和約
- 1542〜1544 北イタリアを巡る第4次仏独戦争
- 1544 クレピー和約
- 仏王フランソワ1世はナポリを放棄。独帝カール5世はブルゴーニュ公国を返還。
総体的にはカールが優位に立つ。
- 1556〜1559 南イタリア等を巡る西仏戦争
- ハプスブルク家出身のスペイン王フェリペ2世 (位1556〜1598) は、仏王アンリ2世 (位1547〜1559) と戦う。
サン・カンタンとグラヴリーヌでスペインがフランス軍を破る。
- 1559 カトー・カンブレジの和約
- フランスはフランシュ・コンテとナポリを失う。
ハプスブルク家の覇権確立。
= イタリア戦争の結果/意義 =
- イタリアの弱体化
外国軍に国土を蹂躙され、政争に明け暮れたイタリアは、経済繁栄を失い、ルネサンス文化も終焉を迎え、反宗教改革の拠点として反動化する。
また統一を失ったままスペインなど外国勢力の支配下に置かれたため、政治的分裂と近代化の遅れが決定的となる。
- ハプスブルク家の覇権の完成
ハプスブルク家による支配はドイツ、オーストリア、スペイン、イタリアに及び、フランスはイタリアからほぼ完全に手を引く。
- ドイツ新教諸侯が地位を確保
ドイツ国内ではカール5世が戦争遂行のためルター派と妥協、同派諸侯の立場が有利になり、宗教改革の進展に拍車をかけた。
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