マントヴァ公国
Mantova [伊]
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 イタリア北部ロンバルディア地方の古都。
 フェラーラ公国の隣に位置した小国で、やはり芸術保護に熱心だった。

紀元前
 エトルリア人の都市として建設さる。

10世紀末
 フェラーラ公国のエステ家に属す。

12世紀後半〜13世紀
 ドイツ皇帝派=「ギベリン派」と、教皇派=「グェルフ派」の争いに巻き込まれる。
 一時「コムーネ」(自治都市) を成した。

1328
 ゴンザーガ家の支配下に入る。

1481?〜1519  フランチェスコ2世

1490
 フランチェスコ2世は、フェラーラ公女イサベラ・デステと結婚。
 マントヴァに文化の花が咲き誇るようになったのは、フェラーラの影響だった。
 マントヴァ公フランチェスコ2世ゴンザーガは、この年、フェラーラ公エルコーレ1世(位1471〜1505)の娘イサベラ・デステ(1474〜1539)を嫁に迎えたが、このイサベラという女性は芸術マニアだった。
 夫フランチェスコ2世は、可愛い花嫁の願いなら何でも叶えてやった。そこで公妃イサベラはマントヴァを華麗な芸術の都にした。
 ただ、それで彼女がどれほど幸せでいたかは分からない。彼女の座右の銘は「夢もなく、恐れもなく (Nes spe nec metu) 」であった。
 彼女は夫がヴェネツィアの捕虜になった後も、大国の間を卓越した政治手腕で泳ぎ切り、独立を守ることになる。

 彼女は、レオナルド・ダ・ヴィンチ (1452〜1519) や、ラファエッロ (1483〜1520) など当代一流の芸術家を自分の宮廷に集めたが、その中にトロンボンチーノ (1470頃〜1535以降) のようなイタリア人音楽家 (フランドル人ではない) もいた。
 彼らはホモフォニックで単純明解な「フロットーラ」という曲種を流行らせた。ようやくイタリアでも地元出身音楽家による独自の音楽形式が生まれるようになったわけだ。フロットーラは、やがてマドリガーレへ昇華していくという点でも重要な音楽形式だ。

1526
 イタリア戦争の一環であるパヴィアの戦い (1525) で、フランス軍がドイツ皇帝に一蹴されるのを見たイタリア諸国は危機感を募らせ、教皇クレメンス7世=ミラノ=フィレンツェ=ジェノヴァはフランスとコニャック「神聖同盟」を締結、ドイツに対抗。
 ところが、マントヴァの時の支配者イサベラ・デステはドイツ側と通じて同盟に不参加。

1527
 ドイツ軍のローマ進軍。
 この際、マントヴァのイサベラ・デステは裏でドイツ軍を支援。ドイツ軍指揮官シャルル・ド・ブルボンはイサベラの甥。
 ローマ攻略戦で指揮官ブルボン公は戦死。指揮官を失った傭兵部隊は、ローマ陥落後はこの都市を7日間に亘り徹底的に破壊・略奪。

 しかし、イサベラのこの知略がスペインの野望を引き寄せ、将来に禍根を残すこととなる。

1550〜1587  グリエルモ
 マントヴァ公グリエルモ・ゴンザーガは、音楽好きを通り越し、自ら作曲してパレストリーナに送り付けるほどの音楽マニアだった。

1565
 ジャッヒェス・デ・ヴェルトがマントヴァの宮廷楽長に。
 グリエルモ公は、超一流の作曲家を宮廷楽長にしたいと思い、パレストリーナやマレンツィオに声を掛けたが断られ、ジャッヒェス・デ・ヴェルトに白羽の矢を立てた。
 ヴェルトは期待を裏切らない素晴らしい音楽家だった。
 そのほかにも、グリエルモはガストルディ、パッラヴィチーノなど一流どころの音楽家を集めた。

1578〜1612  ヴィンチェンツォ1世
 1578年、グリエルモが死に、派手好き音楽好き女好きの浪費家ヴィンチェンツォ1世ゴンザーガが新しいマントヴァ公となった。
 マントヴァ宮廷の音楽文化は一層華やかさを増し、フェラーラの向こうを張って、女性ばかりのアンサンブルも作られた。このアンサンブルのためにも、ヴェルトは技巧的な作品群を書いてゆく。

1570年代末〜1580年代
 宮廷楽長ヴェルトはお隣のフェラーラ公アルフォンソ秘蔵プリマの一人、タルクィーニア・モルツァとと道ならぬ恋に落ち、ばれて悲恋に終る、というゴシップが発生。

1590
 モンテヴェルディ、マントヴァ公に仕え始める。
 マントヴァの宮廷楽団に一人の若いヴィオール弾きがやってきた。彼の名はクラウディオ・モンテヴェルディ (1567〜1643) 。のち、ルネサンス最後の巨匠にしてバロック最初の巨匠になる男だ。

1592
 ヴェルトはサンタ・バルバラ礼拝堂の楽長職をガストルディに譲る (但し宮廷楽長の地位は終身保った)。
 ガストルディは「バレット」というホモフォニックな軽い世俗合唱曲を流行させた。

1596
 ヴェルトが死に、パッラヴィチーノが宮廷楽長を継ぐ。
 しかしすでに宮廷楽団ではモンテヴェルディが台頭していた。

1600
 フィレンツェの婚礼祝賀式典で、ペーリのオペラ「エウリディーチェ」 (現存する最古のオペラ) が初演される。 (歌劇の誕生)
 それを見たヴィンチェンツォ1世は、自分も華麗な音楽劇を作りたい、という願望で一杯になり、宮廷作曲家にオペラを依頼。

1601
 パッラヴィチーノが死に、モンテヴェルディが宮廷楽長に昇格した。

1607
 モンテヴェルディの最初の歌劇「オルフェオ」が上演。
 予想を遥かに上回る出来で、ヴィンチェンツォ公を満足させた。

1612
 ヴィンチェンツォ公が死に、フランチェスコがマントヴァ公を継ぐ。

1612〜1628?  フランチェスコ3世
 新マントヴァ公フランチェスコは、モンテヴェルディをくびにしてしまう。
 モンデヴェルディを失ったマントヴァ公国は、イタリア音楽の中心であることを終える。

1628
 継承戦争が起こり、マントヴァ公位がフランス貴族に継承されてしまう可能性が生じる。

1629
 中央ヨーロッパの領土 (フランシュ・コンテ及びフランドル) への要衝マントヴァをフランスに抑えられるのを嫌ったスペインは、フランスと武力対決。

18世紀
 オーストリア領となり、要塞都市となる。

ナポレオン時代
 一時ナポレオンの支配。

1866
 イタリア王国に併合。

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更新日:2002/04/13

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