ルネサンス教皇
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 著しい腐敗と堕落の中にあった15世紀後半〜16世紀初めにかけてのローマ教皇をこう呼ぶ。

 この時期には、清貧を奨励すべきローマ教皇庁までが豪華壮麗なルネサンス文化にどっぷり漬かっていた。「ルネサンス諸教皇」たちは旨いものを食べ、いい音楽を聴き、身内を要職に取り立て、領土の拡張に奔走した。
 彼らは信徒である前に文化人、文人である前に武人であった。
 富と権力に狂乱するその姿は、世俗君主と何等変わりなかった。

 この堕落の遠因は、14世紀以来の教皇権の失墜にあった。
 1414〜1417年のコンスタンツ宗教会議の結果、ようやく「教会大分裂 (シスマ)」は終結を見たものの、カトリック教会の求心力はすっかり弱まってしまった。
 そこに加えて、当時のイタリアは著しい経済発展を遂げ、莫大な富を蓄えていた。ローマの教皇庁がそのバブルの風潮に染まるのは時間の問題だった。
 さらに、枢機卿やローマ教皇の職そのものが、メディチ家 (フィレンツェ) やエステ家 (フェラーラ) といったイタリア門閥貴族たちで占められるようになり、ローマ教皇庁が彼らの勢力争いの場になったことが、教皇庁の世俗化に拍車をかけた。

15世紀後半
 イタリアの経済繁栄とルネサンス文化の華やかさにカトリック教会も巻き込まれ、フッガー家、メディチ家への経済依存やネポティズム (縁故主義) の蔓延が教会の腐敗を助長。
 なお親族を重用する縁故採用を「ネポティズム」と呼ぶのは、妻帯を禁止された聖職者には息子がいないので、甥 (ネポス) を後継者として取り立てることが多いからだ。だが実際には「甥」と称しながら、実の息子であることも少なくなかった。

1471〜1484  シクストゥス4世
 サン・ピエトロ寺院の建て替えを始め、有名なシスティナ礼拝堂を建築。
 「システィナ」の名称は教皇の名前シクストゥスにちなむ。

1484〜1492  インノケンティウス8世

1486〜1494
 ジョスカン・デ・プレがローマで活躍。

1492〜1503  アレクサンデル6世
 腐敗教皇として悪名高い、「ルネサンス教皇」の典型。
 スペイン系貴族ボルジア家の出身である彼は、金で教皇の地位を買い、権力拡大に狂奔した。目的のためには手段を選ばず、宿敵ヴェネツィア攻撃のために異教徒オスマン・トルコと同盟すらした。

1494
  フランス王シャルル8世がイタリアに侵入し、イタリア戦争開始。
 アレクサンデル6世はドイツ皇帝マクシミリアン1世やヴェネツィア、ミラノ公などと同盟してフランスに対抗。

 アレクサンデル6世の治世に凄惨な彩りを加えたのは、“甥”チェーザレ・ボルジア (1475〜1507) の活動だ。
 “甥”というのは真っ赤な嘘で、本当はアレクサンデル6世が妾に産ませた実子だが、純潔であるべき教皇が女に子供を産ませるはずがない、というので“甥”ということで通されていたのだ。
 チェーザレ・ボルジア−−薄い唇に酷薄そうな笑いを浮かべたこの男こそ、ルネサンス史上最も残忍な男だ。伝家の毒薬で敵を闇へ葬ることは朝飯前。唯一の趣味は仮面をかぶっての辻斬り。チェーザレの名は聞く者全ての心臓を凍らせた。
 こんな男が若くして、聖職者として教皇一歩手前の枢機卿にまで成り上がっていたこと自体、聖職がいかに簡単に売買できたかを示しているが、その彼は1497年、22歳の時突然還俗して、ロマーニャ地方 (中央イタリア東部) にボルジア領を建設すべく動き始めた。チェーザレはあらゆる悪辣な手段を駆使し、傭兵をかき集めて、瞬く間に一大軍事勢力となった。
 だが彼に金を渡し、裏からあやつっていたのは、言うまでもなく父親の教皇アレクサンデル6世であった。 

1498
 新仏王ルイ12世が即位すると、チェーザレ・ボルジアはその従妹と結婚してフランスと同盟。

1499〜1500
 教皇アレクサンデル6世も仏王ルイ12世やヴェネツィアと同盟。
 フランスはミラノを占領し、スフォルツァー家を追放。

1501〜
 教皇軍はロマーニャ地方の諸都市を攻略。
 しかし間もなくチェーザレ・ボルジアの残忍な手口に対し、教皇軍の傭兵の間に猜疑が生じて反乱が発生。 → 教皇軍は二分。

1502
 50歳のレオナルド・ダ・ヴィンチは、チェーザレ・ボルジア率いる教皇軍に自慢の軍事工学を評価され、軍事顧問 (軍事技師長) として採用された。
 火縄銃の発達で都市攻略が難しさを増す中、いかに火器の攻撃を避けつつ塹壕をジグザグに掘り進み、いかに早く敵軍の城壁の真下に到達して突破口を開くか、という技術の優劣が戦局を左右するようになっていた。

1503
 チェーザレ・ボルジアが反乱教皇軍を制圧、その後勢いに乗ってロマーニャ地方を征服。
 ところがその夏、教皇アレクサンデル6世はマラリアで急死。
 これをきっかけにロマーニャ諸都市は次々と反乱を起こし、独立。
 教皇軍の軍事技術顧問だったレオナルド・ダ・ヴィンチはフィレンツェに帰り、『聖アンナと聖母子』 (1500-07) や『モナリザ』 (1503-06) を製作、またグライダー実験や人体解剖にも挑戦。
 チェーザレ・ボルジアはただの傭兵隊長に落ちぶれ、1506年に30歳で戦死。

1503  ピウス3世

1503〜1513  ユリウス2世
 綱紀粛正を試みる一方、教皇領拡大のために戦場を奔走し、芸術家を保護してローマをルネサンス文化の中心とした、典型的なルネサンス教皇の一人。
 武将、政治家として特に傑出していた。
 ミケランジェロ、ラファエロ、ブラマンテらを抱えてサン・ピエトロ大聖堂の改築を軸にローマを最大の芸術の都とし、新しい聖歌隊カペラ・ジュリア (ユリウス聖歌隊) も組織。

1505
 ユリウス2世はミケランジェロをローマに呼び出し、自分の大墓碑の建造を依頼。

1506
 ユリウス2世はブラマンテにヴァティカンのサン・ピエトロ寺院の改修を要請。

1508
 教皇ユリウス2世はミケランジェロにヴァティカンの『システィナ礼拝堂大天井壁画』 (1508-13) の製作を命令。
 同じ年、ラファエロは、親戚ブラマンテの推薦によりユリウス2世に仕えることになり、
  • 1509〜10 『アテネの学堂』
  • 1510〜11 『パルナッソス山』
  • 1512   『ボルセーナのミサ』
  • 1513〜14 『聖ペテロの解放』
などヴァティカン宮殿の壁画を製作、賞賛を集める。

1511
 教皇ユリウス2世はフィレンツェ及びロマーニャ地方を征服するため、フィレンツェの金になびきやすいミラノ駐留フランス軍を追い出そうと決意。
 スペイン、ヴェネツィア、スイスなどと「イタリア解放神聖同盟」を結び、ミラノのフランス軍に対抗。

1512
 教皇軍、フィレンツェ攻略。
 フィレンツェは陥落、教皇やスペインに資金を供給していたメディチ家が支配者として復帰。

1513〜1521  レオ10世
 本名ジョヴァンニ・デ・メディチ。メディチ家の次男で、父ロレンツォの力により、13歳で枢機卿になった。
 これまた典型的なルネサンス教皇で、仏王フランソワ1世のイタリア介入に対抗してフランスと戦い、イタリア戦争の一翼を担った。
 またドイツの大司教叙任の際、聖職を売買し、またサン・ピエトロ大聖堂改築費調達のために免罪符 (贖宥符) を発売するなど、金にも汚かった。
 学芸の保護に熱心だったことも他のルネサンス諸教皇と同様。

1514
 免罪符を新規に発行。 → ルターの宗教改革の契機に。

1515
 新フランス国王フランソワ1世 (位1515〜1547) が北イタリアに侵攻、「マリニャーノの戦い」に勝利してミラノを奪還。
 教皇レオ10世はトスカナ地方 (フィレンツェを中心とする地域) の覇権を巡ってフランスと抗争するが、失敗して、1516年にフランスと政教条約を結び、司教叙任権を確保。

1517年10月31日  ルターの宗教改革開始
 ヴィッテンベルク大学の神学教授ルターが『95ヶ条の意見書』を掲示、免罪符を販売しているカトリック教会を批判。

 レオ10世はその後もドイツ皇帝カール5世と結んでフランスと抗争を続け、イタリアを永続的戦乱に陥れただけでなく、宗教改革の広まりにも何の手も打たなかった。

1520
 レオ10世はルターを破門で脅すが、ルターはその破門威嚇の大勅書『エクスルゲ・ドミネ』を焼く。

1522〜1523  ハドリアヌス6世
 改革の意図を抱く。

1523〜1534  クレメンス7世
 俗名ジュリオ・デ・メディチ。大ロレンツォの孫に当たるメディチ家の一員。従兄の教皇レオ10世の補佐を務めた。
 やはり文芸愛好家で、視野が狭く、ひたすらメディチ家の利益ばかり追い求めて奔走し、ルター派への対応を誤った。

1526
 教皇クレメンス7世は仏王フランソワ1世と同盟し、独帝カール5世と争った。
 また、カール5世と結んでいたフェラーラ公アルフォンソ1世を破門し、領土を取り上げてローマに幽閉。

1527  ローマ劫掠 (サッコ・ディ・ローマ)
 独帝カール5世の軍がローマを徹底的に破壊・略奪。
 激戦の末陥落したローマは、7日に及ぶ皇帝軍の狼藉により、古代からの建造物を含め、ほぼ完全に破壊された。
 ここにローマのルネサンス時代は終わった。今日見るローマは、この破壊のあとに再建されたもの。
 教皇クレメンス7世は逮捕され、ルター派傭兵から嘲笑を浴びる。
 フェラーラ公アルフォンソ1世は解放。

 クレメンスは釈放後もカール5世におびえた。
 イギリス国王ヘンリー8世が王妃キャサリンとの離婚を申請した時も、キャサリンが皇帝カールの叔母だったため、カールの御機嫌を損ねるのが恐くて許可しなかった。
 だが、この対応はヘンリー8世を怒らせ、結局イギリスの教会をローマ・カトリックから独立させてしまう結果となる。

 ここまで見てきたように、ルネサンス諸教皇の空しい繁栄も長くは続かなかった。
 イタリアは突如として独仏の確執の戦場となり (イタリア戦争)、ルネサンス文化に漬かっていた諸国は戦乱の中に投げ込まれた。それはローマ教皇庁も例外ではなかった。
 その一方では宗教改革が猛烈な勢いで燃え広がりつつあった。
 1527年の皇帝カール5世の軍による「ローマ劫掠」は、教皇庁にさらなる衝撃を与えた。華美な美術品や財宝は全て失われ、気付いてみれば、カトリック教会の基盤そのものが崩れ始めていた。
これではいかん!−−教皇庁はようやく立ち上がり、自己改革に乗り出す。これがいわゆる「反宗教改革」だ。ローマの風紀は一新され、清新な文化が再生する。
 従って、これ以降は「ルネサンス教皇」ではなく、改革派の教皇たちである。
 新生ローマは、16世紀後半には音楽の面でも黄金期を迎え、パレストリーナ、ラッスス、マレンツィオ、ビクトリアといった偉大な作曲家たちが肩を並べて活躍した。
 同時期のヴェネツィアでも、ヴィラールトやローレの指導の下、ツァルリーノ、メルーロ、アンドレア・ガブリエーリらが新しい形の教会音楽を生み出しつつあった。

1534〜1549  パウルス3世
 英王ヘンリー8世を破門して離反させ、またミケランジェロにサン・ピエトロ大聖堂の天井画やシンティナ礼拝堂の壁画を描かせた「ルネサンス教皇」。
 だが、治世終わり近くには、トリエント宗教会議 (1545-1563) を開催して教会改革に本腰を入れる。

1534  英国教会の成立
 英国王ヘンリー8世は「首長令」を発布し、イギリスの教会をローマ教皇の手からもぎ取り、自ら組織した国教会 (アングリカン・チャーチ) の管理下に置いた。

1530年代後半
 イグナティウス・ロヨラ (1491〜1556) 創設の「イエズス会」がローマで活動を開始。

1545〜1549  トリエント宗教会議 第1会期

1550〜1555  ユリウス3世

1551〜1552  トリエント宗教会議 第2会期

1555  マルケルス2世

1555〜1559  パウルス4世
 厳格。教皇礼拝堂から妻帯者を追放。

1559〜1565  ピウス4世

1559〜1565  トリエント宗教会議 第3会期
 この会議ではミサ曲に於ける言葉の不明瞭さが問題となり (1562年9月、1563年11月) 、トロープスは全面禁止、セクエンツィアも大部分使用禁止となった。
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更新日:2002/04/13; 2003/01/19

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