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19世紀前半にパンジャーブ地方を支配したシーク教国に対するイギリスの帝国主義的征服戦争。
第1次アフガン戦争(1838〜1842)でアフガニスタンに親英政権が生まれ、南方シンドもイギリスの保護国になると、シーク教国ではイギリスの対する警戒感が高まったが、ランジート・シングの死(1839年)後、優れた指導者に恵まれず、内輪もめが頻発していた。
イギリスはこのタイミングを見計らってシーク教国を挑発した、
- 1845〜1846 第1次シーク戦争
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- 1845 おりしもイギリス軍はサトレジ川の渡河点を調査、シーク教徒の感情を刺激 → 開戦。
初め総督ハーディング率いる英軍を数回破ったが、裏切りも起こる。
- 1846.12 ソブラーオンの戦いで大敗喫す
→ 「ラホール条約」が結ばれ、東パンジャブはイギリスに併合され、西も表面上独立を保ったが、事実上イギリスの支配下に入った。
古いシーク支配層はこの状況に動揺し、反英感情が広がった。
- 1848〜1849 第2次シーク戦争
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1848 ムルタンでイギリス士官殺害さる → 全パンジャブ暴動化
総督ダルフージー指揮する英軍の形勢は悪く、1849.1にはチリアンワーラの敗北を喫した。
しかし再びシーク内部の裏切りで英軍は盛り返し、
1849.2 グジャラートの戦いでシーク軍全滅
1849.3月末 イギリス、全パンジャブ併合を宣言
かくしてパンジャーブ地方で頑強に抵抗したシーク教国は滅び、ここにイギリスのインド征服は完了した。
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