依頼内容

 映画『アマデウス』を見ました。
 あそこではモーツァルトは作曲家サリエーリに殺されたことになっています。
 でも伝記などを読むと、暗殺されたとは書いてありません。

 本当のところは、モーツァルトは天寿を全うしたんでしょうか?  それとも、誰かに殺されたのでしょうか?
 もし殺されたとすれば、一体誰が、どんな動機でこの音楽の天才の命を奪ったのでしょう……?


調査レポート

 ご報告申し上げます。

 モーツァルトが病死したのか、それとも殺されたのか、実はまだよく分かっておりません。 
 ただ、彼の死体には足の付け根から腹にかけて腫瘍がいっぱいあり、毒物中毒のような様相を呈していたこと、また死の半年前にモーツァルトが妻コンスタンツェに「誰かがぼくに毒を盛ったようだ」と語ったこと---などから、すでにモーツァルトが死んだ直後の新聞にも「毒殺されたのではないかと噂されている」と報道されておりました。
 そして、昨今の研究でも、彼はやはり殺されたらしい、という見方が濃厚になりつつあるのであります。 カーネー(1963)は「今日ではモーツァルトが毒殺されたとみる方が妥当である」と述べております。

 では、殺されたとすれば誰に殺されたのでありましょうか?
 昔から何人かの容疑者がおりました。

(1)サリエーリ

 アントーニオ・サリエーリ(1750-1825)はウィーンで一世を風靡したイタリアのオペラ作曲家で、ベートーヴェンやシューベルトやチェルニー、リスト、フンメル、モシェレスらの先生としても有名であります。
 当時宮廷楽長をつとめていたサリエーリがモーツァルトの才能を妬み、自分の地位を脅かされることを恐れて毒殺した、という噂はかなり広く流れておりました。 晩年、精神病院に入院したサリエーリが「わしはモーツァルトを毒殺したんじゃ!」と言ったことが噂に輪をかけ、ベートーヴェンも晩年の会話帳に恩師サリエーリによる暗殺説を記しているのであります。
 ロシアの文学者プーシキンもこの説を題材に戯曲「モーツァルトとサリエーリ」を書き、リムスキー=コルサコフがオペラ化しましたし、映画『アマデウス』もこれに基づいたものです。

 しかし、サリエーリ犯人説は今では否定されております。
 1790年、音楽好きのオーストリア皇帝ヨーゼフ2世が亡くなると、サリエーリも宮廷楽長の地位を退きます。 モーツァルトはチャンス到来とばかりに後任ポストを得ようと奔走しますが、新皇帝レオポルト2世は全く音楽に興味が無く、彼の努力は無駄に終わります。
 このような度重なる失敗で銀食器を質に入れるほど落ちぶれた晩年のモーツァルトを、地位と名誉を築き上げたサリエーリがライバル視して暗殺することは有り得ないのであります。

(2)フリーメーソン

 モーツァルトが、国際的な秘密結社フリーメーソンのウィーン支部に属していたことは周知の事実でありますが、その最後の歌劇「魔笛」の中で、門外不出とされるフリーメーソンの伝授の秘儀を暴露したため、怒ったフリーメーソンが刺客を送り込んだ---とも言われております。

 この説には決定的な弱点があります。 火と水の儀式を台本に書き込んだのはモーツァルトではなく、劇場支配人のシカネーダーなのであります。 にも関わらず、シカネーダーは1812年に61歳の天寿を全うするまで、命を狙われるようなことはなかったのであります。


 真犯人を探るには、もう一度状況証拠を整理する必要があるようであります。
 モーツァルトの死を巡って、いくつかの不可解な謎が報告されております。 真犯人はこれらの謎をすっきりと解明できる位置にいる人物でなければなりません。

 まず、死因の謎。 腎臓病だという説もありますが、モーツァルトの創作は最後の2年間に激減しており、急激な体力の消耗を伴う健康の悪化がこの頃に起こったと考える方が妥当であります。 こうした観点から、フィルヒョー、ザウアーブルッフはじめ多くの医学者たちが主張する亜急性水銀中毒が、モーツァルトを死に追いやった主因と思われるのであります。
 従って、真犯人はモーツァルトに水銀を盛ることが出来た人物ということになります。

 次に、あまりに異様な埋葬の状況。 ウィーンでは遺体は数日安置されるのが普通なのに、モーツァルトの場合は十分に検死もされないまま、すぐに貧民用の共同墓地に運ばれ、今ではそのありかが不明になっているのであります。
 このことは、犯人は遺体が検死されることを極度に恐れ、死因がうやむやのうちに埋葬されてしまうように仕組んだことを示しているのではないでしょうか?
 逆に言えば、モーツァルトの葬儀・埋葬について影響力を行使できるほど近い人物が犯人だったのではないでしょうか……?  

 
 この線で調査を進めた結果、二人の人物が容疑者として浮上して参りました。

 一人はモーツァルトの妻コンスタンツェであります。 しかし彼女には殺害の動機がありません。 借金漬けの旦那が死ねば、負債は全部、後に残された彼女の肩にのしかかってくるのであります。

 もう一人はどうでしょうか。 

 この男はゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵(1733-1803)。 オーストリアの女帝マリア・テレジアの侍医として名高い世界的医学者ヘーラルト・ヴァン・スヴィーテン教授の息子で、高い教養と趣味を持つ外交官OBであります。 カール・フィリィップ・エマヌエル・バッハに6曲の弦楽のための交響曲を委嘱したり、若き日のベートーヴェンを保護してその第1交響曲を献呈されたりしており、ハイドンのオラトリオ「四季」の台本の大半を書いたのも彼であります。
 モーツァルトも男爵のサロンに出入りし、20歳以上も年長のこのパトロンと親友になったのでした。

 ここで、モーツァルトが女遊びの結果、梅毒に感染したとしましょう。 彼は思い余ってヴァン・スヴィーテン男爵に相談し、男爵は当然亡き父の処方箋をモーツァルトに示すでありましょう。 そして、父ヴァン・スヴィーテン教授の梅毒治療薬は、水銀を調合したものだったのであります。

 モーツァルトは何か月もその薬を飲み、健康を害しました。 それに気付いた時、彼は妻に「ぼくはくは生きられない。毒を盛られたんだ」と言ったのであります。 しかし、「誰に」盛られたとは言いませんでした。 それはそうであります。 自発的に飲んでいたのだから。

 1791年12月5日の早朝、モーツァルトが息を引き取った時、友人の中で真っ先に駆け付けたのはヴァン・スヴィーテン男爵でした。 即刻、聖マルクス墓地で葬式を執り行わせたのも男爵であります。
 男爵は、自分が処方した水銀薬でモーツァルトが死んだ事実を明らかにされることを大変に恐れたのでありましょう。 当時それは重罪で、良くても社会的地位の喪失、悪くすれば絞首刑でした。
 たぶん男爵は真実を寡婦コンスタンツェに打ち明け、彼女もスキャンダルを恐れて、亡夫を共同墓地へ埋葬することに同意したものと思われます。
 わずか10人ほどの友人が棺のあとに続きました。 しかしこの日は凍てつくような吹雪でした。 シュトゥーベン城門まで来た時、仲間に引き返すよう説得したのはヴァン・スヴィーテン男爵に違いありません。
 こうして、見送りの知人たちも立ち去り、モーツァルトの遺骸は墓掘り人夫によって、今ではいずことも知れぬ位置へ埋葬されたのであります。

 コンスタンツェは後になって夫の手紙を何通か焼き、二番目の夫と一緒に手紙の数カ所を読めないように抹消したと述べております。 こうして、モーツァルト“殺害”の真実は闇へ葬られたのでありました。

 ……と、ここで調査を終了しようと思ったのでありますが、 実はこの説よりもさらに新しい研究結果が1983年に発表されていたのであります。

 それによると、真犯人はフランツ・ホーフデーメルという男で、ウィーンの最高裁判所の書記官をしていた者であります。 彼は妻マグダレーナがモーツァルトと不倫をしていたことを恨み、モーツァルトを暗殺した---というのであります。

 マグダレーナは社交好きな女性で、モーツァルトにピアノを習っていました。 彼女とモーツァルトの浮気は当時の上流社会では知らぬ者のいない話題で、チェルニーもベートーヴェンもケッヘル(モーツァルト研究家)も知っておりました。

 そんなに公然の秘密なら、モーツァルトの妻コンスタンツェもおそらく知っていたでありましょう。 では、コンスタンツェがモーツァルトに殺意を抱いた可能性は?
 多分、ないでしょう。 と言うのも、すでにコンスタンツェ自身が他の男と浮気をしていたからであります。

コンスタンツェ(1762-1842)
コンスタンツェ・モーツァルト(1762〜1842)
 相手はフランツ・クサーヴァ・ジュスマイアー(1766-1803)。 モーツァルトの弟子でその未完の「レクイエム」を完成させたことでも知られますが、コンスタンツェにモーツァルトの四男を生ませたのも彼だと言われております。 四男は1791年7月26日に生まれましたが、モーツァルトは前年の9月22日から11月10日までオーストリアの新帝レオポルト2世の戴冠式のためにフランクフルトに旅行していたので、この子がモーツァルトの子である可能性は低いのであります。 さらに、この四男は「フランツ・クサーヴァ・ヴォルフガング」と名付けられているのであります。

 仕事はうまく行かない、妻は他の男に寝取られる……くしゃくしゃしたモーツァルトが弟子の魅力的な人妻マグダレーナと道ならぬ恋に陥ったというのは、確かに有り得る話であります。 モーツァルトが死んだ時、マグダレーナは妊娠5ヶ月でありましたが、その子はモーツァルトとの間に出来たのでは……と考える人々もおります。

 さて、妻の浮気に逆上したフランツ・ホーフデーメルはイタリアの毒薬「アクア・トファナ」を入手してモーツァルトに飲ませました。 この毒薬は飲んでから効くまで数ヶ月かかると言われ、暗殺にはもってこいの薬です。 モーツァルトが死の6ヶ月前に「毒を飲まされたらしい」と語っている事実は、これを指すので符合致します。

 1791年12月5日、モーツァルトの死を知ったホーフデーメルは、妻マグダレーナに襲いかかり、剃刀で顔や体の至る所を切り裂き、最後に自分の咽喉を切りました。 モーツァルトの葬儀に出席した帰りの友人が立ち寄ったのでマグダレーナは一命を取りとめましたが、ホーフデーメルはすでに息絶えていたのであります。

 不思議なことに、ホーフデーメルの事件はモーツァルトの死とはわざと関連付けないような新聞報道がなされました。 例えば『ウィーン新聞』はホーフデーメルの死亡日を12月10日と書き(この日は葬儀日)、事件を追い始めた地方紙も最後には「ホーフデーメル氏の自殺の原因は、単なる彼の気の弱さからであった」と結論付けております。
 もみ消し工作が行われたことは、モーツァルトがオーストリアの誇る天才作曲家であったこと、またホーフデーメルも仮にも公職にあったこと、そしてマグダレーナが皇帝や皇后はじめ宮廷関係の人々から同情を寄せられていたこと、などを考えれば不思議ではありません。
 
 さて、ではモーツァルト暗殺の真犯人は、ヴァン・スヴィーテン男爵なのか、それともホーフデーメルなのでありましょうか?
 いずれの説にしても絶対確実な証拠があるわけではなし、また新しい説が登場するかも知れないし、今のところは不明、としておくのが最も賢明な方法でありましょう。 200年間解決できなかった殺人事件が、そう簡単に一件落着するとは思われないのであります。

 以上、ご報告申し上げます。

さあ、気分を変えて!


《主な参考文献》詳しく知りたい人は読んでみよう!

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©1997 早崎隆志 All rights reserved.
更新日:1997/9/28

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