依頼内容

 ロッシーニは大変人気のあったオペラ作曲家で、19年間に39曲の歌劇を書き、特に1812年から18年の7年間27作という超ハイペース(年3〜4本!)でオペラを書き飛ばしたそうですね。

 特に、最も有名な歌劇「セビーリャの理髪師」を作曲した時の早業は有名です。
 1815年12月26日にローマのヴァレ劇場で歌劇「トルヴァルドとドルリスカ」を上演して失敗に終わったロッシーニは、その日のうちに同じローマのアルジェンティーナ劇場と契約し、翌年1月20日までに次の歌劇の、少なくとも第1幕までは仕上げると約束しました。
 こうして書き始められた「セビーリャの理髪師」は、上演には2時間以上かかりますが、作曲はわずか13日で仕上げられました。 13日でオペラを書けるものかと聞かれたドニゼッティは、「そりゃ書けるさ。奴は怠け者だから」と答えたといいます。

 確かにロッシーニは大の面倒くさがり屋でした。 「セビーリャの理髪師」全曲を書き上げ、いざ初演という段になって、序曲を作るのを忘れていたことに気付いたロッシーニは、もうめんどくさくなって、前年10月に上演して評判の良かった歌劇「イギリスの女王エリザベス」の序曲をそのまま使い回しをすることに決めるのですが、実はこれも1年前の歌劇「パルミラのアウレリアーノ」の序曲を転用したものです。 こんなことは日常茶飯事でした。 

 「セビーリャの理髪師」の初演(1816年2月20日)は歴史に残る大騒動となりました。
 当時の有名なオペラ作曲家パイジェルロも同じ題材をオペラ化していたため、ロッシーニは題名を「アルマヴィーヴァ」に変えましたが、それでも初演の席には多数のパイジェルロ支持派が妨害のためにやってきました。 そこにはアルジェンティーナ劇場と対立関係にあるヴァレ劇場の回し者も多く加わっていました。 彼らはイタリア中の“口笛屋”を集めました。

 幕が開くや、凄まじい野次と口笛攻勢です。 アルマヴィーヴァ伯爵がロジーナへセレナードを歌おうとするとギターの弦が切れ、有名な「私は町の何でも屋」は口笛と笑い声で聞こえず、フィナーレでは舞台の上に猫が飛び出してきたので、通奏低音ピアノを弾いていたロッシーニはそれを中断して猫を追い回す……という始末で、第2幕ではお客のほとんどが帰ってしまいました。

 大失敗の上演後、歌手たちはロッシーニがさぞかししょげているだろうと思い、慰めるために宿へ行ってみると、ロッシーニはもうぐうぐう寝ていました。 彼は友人に、

「『セビーリャ』がぼくの最高傑作であることは間違いないし、みんなもいつか気付くだろう」
と語り、もう聴衆の反応に興味を失っていて、翌日は劇場をのぞこうともしませんでした。
 その夜中、ロッシーニは興奮したローマの市民たちの歓声に起こされました。
「すごいじゃないか!」 友人が言うと、ロッシーニは「すごいって? 彼らは間違いを改めただけだよ」……

 このようにロッシーニは大ヒットを生み出す超売れっ子オペラ作曲家だったわけですが、決して人気だけの流行作曲家ではありませんでした。 ベートーヴェンは1822年、自分がロッシーニに追い越されると思い、「ロッシーニは私と同時代の極めて重要な作曲家ケルビーニと並び称される」と記していますし、ワーグナーもロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」について、「彼の音楽がなかったらシラーの戯曲に興味を持つ者は誰もいないであろう」と述べています。

 名実ともに偉大な作曲家と見られていたロッシーニは、1829年8月3日、最高傑作とされる歌劇「ウィリアム・テル」をパリで初演し、成功を収めます。 このオペラは最初5幕で5時間もかかる長大なもので、町でロッシーニに会ったファンが
  「昨夜『ウィリアム・テル』の第2幕を拝見しました」
と言うと、ロッシーニは
  「何ですって? 第2幕の全部を!」
と驚いてみせたといいます。

 ところが、このオペラが上演されて大成功を収めた直後、人気と実力の絶頂にあったロッシーニは突如、音楽界からの引退を発表したのです。
 この時ロッシーニはまだ37歳。 とても隠居するような年齢ではありません。 しかし残る39年の人生の間、ピアノ小品や歌曲、若干の宗教曲などを思い出したように書いた程度で、二度とオペラに手を染めることはありませんでした。
 一体なぜ、人生の半ばで作曲家としての栄光を放棄してしまったのでしょう? その背景にはどんな謎が隠されているのでしょう? 



調査レポート

 ご報告申し上げます。

 ロッシーニが作曲家を突然廃業したのは、楽才が枯渇したからでも、怠け者だったからでも、色恋沙汰からでも、病気からでもありません。
 彼が引退したのは、何と、料理に没頭し、高級レストランを開き、豚を飼育するためだったのであります。

 ロッシーニの後半生は、パリでは私的な美食家専門レストラン「グルメ天国」を切り盛りし、ボローニャではトリュフを掘る豚を飼育する毎日でした。
 音楽の世界でと同様、料理の世界でも彼は有名になりました。 牛フィレ料理「ロッシーニ風トゥルネードー」は今も伝えられております。

 ロッシーニを崇拝していたワーグナーが、彼を自宅に訪ねたことがありました。

 ワーグナーは楽劇用の劇場の将来について語ろうとしました。 しかし話が佳境に入ろうとするたびに、ロッシーニは失礼といって中座し、数分後に戻ってきては「話はどこまででしたっけ?」と聞くのです。
 「たびたび席を立たれるのはなぜです?」と聞くワーグナーに、「失礼しました。 鹿の肉が火にかかっていて、絶えずたれをかけてやらねばならないのですよ」とロッシーニは説明しました。

 ワーグナーの音楽談義に、ロッシーニは豚の飼育の講義で応じました。  

「豚は食用としてだけでなく、何より狩りに役立ちます。食用黒ダイヤ---つまりトリュフ(西洋松露)の狩りにですよ。樫の林にはトリュフの芽が指の関節くらい深く土の中に埋まっていて、それを子供の狩猟雌ブタは、そのピンクの鼻で嗅ぎ分けるのです。
 「ピエモント産の白いトリュフの魅惑的なかぐわしい香りを御存知ですか? 私はかつて二度泣いたことがあります。最初はパガニーニを聴いた時、二度目はある船遊びの折り、ピエモント産のトリュフが一杯詰まった七面鳥が船から落っこちてしまった時です。お分かりですか?」
 ワーグナーには分かりませんでした。 ロッシーニほどの才能ある芸術家がなぜ音楽を捨て去ってしまったのか……「マイスタージンガーの創造者と、マイスター料理の創造者の間に理解をつなぐ橋はなかった。 トリスタンとトリュッフの間の溝は、たとえようもなく大きかった」(E.W.ハイネ)のであります。

 ロッシーニの人生半ばの転身は、例えて言えば、「ワーグナーが35歳で残りの半生を豚の飼育のため移住する」(ハイネ)ようなものであります。 そうであったら、「トリスタンとイゾルデ」も、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」も、「ニーベルングの指環」も「パルジファル」も、全て生まれなかったでありましょう 。
 そんなことは、普通、我々には信じられません。
 しかし、ベルリオーズがいみじくも記したように、「音楽はイタリア人にとって官能的な喜びそのもの」なのであります。 ロッシーニにとっては、ピエモント産トリュフを嗅ぎ分ける子豚は、「パルジファル」よりも崇高なものなのでありました。

 いやはや。

 しかし、「音楽も喜び。 食も喜び。 その間には何の違いもない」という率直な物の見方には、「音楽は崇高」といった先入観を見直す意味でも、考えさせられるのであります。
 また、現実的な感覚に長けていたロッシーニは、物事の引き際というものを良く心得ていたとも言えます。 オペラ・ブッファはそろそろ飽きられ、ヴェルディやワーグナーの時代となりつつありました。
 大胆果敢にして素早い決断---この点でも、我々はロッシーニに教えられることは多いのであります。
 以上、ご報告申し上げます。いやはや……



《主な参考文献》詳しく知りたい人は読んでみよう!

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©1997 早崎隆志 All rights reserved.
更新日:1997/9/28

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