依頼内容

 チャイコフスキーの死因は今まで一般にコレラだと言われています。 でも、本当にそうなんでしょうか?

 多くの本に書かれているチャイコフスキーの最後は、つぎのようなものです。

 「悲愴」交響曲初演の4日後の1893年11月1日、チャイコフスキーは、アレクサンドル劇場で芝居を見た帰り、真っ赤な顔をしてレストラン・ライナーに入り、「ネヴァ水(ネヴァ川の水)をくれ」と言った。ボーイが驚いて「今コレラが流行っているから、ミネラル・ウォーターしか差し上げられません」と答えたら、彼は周囲がびっくりするほど興奮して「ぐずぐず言わずに注文通り早く持って来い!」と怒鳴りつけ、運ばれてきたネヴァ水を一気に飲み干した。
 翌朝、彼は発病した。弟モデストが医者を連れて来ると、チャイコフスキーは医者に向かって「ほっといて下さい。看て下さってもどうせ駄目です。私の病気は治りません」と弱々しくつぶやいた。 11月5日には、医者はみな匙を投げた。臨終の席には二人の弟、モデストとニコライを含め、16人が立ち会った。眠っていたチャイコフスキーは、急に目を開けて周囲の者を静かに眺め渡したが、それも束の間、突然目の光が消え失せ、最後の息を引き取った……。


 1970年代までは、これがチャイコフスキーの最後だと信じられてきました。しかしここにはおかしな点がいくつもあります。

 まず、通常のコレラの潜伏期から考えて、感染後5日で死亡というのは短すぎます。訃報を聞いた友人たちは誰もが「えっ、まさか!」と驚きました。 その死が余りにも唐突過ぎたからです。

 次に、コレラ患者の死の床にしては、立ち会った人数が16人というのは異常に多すぎます。 
 コレラが大量の死者を出す恐るべき伝染病であることは当時から知られていました。激しい下痢、嘔吐、排尿で脱水症状を起こし、治療を施さない場合死亡率は50%を越えます。感染力が非常に強いので、患者は隔離され、布団は焼かれ、家は徹底的に検疫されるし、患者の遺体は鉛の棺に収められます。 これは当時の常識でした。
 ところがチャイコフスキーの場合、布団は燃やされず、洗われただけでした。 それどころか遺体も死後二日間も公開して安置され、葬儀の日にはあらゆる階級から多数の市民が弔問に集まり、遺体の手や顔に口づけをしたのです。 チャイコフスキーが本当にコレラで死んだなら、こうした状況は余りにも不可解ではないでしょうか?

 結論は一つしかありません。チャイコフスキーはコレラで死んだのではないのです。

 では、チャイコフスキーの本当の死因は何だったのでしょう?


調査レポート

 ご報告申し上げます。

 チャイコフスキーの死の真相に関しては、1978年に、当時ソ連にいた女流音楽学者アレクサンドラ・アナトリエヴナ・オルローヴァが驚くべき研究報告を致しました。それは従来のチャイコフスキー観を根底から覆すショッキングな内容でありました。

 チャイコフスキーは実はホモでありました。それがばれ、封建的な旧ロシア社会の圧力で彼は自殺を強要されたのであります。

 彼は日記に書いています。「今日、Zが異常に激しく私を苦しめる。おー、神よ、私がどんなに苦しんでいるか、Zの感情にでなく、なによりもそれが私の中にあるという事実に。」
 Zとは、彼が必死に隠そうとした同性愛的性向のことであります。彼は世間の目をごまかすため、好きでもない女性と結婚したり(これは悲惨な失敗に終わりました)、金持ちの未亡人ナデージダ・フォン・メック夫人から毎年6000ルーブルという多額の資金援助を受けたりしました。しかし彼の情熱はこれらの女性には注がれませんでした。

 実際、フォン・メック夫人との交友も文通に限られ、二人は生涯に一度も顔を合わせることはありませんでした(一時期は同じ町に住んでいたというのに!)。また、夫人に

「友人同士で普通やるように、私のことを『君』と呼んでほしいのです」

と頼まれたチャイコフスキーは、あわてて、

「あなたを『君』と親しげに呼ぶようにおっしゃいましたが、私は戸惑ってしまいます。このような戸惑いこそ、私たちの関係で避けたかったことではありませんか」

と断っているのであります。
 結局、メック夫人との関係はプラトニック・ラブといったものではなく、彼女はチャイコフスキーの単なる金づるに過ぎなかったのであります。 1890年に彼女から年金停止の知らせを受けたチャイコフスキーは激怒し、二人は絶交状態になってしまいます。

 チャイコフスキーが本当に深く愛したのは、彼が優しく「ボビック」と呼んだ甥で出版商のウラディーミル・ダヴィドフでありました。 しかし他にも何人かの愛人がいました。その中の一人はある侯爵の甥で、ひょんなことからその侯爵に大作曲家との仲を知られてしまいました。 そしてこの侯爵は、何と、ロシア皇帝アレクサンドル3世に直接手紙を書いて訴えたのであります。

 困った皇帝は、この件の処理を検事総長ニコライ・ヤコビに任せました。ヤコビは、法律学校の同窓生チャイコフスキーが同性愛という破廉恥な罪で母校の名誉を傷つけたことで怒り、また、ロシアの大作曲家としてのチャイコフスキーのブランド・イメージを守る必要も感じました。
 そこでヤコビがやったことは、秘密法廷を開き、チャイコフスキーに名誉の自殺を求める判決を言い渡すことでありました。 自殺用の毒薬(砒素とされる)は後日判事が届けることになりました。 チャイコフスキーは真っ青になって震えながらヤコビの家から飛び出していきました。

 第6交響曲を書いている最中のチャイコフスキーは、かつてないほど自信に満ちていました。 第1楽章を4日足らずで書き終えた時、「私は人生のうちで今ほど充実し、誇らしく、幸せなことはなかったと誓って言えます」とユルゲンソン出版社に書き送っています。
 ところが秘密法廷の直後から、チャイコフスキーは抑鬱状態となりました。 交響曲のリハーサルの時、彼の顔色は真っ青で、「チャイコフスキーは妙にぼんやりしているように見えた。 悪寒が彼の体を走った。 彼はただ指揮者になりきろうと焦っていて、中断し、訂正したり、何か集中できなかった。 時折彼はオーケストラに向かって、愛情を込めて弾いてくれ、これが私の告別の曲だとは思わないかい、永遠の別れだと? と訴えているようであった。」(クルト・パーレン)

 チャイコフスキーがこの交響曲のタイトルを弟モデストと相談して「パテティチェスキー(悲愴)」に決め、出版社ユルゲンソンに宛てて指示したのは、初演わずか2日後でした。 この焦りもチャイコフスキーの置かれた状況から考えれば、当然でありましょう。

 11月1日、レストラン・ライナーに入った夜も、チャイコフスキーは愛人ウラディーミル・ダヴィドフその他2、3人の美青年と一緒で、彼はマカロニを食べ、ミネラル・ウォーター入りの白ワインを飲んだだけでありました。 彼はコレラなどには感染しなかったのであります。

 チャイコフスキーの抑鬱状態はひどくなり、閉じ込もって独り言をぶつぶつつぶやいたり、すすり泣いたり、囚人のように部屋をうろつき回るようになりました。「まるで逃げ場を失った人みたいだった」そうであります。
 書類を整理し、遺言状に目を通し、……そして、毒薬を持った死神は、11月5日の夜に現れました。
 チャイコフスキーは遂に毒を飲みます。 兄の苦しみに驚いた弟モデストが医者を呼んだものの、砒素を飲んだのでは手の施しようがありません。 4時間後、「悲愴」の作曲者は、封建的なロシア上流社会の掟に従い、“悲愴”な死を遂げたのであります。

 彼の死の真相は注意深く隠し通され、今日に至りました。 この「チャイコフスキー自殺説」はまだ学界の定説とまではなっておりませんが、大変有力な説ではあります。 もしチャイコフスキーが現代に生きていれば、同性愛者だというだけで死に追いやられることはなかったでありましょう。 歴史に“もしも”はありませんが、いや、かえすがえすも惜しい才能を失ったものだと、わたくし調査員は思うものであります。
 以上、ご報告申し上げます。 ここらでコーヒーでも……

 オルローヴァの研究に関する追加報告

 オルローヴァ説への反論


《主な参考文献》詳しく知りたい人は読んでみよう!

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更新日:1997/9/15

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