ルネサンス音楽の最高峰。
ラテン語では「ヨドクス・プラテンシマ」、イタリア語では「ユスキー」と呼ばれる。
- 1440頃
- フランドル地方仏語圏のボールヴォワール (サン・カンタン近郊) に生まれる。
- 若くしてイタリアへ上京。
- 1459〜1474 (20〜35歳頃)
- ミラノ司教座大聖堂の歌手。
- 1474 (34歳頃)
- ミラノ公直属の宮廷礼拝堂聖歌隊へ抜擢される。
ジョスカンを引っこ抜いたのはミラノ公ガレアッツォ・マリア・スフォルツァー (位1466〜1476) だ。
彼は、1450年にミラノ公国を奪った傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァーの息子で、残虐趣味と色欲に溺れて人民を困窮の底へ追いやったとんでもない君主だが、文化保護だけは人一倍熱心だった。
しかしガレアッツォ・マリアは余りの暴政のため1476年に暗殺され、その子ジャン・ガレアッツォ・マリア (位1476〜1481) (8歳) の摂政である公妃ボーナは経費節減の一策として聖歌隊を縮小した。
この時、ジョスカンもくびになってしまう。
- 1476 (36歳頃)
- 宮廷礼拝堂聖歌隊をやめ、枢機卿アスカニオ・スフォルツァーの礼拝堂聖歌隊へ移る。
幸い、ガレアッツォ・マリアの弟の枢機卿アスカニオ・スフォルツァー (1455〜1505) がジョスカンを雇ってくれた。1476年、ジョスカンはアスカニオに連れられて、ローマにある彼のカペルラへ。
楽しいフロットーラ「こおろぎ (El grillo) 」はこの頃の作品だ。
が、この新しい主人は、「お給料を下さい」と頼んでも、「任せなさい」と調子のいいことを言うばかりで、ちっとも払ってくれない。
そこでジョスカンは一計を案じ、ミサ曲「ラ・ソ・ファ・レ・ミ」を作曲した (1502刊) 。 定旋律ラ・ソ・ファ・レ・ミは、枢機卿アスカニオの口癖 “Lascia fare mi(私に任せろ Laise faire moy)” のもじりだ。 (グラレアヌス (1488〜1563) による。)
この、音楽による俸給要求が通ったかどうかは定かでない。
- 1486〜1499
- 枢機卿の人脈により、ローマ教皇庁礼拝堂の歌手も努める。
- この間、ミサ曲やシャンソンの名曲の数々を発表し、ジョスカンの人気はうなぎのぼりに高まった。
- 1501
- シャンソンやモテトゥスを含む「オデカトン」 (1501刊) が出版される。
- 1501〜1503
- フランス国王ルイ12世 (位1498〜1515) の宮廷で活躍?
シャンソン「千々の悲しみ」「かわいい獅子鼻娘よ」、ファンファーレ「国王万歳」 (ルイ12世に献呈) はこの頃の作品か。
- 1502
- ヴェネツィアの出版商ペトルッチが「ミサールム・ジョスカン (ジョスカンのミサ曲集) 」第1巻 (1502刊) を出版。
- 1503〜1504
- フェラーラ公国の宮廷楽長。
- 1505
- ミサ曲「フェラーラ公エルコーレ (ミサ・エルクレス・ドゥクス・フェラリエ) 」 (4声) (1505)作曲。
フェラーラ公エルコーレ1世の名を音名唱法 (ソジェット・カヴァト (Soggetto Cavato) ) で定旋律として利用。
公の名 Hercules Dux Ferrarie の母音 e-u-e-u-e-a-i-e をドレミファに当てはめ、
re-ut-re-ut-re-fa-mi-re、即ち、レ-ド-レ-ド-レ-ファ-ミ-レ
という音列を導き出している。
- 1504〜1521
- フランドル地方エノー伯領内の町コンデ・シュル・レスコーの教会で活動。
- 1505
- ヴェネツィアの出版商ペトルッチが「ミサールム・ジョスカン (ジョスカンのミサ曲集) 」第2巻 (1505刊) を出版。
- 1514
- ヴェネツィアの出版商ペトルッチが「ミサールム・ジョスカン (ジョスカンのミサ曲集) 」第3巻 (1514刊) を出版。
- 1515頃
- ジョスカンのミサ曲の最高傑作と言われる「ミサ・パンジェ・リングヮ」作曲。
- 1521年8月27日
- 最後はコンデの大聖堂首席司祭まで登り詰めて世を去った。
- 1545
- パリの楽譜出版商スザートによりシャンソン集 (1545刊) 刊行。
- 1549
- パリの楽譜出版商アテニャンによりシャンソン集 (1549刊) 刊行。
- 1556
- パリの楽譜出版商ル・ロワとバラールによるモテトゥス集 (1556刊) の出版。
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